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 真っ白い空間に、ふわり、まるくとうめいな何かが浮かんでいる。瞬いた視界にそのまるくとうめいなものはいくつも映り、ふわりふわりと空へ向かって飛んでいく。
 きれいなしゃぼん玉。空たかくとんで、どこまでいって、いつわれるんだろう。
 手を伸ばすけれど届かない。伸ばした手はとても小さく、小さなシャボン玉よりもさらに小さな白くまろい手がふわふわ浮かぶ玉を追う。
 どこへいくのか。いつまでとぶのか。ふれたらわれるのか。小さな小さなこどもが精一杯背伸びをするけれど、シャボン玉は地を這うこどもを笑って見下ろすばかり。

 真っ白い空間に光源はない。なのに光を反射して縁が七色にきらきら光るシャボン玉を不思議に思うこともなく手を伸ばし続けていれば、ふと、誰かの気配がした。
 さくり、草を踏む音がする。シャボン玉以外に何もなかった空間に地面ができて、鮮やかな若草色が覆う。ふわりふわりと揺れるシャボン玉を背に、誰かが小さなこどもを覗き込んだ。
 誰かの顔は見えない。小さなこどもよりも背が高く大きいことだけは判る。光もないのに逆光のせいで陰になった誰かを認めた小さなこどもは、執着していたシャボン玉をあっさりと切り捨てて振り返るとその小さな手を伸ばす。甘えて抱っこをねだるこどもに、誰かは。


仕方のない子だ、おいで


 ─── ああ。
 ああ、そうだ。このひとだ。間違いない。このひとだったのだ。

 視点がぐんと上がる。
 小さなこどもを抱き上げた腕は太いのか、細いのか。体躯は立派なものか、細身なのか。男か、女か。子供か、大人か。どんな顔をしているのか。どんな表情をしているのか。
 何も分からない。けれど知っている。こどもが精一杯腕を回して抱きついた誰かの顔は、間近で見ても白く塗り潰されている。それでも知っている。
 視界の端でシャボン玉がゆらゆら揺れる。ふわふわと空高く飛んで、飛んで、飛んで、飛んで───






† 空への指針 9 †






 ぱちん、と軽く弾ける音を耳朶の奥で聞いたクオンは、瞼を押し上げて初めて自分が眠っていたことに気がついた。
 何か、夢を見ていた気がする。白い空間で、ふわりふわりと揺れる丸く透明なものと、小さなこどもと、そして。


「あれは……私の、記憶…?」


 夢うつつをさまよう虚ろな声音が波の音にとけて消える。数度目を瞬いたクオンは軽く首を振って眠気を飛ばし、膝の上でいまだ眠り続けているゾロの頭をそっと撫でた。
 夢に現れた記憶の欠片は、すべてを欠落してから初めて得たものだ。今まで失った過去を思い出す兆候などひとつもなく、記憶を取り戻すことを積極的に望んではいなかったから気にしたことはなかったが、なぜ今更あんなものを。いや、記憶を取り戻すと決めたのだから曖昧な欠片でも得られたことは僥倖だとは思うが、何の前触れもなく与えられては困惑が勝る。
 ゾロを撫で回すことでざわつく胸中を宥めたクオンはゆっくりと大きく息を吐き出して平静を取り戻した。

 ちらりと視線を落とせばゾロはクオンの膝を枕に惰眠を貪っていて、その無防備な寝顔を見ていると悪戯心が湧く。白く長い指を頬に滑らせ、軽くつまんでみるとむいと頬の肉がやわらかく伸びた。そういえば最近ゾロによく頬を引っ張られることを思い出し、自業自得であることをまるっと棚に上げて報復をするようにつまむ量を増やした。
 起こすほどではない力加減でむいむいとつまんで感触を楽しんでいたが、鬱陶しくなったのだろう、眉間に深いしわが刻まれ、頬から手を離した指を眉間に当てて優しくしわを伸ばす。手の平で目許を覆い、ゆるりと滑らせた手で頭を撫でて宥め再び深い眠りへと促していく。もう片方の手で手遊びのように左耳で揺れる三連ピアスに触れれば軽い硬質な音がした。


「……ん」


 ゾロが小さく呻いて寝返りを打つ。仰向けになっていたのがクオンの腹の方を向いて膝に頬をうずめ、クオンは気にした様子もなくゾロの頬を手の甲で撫でると肩へ滑り、きれいに整えられた指で男の傷ひとつない背中を優しく叩いた。
 やわらかな笑みを浮かべたクオンの手付きは慣れた者のそれで動きに淀みがない。それも当然だ、散々ビビにねだられて与えた過去があるのだから。ゆえにどの程度でひとは目を覚ますのかも大体熟知していて、剣士は気配に鋭いからさらに控えめ且つひたすらに優しくクオンはゾロに触れる。触れないという選択肢はなく、考えもしなかった。無防備に眠りこけているのをいいことに好き勝手に触れるクオンを咎める者は誰もいない。

 少し低いクオンの体温と少し高いゾロのそれが触れた箇所からすっかり混じり合っている。片手はゾロの頭を撫で、背中に触れていた手で力なく投げ出された男の手を取って指の一本一本をなぞるように触れ、固い剣ダコの感触に剣士の手だなと今までに何度か思ったことを再度思う。
 剣士の手だ。自分好みの手である。やわらかさの欠片もない、厚く固く武骨な太い指は男の努力の成果で称賛に値する。
 自分のものとまるで違う大きな手に這う血管をなぞっていたクオンが指の隙間に己の指を差し込んで絡めた指の腹で男の手の甲をさすった、その瞬間。

 ぐっと指を絡めた手が強く引かれて油断しきっていたクオンの上半身が前に倒れる。
 気づけば仰向けになったゾロが半眼になってクオンを見上げていて、鼻が触れ合うほど至近距離で2人は無言で見つめ合った。
 そういえばここまで近い距離で顔を合わせたのはウイスキーピークで戦ったとき以来でしょうかと思考が逸れ、あのときとまったく違う自分達が不思議なようで、当然だとも思う。
 ひとつ鈍色を瞬かせたクオンが穏やかに微笑んだ。


「おはようございます。起こしてしまいましたか」

「……これだけ好き勝手されてりゃな」

「おやおや、どうにも夢中になりすぎていたようです」


 軽く指を絡めた手に力が入ってクオンの戯れを指摘され、それに気まずくなるわけでもなく事実を述べたクオンがくすくすと笑みをこぼして握り返す。
 すっかり眠気も飛んだ鋭い眼光にはしかし剣呑さはない。起こされたという割に機嫌を損ねるほどではなかったようで、傾いだ上半身を戻したクオンは微笑みながらゾロの額から後頭部にかけて撫でた。じっとりとした眼差しで睨むようにクオンを見ていたゾロが深く重いため息をつく。


「島が見えたぞ───!!」


 もう一度眠りますかと訊こうとしたクオンは、前方甲板から歓喜に沸くルフィの声が聞こえて口を閉ざした。どうやらジャヤはもうすぐそこのようだ。
 ゾロから気が逸れたクオンを引き戻すように繋がれた手が引かれる。クオンが意識を戻すと同時に絡んだ手がとかれ、横になったままクオンの左手を掴んだゾロに不思議そうに目を瞬いたクオンは、戦闘時に刀を咥える丈夫な口が大きく開かれるのを見た。
 警戒を知らない白い左手の親指がつるりとした白い歯を覗かせるゾロの口にいざなわれ、瞬間鋭い痛みが走る。


「いっ…!」


 一瞬何が起こったのか判らず痛みに呻いたクオンが見開いた鈍色の瞳を白黒させる。
 ゾロに噛まれた。そう理解すると同時にゾロの口から離れた左の親指の根元にはくっきりと歯型がついていて、血は出ていないがじんわりと赤くにじむそれを認めたゾロは目を細めると鼻を鳴らして口端を吊り上げる。


「何をするんですか」

「てめぇだって散々好きにしただろ」


 クオンのささやかな抗議を反論できない事実で切り捨てられ、それはそう、と自覚のあるクオンはそれでも痛みを与えられるのは理不尽では、と微かに唇を曲げた。私は痛みを与えてなどいないのにと言いたげなクオンの表情を見て上体を起こしたゾロが白手袋をクオンの手に落とす。


「お前がおれに何しようが大抵のことは許してやるけどな、あんまり油断しすぎんなよ」

「……あなたを警戒する方が間違いでしょうに」

「ハ、どうだかな」

「私もあなたが私に何をしようが大抵のことは許しますが、痛いのは嫌ですよ」


 たった今噛まれた左手を揺らすクオンを見下ろし、何だかものすごく物言いたげな顔をして深いため息をついたゾロがゆるく首を振る。そんなにため息をつくと幸せが逃げますよと言いかけて、言ったら頬を引っ張られる気がしたクオンは口を噤んだ。ゾロは手加減をしてくれるし自業自得ならば多少の痛みも仕方なく受け入れるが、与えられる痛みを喜ぶ趣味は生憎とないのである。
 膝枕の礼に左手の親指の付け根に歯型をもらい、クオンは傷を隠すように素早く白手袋をはめた。じんじんとした痛みはすぐに消えるだろうが、痕は暫く残るかもしれない。治療用の針は過剰だし、チョッパーに見せるまでもないので自然と治るのを待とう。ゾロに噛まれたと知ればナミやサンジが怒るかもしれず、それはクオンの望むところではなかった。


クオン

「……?」


 床に転がる被り物を拾い上げて膝に置いたクオンをゾロが呼び、伸びてきた手の甲が頬を撫でる。クオンはきょとりと鈍色の瞳でゾロを見上げ、あたたかな手に顔をすりつけようとして、先程噛まれた左の親指の痛みを思い出して僅かに動きを止めたが、誘惑に抗いきれず結局ぺたりと頬を押しつけた。特に用はなく名を呼んだだけのゾロの手に己のものを重ねたクオンが上目遣いにゾロを見上げて問う。


「よく眠れましたか?」

「……ああ、それなりにな」

「それは重畳」


 寝返りを打ったときには意識が浮上していただろうゾロに噛まれた親指の報いを与えるべく、しかしお気に入りの剣士の手は損なわないように、クオンは武骨な手の平に軽く歯を立てて笑みを浮かべた。






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