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 被り物を被り直したクオンとその右肩に乗るハリネズミと共に賑やかな通りへ戻って最初の目的地である酒場への道を歩くロビンは、きっちりと隙なく白い燕尾服を身にまとうクオンに「ねぇ、執事さん」と声をかけた。そっと被り物がこちらを向く。
 虚ろな黒い点に見据えられ、けれどその下にある顔は穏やかなものであるとロビンは既に知っている。その表情が多少でも崩れればいいと少しだけ意地の悪いことを思って、意識して口角を吊り上げた。


「あなたが女性だってこと、彼らは知っているの?」






† ジャヤ 2 †






 当然のように事実を口にするロビンに対して、クオンは反応を見せない。しかし否定もしなかった。どうして分かったのかと問うように小さく被り物が傾き、ロビンは白い指で己の喉に触れて微笑むと“雪狗”の性別は不自然なほど周囲に隠されていたわ、と現在記憶喪失な海軍本部准将のことを少しだけ教える。

 被り物越しの低くくぐもった声と執事の様相に、この人間が男であると思い込むのも当然だ。そう誤解させるための被り物と体型を隠す燕尾服であり、たとえ素顔があらわになったとしても人外じみた美しい顔は中性的で、素の声が男にしては高めなだけということもありクオンと交流を深めても思い込みはそうそう解けるものではない。
 だが交流が短く、ひとの観察に長けたロビンからすれば見抜くのは容易かった。それでも麦わらの一味に黙っていたのは、クオンが隠していることをわざわざ口にする必要がなかったからだ。
 まさか喉仏の有無で見抜かれるとは想定していなかったらしいどこか抜けているクオンは、流石ですねぇとひと言称賛を紡いで肩をすくめた。


「ハリーは当然として、ゾロとチョッパーは知っていますよ。他の方にはまだ教えていませんので、ご内密にお願いしますね」

「あら。船医さんは知っていてもおかしくはないと思っていたけれど、剣士さんもなのね」


 隠し事があるのはお互い様なので暗黙で了承したロビンが軽く目を瞠る。医者である可愛らしいトナカイの隣に武骨な剣士を思い浮かべたロビンにクオンは「ええ」と言葉で頷いた。


「裸を見られてはさすがにバレます」

「は?」


 さらりと言われた言葉に思わず胡乱な声が出て、ロビンはまじまじとクオンを見つめる。対するクオンは平然とした態度で、もしかして2人はそういう関係なのかと思ったが、それにしては空気が健全すぎる。体を重ねた者同士ならば独自の空気が無意識に流れるものだ。しかしどう見ても2人の間にそれはない。

 ロビンは少しだけ考えた。この真っ白い人間は根本が天然寄りだ。冷徹な一面もあるが仲間内ではかなり抑えられ、真面目で頭脳明晰、しかし素直でどこか抜けていて、突拍子がなく進んでバカもやる。つまりは裸を見られたというのは言葉の通りで、おそらくは何かしらのラッキースケベ的な事故でバレたということだろう。
 いやぁあれは驚きましたと被り物越しでも伝わってくるほけほけとした様子で続けるクオンはゾロに裸を見られたことを何とも思っていないのが分かる。男として間違いを犯さなかったと察せたゾロに感心と少しの同情を抱いてしまったロビンである。同時にこの記憶ごと何もかもを失くしたクオンを心から大切にしていた王女の苦労が偲ばれた。


(……この子、もしかして目を離しちゃいけないタイプなんじゃないかしら)


 そう考えてしまったロビンは深みにはまりそうな気配を察知してすかさず思考を止めた。恐ろしい、それもこれも顔が良いせいだ。既に「この子」と思った時点でカウントダウンは始まっているようなものだとは考えない。
 でも船医さんを抱っこした執事さんの頭に乗ったハリネズミ君、大中小の3人まとめて可愛かったわね……とついじっと真顔で見つめてしまった光景を思い出してゆるみそうになる口元を笑みの形に引き締める。クオンが被り物をしていても愛らしく映ったのだ、素顔だったならばどれほどの破壊力があるだろう。いつかやってもらえないかしら、とひっそり祈っておく。


「おや、店主殿が言っていた酒場とはあれのことでは?」


 隣でクオンが指差した先を見れば確かにそれらしき建物があった。小さすぎず大きすぎない、両開きの扉の上に据えられた看板には「酒」の一文字。大変に分かりやすい。
 昼間から盛り上がっているのだろう、中からは表の喧騒よりは明るい賑やかさが伝わってくる。前を歩くクオンが扉に手をかけて押して開けば、ざわめきは変わらず、しかし観察するような視線がいくつも飛んできた。黒髪の長身美女と全身真っ白な愛嬌があるようで間の抜けた被り物をした執事、その右肩に乗ったハリネズミという妙な組み合わせに「何だありゃ」と鼻で笑う男の声が微かに聞こえたが、2人は無視して奥のカウンターへと足を進め、情報収集のためにまずは酒場の店主に向かって友好的な挨拶を口にした。






 生憎と酒が飲めないためソフトドリンクをストロー付きで頼んだ得体の知れない執事のような人間に、しかし酒場の店主は何の反応もせず頼まれたものを頼まれた通りに差し出してくれた。ロビンも一杯頼み、酒場を軽く見回すとすぐにカウンターを立ってひとつのテーブルに近づいていく。麗しい美女がひとり近寄って嫋やかな微笑みで話しかければ、でれっと相好を崩した海賊の男がいそいそとイスを引いて勧め、ロビンは軽く礼を言って腰を落とした。

 あちらは彼女に任せてよさそうだ。そう判断し、それでもいつでも動けるように意識だけは向けながらクオンも店主に向き直る。ここまでの地図が描かれた紙に書いてあった酒屋の店主のサインを見せて紹介で来たと言うと、ひとつ頷いた店主が何を聞きたいのかと言いたげな目を向けてきた。


「空島に行きたいのです。何かご存じありませんか」

「……空島?そりゃまた大昔の伝説だな。何でそんなところに」

「空から突然船が落ちてきた上に“記録指針ログポース”の指針を空に奪われてしまいましたので」


 軽く肩をすくめるクオンに、顔に深いしわを刻んだ店主は目を細めた。手を使わず能力で被り物を僅かにずらしてストローに形の良い唇をつけジョッキの中身をすするクオンは、これがバレたらサンジに怒られそうだと思い、だがここで素顔を晒すわけにはいかないので許してほしいと内心で手を合わせた。あとでロビンにも口止めしておこう。


「“記録指針”ってのはすぐイカれるもんだ。壊れたんなら新しいのを買っていけ」

「おやおや、ご冗談を。夢を見ない無法者に否定されて、成程そうなのですかと頷けるほど私は現実・・主義者・・・ではありませんよ」


 ストローから離した口元がにっこりと笑い、男にしては高い声で言葉を紡ぐ。僅かに覗く部分だけでクオンの素顔が美しいものだと悟った店主が小さくため息をついた。


「……“突き上げる海流ノックアップストリーム”を知っているか」

「いいえ?よろしければ教えてくださいませ」


 店主の話によれば、この近海でよく起こる現象であり、バケモノ海流とも呼ばれる災害のひとつだという。その海流の犠牲になった船は空高く突き上げられ、そのまま海へ叩きつけられる。空から船が落ちてくる現象はそのせいだろう、と。
 まだこの海流が解明されていないほど昔、何も知らない航海者は空から船が降る奇怪な光景を見て「空島」を思い描いた。だが今は理由が明らかにされた。ゆえに空島とは伝説であり、夢物語であり、妄想であり、幻想なのだと。


「成程、ここが“夢”を見ない無法者達の町だと言われている理由が分かりました。この町にいる者達の共通認識がそうなのですね」

「海賊王が死してから二十余年、もはや夢を見る者の方が少ない。黄金郷などどこにもなく、大秘宝“ひとつなぎの大秘宝ワンピース”は存在すら怪しい。海賊王になるなどと公言すれば指を差されて笑われるだろう」


 それはそれは、根本から麦わらの一味とは相容れない町だ、ここは。
 頬杖をついて薄い笑みを刷いたクオンは、被り物越しにひたと店主を見据えながら「それで」とつまらない話を切り上げて問うた。


「あなたはどちらです?」


 その短い問いは、穏やかな響きを有しながら鋭い刃物の切っ先を突きつけられるような圧があった。店主の背中にじわりと冷や汗がにじむ。
 もし、この町の人間と同じだと答えたなら。この真っ白い人間は即座に興味を失ってここを去るだろう。
 もし、まだ夢を見捨てきれていないと答えたなら。この真っ白い人間はもしかしたら、嬉しそうに美しい微笑みを浮かべてくれるのかもしれない。
 そんなことを考えた店主の脳裏にふと、よぎる黒い影があった。


「答える前にひとつだけ訊かせてくれ。あんたが空島の夢を求めるのはなぜだ」

「そんなもの、船長が空島へ行くと決めた─── ただそれだけのことですよ」


 店主にはわざわざ明かしていないが、空島がある状況証拠は揃っている。そしてルフィは空島へ行くのだと決めていて、クオンにはそれを叶えない選択肢はない。何より自分だって空島なる場所へ行ってみたいと思っているのだ、力が入るのも当然だろう。
 ここで笑われバカにされたとしてもクオンが気分を害することはない。夢を見ない者と夢を追っている者、そもそもからして違うのだ、振るう拳などありはしない。交わす言葉なぞ無駄の極みである。
 クオンの答えに目を細めた店主は眉間のしわを深め、ため息をつくとゆるゆるとかぶりを振った。


「20年以上前だったか、あんたと同じことを言って話を聞きに来た男がいた。『船長が行きたいって駄々こねてうるせぇんだ、何か知らねぇか』とも言っていたが」

「何ともまぁ」

「おれは何も知らなかったから答えられなかったがな。その時もこの町じゃおれ含めて誰も夢なんざ見てなかったが……その男があんまりにも当然のように空島がある前提で話を進めやがるからな、おれも何となくあるような気がしたもんだ」


 回顧するように店主の目が遠くクオンを見る。真っ白い人間をその目に映しながら、けれど彼が見ているのは過去の男なのだ。


「そのあと…………うん、まぁ色々と巻き込まれたが……何でかいつの間にか男が乗る海賊船の奴らと鍋を囲んでいたりもしたが……いや本当に何でだろうな……まぁとにかく、空島を求めてこの島を出たあいつらは後々世の中に名を轟かせる海賊になった。なら、本当に空島はあったんだろうよ」


 おれはあの時から夢を捨てられてねぇ、と店主は苦い笑みを微かに浮かべた。色々とあったらしい店主に軽く同情しつつ、何となく既視感を覚えて首を傾げる。
 何だろう、この巻き込まれ具合、どこかで見た気がする。否、読んだ気がする─── ああそうだ、ゾロとチョッパーと立ち寄った本屋で買ったあの古びた冒険譚だ。海賊王ゴールド・ロジャーよりもその右腕である冥王シルバーズ・レイリーのことばかり書き記した小説。あの中に出てくる語り部でもある主人公と目の前の店主が重なって見えたのだ。妙な一致もあったものだと内心苦笑する。


「空島について知りたいんなら、モンブラン・クリケットを訪ねるといい」

「モンブラン・クリケット?」

「10年くらい前に突然やってきて、夢を語ったばかりにこの町を追い出されたはみ出し者さ。話が合うだろうよ」


 おれも時々酒をよこしてる、と言いながら一度裏に引っ込んだ店主は、その手に大きな器を持って戻ってきた。ことりと目の前に置かれたそれに首を傾げる。


「これは?」

「さっき話した海賊どもと食った料理だ。気が向いたときに作って出してる。正確に教わったわけじゃないから自己流だがな、材料と大まかな味付けは間違ってないはずだ」

「大根、玉子、こんにゃく、ちくわ…これは鳥の肉でしょうか。材料は分かりますが、初めて食べる料理ですね」

「おでんというらしい」

「へぇ」


 どこの国の料理だろうと不思議に思いながらも箸を伸ばす。串に刺さったものは手で食べてもいいのかもしれないと思いながらまず大根に狙いを定め、熱いので息を吹きかけて冷ましながら食べてみれば味が深くしみたやわらかい大根はサンジの絶品料理に日々食育されているクオンでも美味しいとこぼすほどで、今度サンジに作ってもらおうと心に決めた。素直に美味しいですとふわふわ花を飛ばして言えば満足そうに頷かれる。
 全部は食べきれないからあとで包んでもらうことを頼んで了承を得、こんにゃくが冷めるのを待つ間に話を進めた。


「ところで、そのモンブラン・クリケットなる人物はどちらに?」

「そうだったな。待ってろ、今地図を持ってきて───」


「─── そのクリケットという男の居場所を教えなさい」


「「えっ?」」


 ふいに賑やかな酒場に響いた、ぴしゃりと冷や水を浴びせるような女の声にカウンターを挟んで向かい合っていた夢追い人達は思わず振り返り、酒場にいた海賊のことごとくが突然咲いた・・・女の腕によって瞬時にのされていくさまが視界に入ってぎょっと目を剥いた。


「ちょ、お待ちください、落ち着いてくださいロビン、いきなりどうしたんですか」

「気にしないで執事さん。ちょっとこの人達が私達に薬を盛って連れ出そうとしたのを聞いて牽制しただけよ。話を聞いたらすぐに出ましょう」

「成程。――― 構いません、処しましょう」

「処すな阿呆」


 ロビンの言葉を聞くや否や絶対零度の圧を放つクオンの被り物を、カウンターの向こうから店主が思い切り横に叩いてくるくると回した。






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