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 クオンがロビンと共にメリー号へと戻ると、何やらぎゃんと吼えるナミの声が轟いて目を瞬いた。
 確かナミはルフィとゾロと共に町へ行っていたはずだが、あそこまで怒り狂うとはいったい何があったのだろう。ルフィとゾロがいて、本人にも怒鳴る元気があるのなら怪我はしていないと思うが。
 右肩に乗ったハリーがぱちくりと瞬き、ロビンも薄く笑みながら首を傾けた。


「随分荒れてどうしたの?」

「ただいま戻りました。ナミ、どうしましたか」

「ああっ♡お帰りロビンちゃん!!ってクオン、何でてめぇがロビンちゃんと一緒に!!」


 ロビンの隣を歩くクオンに気づいたサンジが盛大に妬み羨ましげな顔をして歯を食いしばる。まったく予想通りの反応にクオンが小さな笑声を被り物の中にとかして「お誘いを受けまして、少々デートに」と煽るように言えば、言葉にならない叫びを上げたサンジが筆舌に尽くしがたい顔をして崩れ落ちた。仲間をからかい肩を小さく揺らして笑うクオンの横で、ロビンは「楽しかったわ」と笑みを深めた。






† ジャヤ 4 †






クオンとロビン、どっか行ってたのか」

「ええ。服の調達と……空島への…“情報”でしょ?」


 帰ってきた2人を見てこぼしたルフィの言葉に、メリー号に乗り込み片手に携えた服が入った紙袋を掲げて見せたロビンが言い、途端ギンッと鋭い眼差しでナミが振り返って同じく船に足をつけたクオンを射抜いた。


「─── クオン!!!」

「はい?」

「空島は!!あるのよね!!!」


 その剣幕とナミの全身から立ち昇る怒気に、クオンは何となく原因を察した。気づかれないよう視線を滑らせてみれば、ナミと一緒に町に出たルフィとゾロが怪我を負って治療されたあとがあるのを認める。
 ここは夢を見ない無法者達が集まる町だ。夢を見ている方がバカにされ指を差されて追い出される町。クオンとロビンが酒場で笑われなかったのは、店主に理解があり、酒場の海賊達をロビンがうまく相手してくれて、アパレルショップの中年女性はクオンに恩義を感じていたからだ。
 クオンは被り物越しに真っ直ぐとナミを見返した。船長の望む島へ連れて行く強い意思に煌めく航海士の瞳が、僅かに揺らぎ翳っている。だがその揺れと翳りは、空島の存在をほのめかせたロビンの言を疑うことなく信じたクオンへの絶大な信頼で押し留められていて、ゆえにクオンは当然のように、あるがままの事実に頷くように、ナミの詰問じみた問いに即答した。


「ありますよ」

「……そう。なら、いいの」


 どこの誰とも知らない海賊達の罵倒と否定よりも、心から信頼する仲間のたったひと言を受け入れてあふれる怒りを押し留めたナミは深くため息を吐き出す。おお、流石クオン、とナミの圧に押されて八つ当たりされないよう少し距離を取っていたウソップが感嘆の声を上げた。


「信頼されているのね、執事さん。私だけだったら航海士さんはあんなふうにおさまらなかったわ」

「こればかりは付き合いの長さが物を言うので」


 そして、そうした厚い信頼を寄せてくれるからクオンはそれに応えたいと思うのだ。


「なぁクオン!それ何だ?うまそうな匂いがする!!」

「お土産です。ですがこれはまず先にサンジへ。ルフィにはまた別のお土産がありますので」


 クオンが持つ大きな風呂敷からもれる匂いに敏く気づき目を輝かせて近寄ってきたルフィに微笑み、ちらりとロビンの方に顔を向ければ、意図を読んだロビンはひとつ頷きを返すと懐に仕舞っていた地図をルフィに渡した。
 それを開いて眺めるルフィとウソップへ町で得た情報の説明をロビンに任せたクオンはサンジの方へ足を進める。


「というわけでサンジ、これはあなたへのお土産です」

「あ?何だこれ」

「おでんという料理ですよ。おいしかったのでお持ち帰りを頼んだところ、鍋ごといただきまして」

「はぁ!?てめぇおれ以外のメシ食ったのかこの浮気野郎!!おれのメシじゃ満足できねぇってのか!」

「………何やら盛大に誤解を招きそうな発言ですねぇ」


 料理を出す店のものを食べて浮気とは、これほど理不尽なこともあるまい。ロビンとのデートが羨ましすぎて少しネジが外れてしまったのかもしれない。

 クオンから風呂敷に包まれた鍋を奪い取り、いったいどこのどいつだクオンをたぶらかしやがって、とぷんすかしながら鍋の蓋を開いたサンジの目が途端に料理人のそれに変わる。すんと匂いを嗅ぎ、目で具材を確かめ、串に刺さったそれをひとつ手に取ると矯めつ眇めつ、ぱくりと口にすれば「……うまい」と隠せない称賛がこぼれた。
 どこぞの馬の骨から気骨のあるものへと昇段したようだが、対象はあくまで料理である。まぁ骨はいい出汁が取れますからね、と一連を眺めていたクオンは筋が通っているようでそうでもないことを思った。
 いそいそと鍋を持ってラウンジに引っ込んでいくサンジを見送るクオンの背に呆れのにじむ男の声がかかる。


「また貢がれたのかお前」

「ちゃんと買いましたよ。ゾロ、これはあなたにお土産です。ああ、1本はナミに回してあげてくださいね。米のお酒ともう1本好きな方をどうぞ」

「おう。ありがとう」


 甲板に座り込んでいるゾロの前にクオンも屈み、腕に抱えていた酒瓶の入った紙袋を渡す。その際に紙袋に入れておいた小説を抜き取って懐に仕舞った。
 酒と聞いて嬉しそうに口元をほころばせるゾロを眺め、しかし怪我については訊かなかった。ナミがあれほど怒り狂っており、ルフィとゾロが怪我をしているということは町にいる海賊にやられて、それでも反撃をしなかったということだろう。それでいい、それがいいとクオンは思うから何も訊かずに微笑む。
 ゾロの隣に腰を下ろしたクオンを見て、ちらとルフィ達と何やら話しているロビンを一瞥したゾロが低く問う。


「……あいつと一緒にいたのか」

「ええ、2人で少しお話を。大変に有意義な時間でした」

「お前から見て、あいつは信用できるのか」


 元バロックワークス副社長のロビンと一番因縁があるのはクオンと言えるだろう。信用するどころかロビン本人が考えた通り誰も気づかないうちにロビンを殺したとしてもおかしくはない。それほどの相手だ。ゆえの問いを受けたクオンはゾロからロビンへと視線を移し、ルフィ達に向かって微笑む彼女の横顔を見た。被り物の下で鈍色の瞳を細めて正直に答える。


「信用も信頼も、あなた達と比べれば程遠い。けれどマイナスではありません。彼女も自分の立場を分かっていて信用を積み立てようとしている。その姿勢には好感が持てます」


 ロビンは仲間だ。ルフィが許して仲間となった。ロビンの胸中がどうあれそう決まって、本人も信用されるよう、せめて張り詰めた警戒をゆるめてもらえるよう努力をしているからクオンも彼女の名を呼んでいる。


「彼女と私は似ています。だから、私はあなた達に許さ・・れた・・ことでこの船に乗ると決めたように、私も彼女を許そうと思っているのです」


 被り物に隠された秀麗な顔をやわらかくほころばせ、鈍色にあたたかな光を宿してクオンは笑う。
 与えられた愛を与えられたように他者へ与えようとするクオンの表情が透けて見えたゾロは「“浮気”か」と言いかけてやめた。言えばクオンはこう答えただろうと疑わない。

 ─── 本命ですよ、と。

 新参者のロビン含めた麦わらの一味全員がクオンにとっての本命だ。一途すぎるほどにクオンは己の愛を貫くことをゾロは知っていた。


「少なくとも今は信用できます。なぁに、心配はいりません。あなたが懸念したことにもきっとならない」

「何でそう言い切れる」

「言ったでしょう、彼女は私に似ている。だから─── 絆されるのはきっと早い」


 そうしてまた足踏みをしたり目を逸らそうとしたり背を向けようとしたりするのだけど、そうなれば都度こちらを向かせればいいだけの話。クオンがそうされたように。引いた線を灼いて、背けた視線を引き戻して、向けようとした背を肩を掴んで止める。大丈夫、彼らなら大丈夫なのだと、何も心配はいらないのだとクオンだからこそ言えるのだ。

 既に自分達よりも多く年齢を重ねたロビンは一筋縄ではいかないだろう。国を滅ぼすことも厭わず赦されない歴史を追い続け、その果てに一度は死を望んだ彼女を取り巻く闇はきっと深い。かつて絶望の底に叩き落とされたクオンを癒やした愛を知らず、あまりに強く胸を灼いた光をロビンはまだ知らない。
 静かな微笑みを湛えながらも彼女の目は闇に潰されている。生きる希望を失くし、それでも生き続けるために自分を生かしたルフィに理不尽とも言える責任を押し付けこの船に乗ることを選んだ。先の見えない暗い嵐の中を生きる彼女が、どうか小さな、あまりにかそけきささやかなものでもいい、しるべとなる光を見つけられればいいと、クオンは心から願っている。


「経験談ですよ。説得力があるでしょう?」


 被り物越しに伝わる声は低くくぐもり、抑揚を削いで感情を窺わせない。けれど笑っているのはよく判る。判ってしまうほどにゾロはクオンとの付き合いを深めてしまっていた。
 はじめは得体の知れない真っ白執事をひたすらに警戒していたというのに、今は。
 だからこそ何も言えなくなったゾロに、ふふふとかろうじて聞こえるほどの笑みをこぼしたクオンはぽすりとその白い痩躯をゾロに寄りかからせた。あなたが拒絶もせず許して受け入れる私が未来のロビンなのだと囁くように。
 それが不本意なのか、眉間に深いしわを寄せて宙を睨むゾロの横顔を見上げたクオンは笑みを深める。肩から膝に下りたハリーを優しく撫でくり回した。気持ちよさそうに鳴くハリーは相棒の上機嫌を正確に読み取ってここぞとばかりに甘え倒す。


「……あいつとお前が似ていて、お前の言う通りになったとして。それでもおれはお前みたいに甘やかす気はねぇぞ、クオン

「そうですねぇ」


 お互いに相手が何をしようが大抵許すと明言し合っている2人をハリーが見上げ、くわりと大きなあくびをこぼして目を閉じる。針がたたまれた背を撫でたクオンはゾロに凭れたまま逆の手でおもむろに武骨な男の手を取った。手遊びのように白手袋に覆われた指で手の甲に浮く血管を撫でる。


「喜ばしいことに、あなたが私だからここまで許しているのは分かります。なのでそう言っていただけるととても嬉しい。……ふふ、これが優越感というものでしょうか」


 いけませんね、と自分を咎める声はしかしどこか甘い。本当にそう思っていないことは明らかだ。
 あらゆることを許され続けてきたクオンは仲間の内でゾロとの距離が一番近い。それは自覚していた。この男の一番近くを許されているという事実がクオンの胸をくすぐり、唇をやわくほころばせる。それが揺るがないと宣言されれば上向いていた機嫌がふわふわと浮き立つのも当然。仲間とはいいものだとにっこりとしてしまう。


「麦わらの一味としての最上位は船長ルフィです。それは私もあなたも揺るぎない事実でしょう。けれど個人的には、あなたの傍がいっとう心地が良い」


 ビビは友人枠なので別として、もちろん他の仲間達と共にいれば落ち着くし楽しい。バカをやる彼らの輪に入るのもやぶさかではなく、そして何をするときも常にゾロと共にいたいというわけでもない。
 だがふとしたときに意識を向けるのはゾロであることが多いし、用もないのに傍にいるのも行くのも大体この男だ。何も話さなくてもいい、だが口を開けば繰り広げられる軽い応酬は小気味よく、何よりこの男の傍はよく眠れる。
 ゾロもまたこちらに意識を向けていることが多いと鈍くないクオンは知っている。あれほど構われて分からいでか、というものだ。


(こういうのを何と言うんでしたっけ……ああそうだ、両思い、というやつですね)


 記憶ごとすべてを失くしたクオンは、知識として知っているだけの単語の意味を深く考えることもせず思い浮かべて満足げに笑う。口に出せば「あんたそれ微妙に違うわよ」と苦い顔をしたナミの訂正が飛んできたかもしれなかったが、内心に留めたその呟きは訂正されることはなく。そもそもナミは次の目的地であるモンブラン・クリケットの居場所へと向かうために進路を見ているから音にして呟いても聞きとめられることはなかっただろうが。


「今更あなた以外を選ぶつもりはありません。私がどれだけ一途かは知っているでしょう?」


 にこにこふわふわ、クオンは笑う。浮かれた感情のまま言葉をするすると紡いで滑らせる。内心の呟きを口にせずすっ飛ばし、結果言葉足らずになっていることに気づかない。ああ、と短く返した男の内心など何も知らず。


「『浮気』はしませんとも。『良いもの』に意識が向いてしまうことはあれど一番は常に不動です。ですからゾロ、あなたも決して『浮気』などしないでくださいね?」


 鈍色の瞳を甘くゆるめ、唇に浮かべた笑みは蠱惑的な色香をにじませる。人外じみた秀麗な面差しはそれを目にした者の魂のことごとくを縛り上げて堕とすだろう。だがそのすべては上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物に覆い隠されて誰の目にも映ることもない。肯定しか許さない、それしか返ってこないと疑わない傲慢さに満ちた声音もまた低くくぐもって男に伝わり、しかし男は、その素顔と元の声がどんなものであるのか、クオンのことをよくよく知っているために判らないと思うことすらできなかった。


「……ああ」


 目を伏せ、大きく重いため息をついてゾロが緩慢に頷く。願い通りに頷いてくれたゾロにクオンがぱっと花を散らしたようにまとう空気を弾ませた。
 じゃれつくように体重をかけてゾロに凭れ、武骨な剣士の手と己の手を重ねて遊びながらクオンは満足げに笑う。
 麦わらの一味の中で一番距離が近く、あらゆることを許す男を一番に据えて互いの不動を約束して、ふと。

 一番だと言うけれど、それは何の一番だろうか───。

 その疑問を深掘りする前に、進路上に現れた海賊船によって意識の外に捨て置かれることとなった。





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