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 珍しく子供のように甘えて読み聞かせを静かに聞くクオンに、絵本に記された文字を追って口に出すナミは、


(――― 普段とのギャップがえぐい!!)


 ぎゅんと胸を引き絞られながら内心で大きく叫んでいた。
 常の穏やかさに飄々とした雰囲気をのせてまとい、凛と背筋を伸ばして澄ました顔で笑い、時にからかうようにして嘯き、緊急事態や戦闘時ともなれば鋭い刃のような気配を迸らせるクオンのふわふわとした空気を浴びるのは初めてではない。しかしいまだに慣れない。
 穏やかな微笑みは浮かべはしても、気を許されたのかと思って触れようとすればさりげなく身を引いて躱す気高い犬のようなのに、ナミに─── 仲間である麦わらの一味に対しては腹を出して尻尾を振る幻影が見える。だからつい甘やかして、高速で振られる尻尾とぴんと立つ耳を幻視して、思わずその雪色の髪がぐしゃぐしゃになるほど撫でて掻き回したくなる。そしてそれをすれば嬉しそうに笑う気がする。
 ダメだわこの子、しまっとかないと。年上のめちゃつよ戦闘員にそんなことを思ってしまうナミだった。

 指摘すればクオンは気を引き締めてしまうかもしれないから口にはしない。いや、言ったところで「仲間なのに?」と言いたげな顔をする、どころか実際に口にするだろうが、取り繕ってしまう可能性もゼロではないのでナミは甘えてくるクオンをそのまま好きにさせた。
 そうすればまたクオンは距離を縮めてくれる。時々一足飛びに詰めてこられるときもあるが、それを許せばさらに近づいてくれることを、ナミはクオンになされるがまま許し甘やかしているゾロを見て学んでいた。
 だからいきなり近づかれても戸惑わないように、万が一にでもクオンに一片の躊躇いも抱かせないように、両腕を大きく広げて待ち構えるくらいの心構えでナミはクオンに向き合い、甘やかそうと改めて腹の底で固く決意した。






† ジャヤ 6 †






 「うそつきノーランド」という絵本は、よくある戒めをこめた童話だった。嘘をついてしまったがために死んでしまった男の話。
 探検家であるノーランドはあるとき、王に「偉大なる海のある島で山のような黄金を見た」と報告し、それを信じた王がノーランドと共に多くの兵士を連れてその島を目指し─── 果たして、辿り着いた島には何もなかったという。
 数多の犠牲を払った末の結果に、王達は怒り狂ったのだろう。タイトルにもある通りノーランドは「うそつき」として処刑された。そして本人は死の間際まで山のような黄金は海に沈んだのだと、己の嘘を認めることはなく。


「『もう誰もノーランドをしんじたりはしません。ノーランドは死ぬときまでウソをつくことをやめなかったのです』……」


 長くはない絵本の最後の一文を読み終えたナミが、ちらりと憐れむような眼差しで傍らで話を聞いていたウソップを見やる。


「憐れ、うそつきは……死んでしまいました…“勇敢なる海の戦士”に…なれも…せずに…」


 絵本を閉じながらはぁ…と切ないため息と共に付け足された文章に「おれを見んなぁ!切ない文章勝手に足すなぁ!!」と目を吊り上げてウソップがツッコミを入れ、2人の気心の知れた戯れにクオンは肩を小さく震わせて笑みをこぼした。
 と、そのとき。


「ぎゃあああ~~~!!」

「ルフィ!?」


 唐突に響いたルフィの悲鳴にはっとして全員の目がそちらに向く。絵本に夢中になっていたクオンもナミから身を離して海に落ちたルフィを振り返り、入れ替わるようにして「てめぇら誰だ」と厳しい問いを口にしながら海から上がってきた男に視線を鋭くした。


「おいウソップ、ルフィを拾っとけ!」

「ウソップ、お願いしますね」


 ウソップに向けた声はかろうじて優しさを残してはいるが、両手に針を携えゆるんでいた空気を瞬時に冷たく張り詰めさせたクオンがナミを背に庇いサンジの後ろに控えて戦闘態勢に入る。不穏な気配に飛び起きたハリーもクオンの膝から右肩へ即座に移ると背中の針を逆立てた。
 ルフィを海に引きずりこんだらしい男は剣呑に目を据わらせ、煙草を咥えて隙なく構えている。空気がひりつくほどの敵意が叩きつけられた。


「人のウチで勝手におくつろぎとはいい度胸。ここらの海はおれのナワバリだ」


 男の“敵”に向ける低い声音で紡がれた台詞にクオンが目を瞬かせる。ということは、この男がモンブラン・クリケット。
 自分の倍以上の年齢だろう男は太く鍛え上げられた肉体を惜しげもなく晒し今にも飛びかからんとしている。年齢に応じたしわが刻まれた顔はいかついサルのようで、今日だけで2人見たサル男達の顔を何となく彷彿とさせた。
 ルフィを海に落としたのはこの男だが、男がモンブラン・クリケットであるなら自分の家の前で好き勝手している不審者を排除するのは道理だ。礼を失したのはこちらである。
 クオンがすぐさま戦意を解いて口を開こうとするも、それよりも男が動く方が早かった。


「狙いは“金”だな。死ぬがいい」

「お待ちください、私達にそのつもりはありません!」


 針をしまって身を乗り出すクオンの言葉を聞こうともせず、問答無用で男の鋭い蹴りが一番近くにいたサンジに向かって繰り出される。うわっ!と慌てて身をひねって避けたサンジに回し蹴りが追撃し、しかしそれをサンジはしゃがむことで避ける。だがその動きは読まれていたのだろう、体勢を整える隙も与えず手刀の突きが眼前に迫って、その突きを足で防いだサンジだったが、表情を変えることなく銃を抜いた男に目を瞠った。


「サンジ、伏せダウン!」

「おわっ!?」


 クオンが発動させた能力によってサンジがうつ伏せに地面へ勢いよく引き倒される。その頭上を弾丸が通過していき、地を蹴ったクオンは瞬く間もなく燕尾服の尾をなびかせて男の眼前に迫った。


「申し訳ございませんが、少々大人しくしていただきますよ」


 傷つける意図はないが、こちらの話に聞く耳を持たない以上制圧するしかない。なに、サンジと同じように少し地面と仲良くしてもらうだけだ。
 男は明らかに戦闘に慣れた動きをしている。単純な膂力と重ねた年齢と共に培った経験をもとにして繰り出される打撃と正確に狙いを定めて撃ってくる銃の合わせ技は、手を抜けばこちらが翻弄されるだろう。
 勝負は一瞬。電光石火はクオンの得意とするところだ。

 突如目の前に現れた真っ白い人間に目を瞠った男だが、反射で左足が振り上げられている。それを能力を使って右手の平でぱしりと軽く受け止めたクオンは、さらに大きく目を見開いた男の視界を遮るように左の手の平で顔を覆い───


「……ッ!ハ…ハァ…ッ!」

「おっと」


 突然がくんとくずおれた男を迷うことなく抱きとめた。銃が男の手からこぼれ落ちて地面に転がる。
 クオンはガクガクと痙攣する体を仰向けにしてゆっくりと地面に横たえる。苦悶の表情で胸を押さえる男の気道を確保しつつ頬に触れて体温を確認し、首に指を当てて脈を計った。
 痙攣、呼吸困難、頻脈、意識障害、胸の痛み─── 何かの発作のようだが、医者ではないクオンには診断が下せず、しかしちらりと男が現れた海を一瞥して症状に見当をつけるとすぐさま優秀な船医の名を呼んだ。


「チョッパー!この方を家に運びますので診てもらえますか!」

「え!?わ、分かった!」

「おい、オッサン?」


 自分よりも大柄な男を苦も無く横抱きにして抱えるクオンのもとにサンジが近づいて顔を覗き込む。
 先程まで暴れ回るほど元気だったというのに、いったいどうしたのか。ぐる眉を寄せるサンジの困惑を読み取ったクオンは穏やかに聞こえるよう努めて「大丈夫ですよ、発作が出ただけです。すぐにチョッパーが診ますので」と告げ、ウソップがルフィを抱えて戻ってきたのを横目にできるだけ揺らさないよう急いで男を家の中に運び入れた。そのあとに仲間達が続く。
 能力を使ってベッドの上に男を浮かせたクオンは元執事らしく慣れた手つきで近くにあったタオルで素早く男の体を拭う。それからゆっくりとベッドに沈めたところでイスをベッドの脇に置いてその上に乗ったチョッパーが男の容態を診た。


「私の見立てでは潜水病だと思うのですが、いかがですか」

「……うん、間違いない。とにかく換気して、あと体があたたまらないよう冷やさないと」

「ゾロ、すべての窓を開けてください。ナミ、サンジ、タオルを冷やして持ってきていただけますか?」


 クオンの指示に3人がそれぞれ動き出す。チョッパーが医者の目でより詳しく男を診察し、クオンはナミとサンジに用意してもらったタオルを男の額と太い血管がある位置にそれぞれ置いた。淀みなく動く医者ではないはずのクオンにチョッパーが目をしばたたかせる。


クオン、医者じゃないのにすごいな」

「最低限の医療の心得はとある岬の御老人に叩き込まれましたので。特に潜水病は海賊が知っておくべき病気のひとつでしょう」


 潜水病、または減圧症とも言われる病気は、海に生きる者と縁が近いものだ。必要なら高濃度の酸素を封じ込めた針を使ってもよかったが、とりあえずゆっくり休ませれば大丈夫だと医者が言うのでそれ以上は手を出さず、肩をすくめて苦笑するクオンに、隣で腕を組み男を覗き込んでいたゾロが聞き慣れない病名に眉を寄せて反復した。


「潜水病?」

「このおっさん病人なのか」


 ゾロに次いでルフィが目を瞬かせ、クオンはそれに頷きを返す。チョッパーが詳しい説明をするが、たぶんルフィには分からないでしょうねぇと思った通り、すらすらと語るチョッパーの説明を「─── ああ、怪奇現象ってわけか」としかつめらしい顔で窓の外を眺めながら要約したルフィに被り物の中に吐息のような笑みをとかした。全然違うが、まぁとにかく怖いことになるとだけ覚えてもらえればそれでいい。

 さて、あとは低体温にならない程度に体を冷やして男が目を覚ますのを待つだけとなり、ひと息ついたクオンは左腕の肘部分に無意識に触れた。触れたことに気がついたのは、「痛むのか」と隣から潜めた声がかかったときだ。かろうじてクオンにだけ届く声量でかけられたそれに、目を伏せたクオンもまた小さな呟きを落とす。


「……少しだけ」


 男の攻撃を止め、抱えて運び対処をするのに使った能力の反動は確かにクオンの体に負担をかけた。折れるほどではない。鈍い痛みと熱が多少ある程度。あとで湿布を変えなければ。
 クオンからしてみればそれは本当に些細なものだが、手を当てていたのを目にしてはゾロも見逃せなかったのだろう。だが正直に答えたクオンにそれ以上何も言わずに口を噤んでくれるらしい男に形の良い唇がゆるんだ。

 せっかくゾロが黙ってくれているのに、他の誰かに見抜かれ指摘されては少し困る。この場の全員の視線がベッドの上に横たわる男に集中しているのを見たクオンはベッドを囲む仲間の輪から外れたゾロに倣って腕を組み、ゾロの左腕に白い痩躯をぽすりと凭れさせた。
 体重をかけてもびくともしない安定感に目を細めて長く細い呼吸をする。触れた箇所から伝わる自分より少し高い体温が左肘の痛みを誤魔化してくれた。拒否することなくクオンを許しているゾロの横顔を被り物越しに一瞥し内心で唸る。


(うーん……最近どうにもゾロに甘え倒している気がします…たぶん癖ついてきてますし、これは果たして悪い傾向なのか…)


 それとも良い傾向なのだろうか。分からない。
 ビビならば喜んで受け入れてくれる。全力の狂喜乱舞で迎えてくれることを経験から知っていた。
 けれどゾロはどうだろう。その精悍な顔に一片でも嫌そうな色がにじめばすぐさまやめるつもりではいるが、こうして散々好き勝手にしてもゾロの表情に動きはない。好きにすればいいと受け入れられて許されているから、ならこれもいいのか、これはどうか、試すように距離を詰めてもそのすべてが許されて、加減が分からなくなりそうだ。
 元々パーソナルスペースが狭いのかもしれない。他人に簡単に心を開くような男ではないはずだが、軽度な接触くらいなら気にしないたちである可能性が高い。お前のそれ絶対軽度じゃない、とクオンの考えを聞いたらそう断言しただろうハリネズミは素知らぬふりでチョッパーの帽子に乗ってベッドの上の患者を見下ろしている。


(…………まぁ、いいか。私も許されて悪い気はしませんし。嫌がる素振りを見せたときにやめればいいだけで)


 聡明なはずの脳はすぐに考えることをやめた。答えが出ない自問に思考を割くよりも、今は己の低い体温と混じり合うようにして伝わってくる男の体温にまどろむ方が有意義な気がする。
 髪と同色の睫毛に縁取られた瞼が鈍色を覆い隠す。もしその双眸があらわになっていれば甘くたわんでいたことに誰かは気づいただろうが、被り物に覆われた秀麗な顔は誰の目にも映ることはなく、鈍色ににじむやわらかな熱は瞳の奥に沈んでいった。






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