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 ナミにルフィが叩き起こされ、空が暗いことに気づいて何で夜なんだ?と不思議そうにする彼が無事目を覚ましたことにクオンが安堵したのも束の間、海から飛び上がったサル男は略奪者を許さずメリー号の船べりに飛び乗って「財宝盗んで逃げきれると思うなよォオオオオ!!」と吼えた。
 クオンはすかさず針を構える。今はゆっくり相手をしてやる暇はない。鯉口を切るゾロに並んで能力を使ってでもサル男を船から叩き出すかと左手を掲げ─── サル男軍団の震える叫びが耳朶を打って動きを止めた。

 右肩に乗ったハリーがはっと息を呑む気配がした。それにつられるようにして振り返り、被り物の下で大きく目を見開く。
 同じくそれ・・を目にした誰もが呼吸を忘れて立ち竦む。水平線の先、深い霧の向こうに。メリー号の何倍もあるサル男軍団の船の何倍もある巨大な亀よりもさらに大きな─── あまりにおおきすぎる、影があった。

 リトルガーデンで会った巨人達の何十倍もの巨躯を有した影は複数。視線を走らせれば最低5つが海に立っている。クオンが悪魔の実の能力を使って海面に立つのと違い、物理的に、深い海の底に足を沈めて立っているのだ。影は背に翼のようなものを生やし、その手にはその体躯に見合った大きな槍のような武器。
 影が音もなく槍を振りかぶる。瞬間、ルフィとサル男の「怪物だああああ!!!」という絶叫が重なり、その余韻が残る中、オールを手にしたクルーは脇目も振らずに全速力でその場から逃走した。






† 空への指針 8 †






 暗い空に覆われた海域を離れ、青い空の下に戻ってもオールを漕ぎ続けて暫く。
 誰からともなくオールを手放して甲板に座り込んだ仲間の輪に加わって船べりに立ったまま背を預けたクオンは、不可思議な一日を思い返すクルーの声を背景に被り物の顎に指を当てた。

 巨大な怪物を前に慌てて逃走してきたが、あの影は何かがおかしい。影を目にするまであれほどの巨躯をもった者の気配がまったく感じられなかったこともそうで、それを前にしてもやはり気配はどこにも感じられなかった。ただただ圧倒的な虚ろな存在感だけがそこにあって、武器を構えて振りかぶったというのに敵意も害意も何一つクオンの感覚を刺激することはなかったのだ。しかし夢や幻の類でもないだろう。意識ははっきりとしているし、仲間達も全員あれを目にしている。
 だが、ではいったいあれは何だ。気配の一切が感じられない巨大な怪物。突然来る“夜”と共に現れるもの。いいやそもそも、突然ガレオン船が空から降ってきたことからすべては始まり、繋がっているように思える。根拠はないが、バラバラの事象が間を置かずたたみかけてきたと考えるよりは現実的だろう。


(あの“怪物”に質量はありませんでしたし……まるで、本当の影のようでしたね)


 能力を使うためにも本能的に鋭く走らせたクオンの感覚はあの影の実体を掴めなかった。あれだけの巨体を前にして、伸ばした能力の不可視の手は影をすり抜けたのだから、内心ひとりごちた推測が間違っているとは思えない。
 だがますます分からない。あれが影だというのなら、いったいどこからやってきた誰のものなのか。情報が足りず雪色の髪と同色の柳眉を寄せたクオンは口の中で唸るが、それは被り物にとけて誰の耳にも入らなかった。


「「「出ていけ~~~!!!」」」


 そのときルフィ、ゾロ、サンジの怒声が轟き、顔を上げたクオンは3人に容赦なく蹴り飛ばされて空に打ち上げられていくサル男を見て、そういえばこのサル男を乗せたまま逃げ出したことに今更気づいた。まぁ、サル男は能力者ではないし、近くに彼の船もあるはずだから死にはしないだろう。そのまま空の彼方に消えていくサル男を見送るクオンの肩の上でハリーがひらりと手を振る。

 さて、何はともあれ窮地は脱した。とりあえずはルフィ達が集めた沈没船の“財宝”を検めようと動き出したナミを置いて、クオンは懐から取り出した“永久指針エターナルポース”と船首の向きを確かめ、ひとりラウンジに入って舵を切る。ルフィが集めてきたものがどうあれ、とりあえず最初に向かうべきはジャヤ一択だ。

 船の進路を調整したクオンが事後報告にはなるがナミに伝えようと甲板に顔を出せば、ルフィ達が集めてきたものを見たナミが「何のために海底へ潜ったの!?」と眉を吊り上げて声を荒げていて目を瞬かせる。
 階段を下りながらルフィ曰くたくさんあった“財宝”を見てみればすぐに納得した。
 錆びついた武具に食器、壺、そしてぼろぼろに壊れた何かの乗り物らしきもの。うーん、彼らの趣味が出ている。
 苦笑したクオンがざっと視線を走らせるが、これから目指す空島へ至るための手掛かりは目に入らなかった。そこがナミも苛立つ原因なのだろう、こんなガラクタばっかり持ってきて!と肩を怒らせるナミにゾロが何もなかったんだと反論し、サンジもそれが本当なのだと同意する。ルフィは何やら全身に鎧をまとって錆つき折れた剣を持っており、なんとも楽しそうだ。

 ルフィやゾロだけならばガラクタばかり拾ってくるのも納得だが、ナミのために全力で体を張るサンジは間違いなく空への手掛かりをきちんと探したのだろう。それでも見つからなかったのならば、本当にあの船には沈む間際にルフィが見つけたスカイピアの地図以外特に何もなかったのだと察せられる。

 サンジ曰く、あの船は既に何者かに荒らされた跡があり、そうでなければ何かしらの理由で内乱が起き殺し合ったかだと。しかしそれならば尚更情報が必要じゃないとナミがすかさず言い返し、それは正論である。これから麦わらの一味が空へ行くのだというのなら、あの船に起こったことは自分達の身にも降りかかってくる可能性が十分にある。


「情報が命を左右するのに、なにこの錆びた剣!食器!生タコ!必要なのは日誌とか!海図とか!!そういうの!!」


 怒りに任せてガンガンと剣や食器を蹴るナミにゾロとサンジがああああ!?と声を揃えて慌てる。仲が良いですねぇと全力で否定されることを内心で呟き唇に笑みを刷いたクオンはナミの肩を優しく叩いた。


「落ち着きなさいナミ。とりあえず生タコは貴重な食料になります」

「今はタコはどうだっていいのよクオン!!もう!……やっぱりクオンを行かせるべきだったわ……」


 真面目くさったクオンに怒気を削がれ、がっくりと肩を落として唸るナミには悪いが、おそらく自分が行ったとしても何の成果も得られなかっただろうなとクオンは思う。精々があそこまでガラクタを集める必要はないと進言したくらいだ。
 大きなため息をつき、クオンに凭れるようにしてガッションガッションと鈍い金属音を響かせながら歩き回るルフィをナミがじとりと見やる。


「それ何、ルフィ?」

「ヨロイ」


 そして振り下ろされた怒りの重い拳は鎧を粉々に砕き、鎧に護られていたはずのルフィを容赦なく甲板に沈めた。いい拳です、と感心したクオンが深く頷いて小さく肩をすくめる。あの拳が自分に落とされる未来は永劫来ないでほしい。さすがに痛いどころでは済まないだろう。
 サンジがでれでれしながらきれいな貝殻をナミに差し出すも、「いらないわよ大馬鹿!!」と眦を吊り上げて一蹴する。
 カツカツと苛立ち混じりの足音を立てながら前方甲板に続く階段をのぼるナミの後ろに続けば、船べりに腰掛けていたロビンが荒れるナミを見て大変そうねと同情し、ナミは「大変なのはこれからよ。ホントバカばっかり。これで完全に行き先を失ったわ!」とどうにも怒りがおさまらない様子だ。綺麗な笑みを浮かべたロビンがちらりとクオンを見やり、クオンはぽんと両手を叩いて当初の目的を思い出した。2人の通じ合っている様子を見たナミが胡乱な顔をする。


「そうでした。ナミ、これをどうぞ」

「え?“永久指針エターナルポース”……!」


 クオンが懐から取り出した“永久指針”をナミに差し出し、それを受け取ったナミが目を瞠る。クオンがサル男軍団のサルベージ中に「少し用を済ませてきます」と言ってナミ達のもとを離れたことを思い出したのだろう、ばっと勢いよく振り向いたナミにクオンは頷いてみせた。


「ロビンに頼んでサル男殿の船にある“永久指針”のありかを探ってもらい、私が盗ってきたものです。あっても損はないでしょうから、一応」

「流石執事さんね」

「いいえ、あなたが見つけ出してくれたお陰です。大変に楽ができました」


 軽やかにお互いを讃え合うロビンとクオンの放つ空気はやわらかい。ナミは2人が協力して盗ってきてくれた自分の手の中にある“永久指針”を見下ろし、小さく呻いたかと思うと涙を流して喜びに笑みを浮かべた。


「私の味方はあなた達だけ……!!」

「……相当苦労してるのね……」


 心の底からの情感たっぷりなナミの言葉に、さしものロビンも同情を禁じ得なかったようだ。クオンは私は彼らがああでも楽しめますが、と思いはしたがお口チャックで被り物の下で微笑むだけ。彼らがこういうときに役に立たずともこちらがフォローすればいいだけの話で、逆にこちらの手に負えない事態では彼らに任せればいい。適材適所というものだ。
 ロビンがこちら側でいてくれれば随分楽になりますねぇとしみじみ考える元執事は用意周到なクロコダイルのもとにいた元バロックワークス副社長の手腕に多大な期待をかけていたりする。






 さて、ナミに“永久指針”を渡し、航海士の指示のもと一応指針と船首も合わせた。あとのことは進路の決定権を握る船長と優秀な航海士に任せ、ナミに背を向けたクオンは軽やかな足取りで中央甲板に立っていたゾロに近づいてその腕を取ると軽く引いた。


「ゾロ、こちらに」

「あ?」


 クオンの唐突な呼び出しにゾロが怪訝そうに眉を寄せるが、クオンが腕を引いたまま後部甲板へ歩を進めれば抵抗することなく素直についてくる。
 サンジが作ってくれたたこ焼きを頬張っていたルフィがジャヤ舵いっぱいと指示する声を聞きながら後部甲板のラウンジ裏へとやって来たクオンはすとんと腰を下ろして壁に凭れた。白いスラックスに覆われた脚を伸ばすクオンにますます訝しげな顔をするゾロの腕から指を滑らせて武骨な手を握り軽く引く。


「ジャヤに着くまでもう暫くかかるでしょうから、その間お休みなさいませ。私があなたをベッドに引きずり込んだ夜とカルガモ部隊にメリー号まで運んでもらっている間、あまり眠れていなかったでしょう?」

「………」

「私のせいですからね、きちんと責任は取りますとも。とりあえず膝をお貸ししますので、どうぞ」

「…………」


 あくまで提案のていを取っていながら、クオンがゾロに拒否権を与える様子はない。被り物に隠された秀麗な笑みは「いいから寝なさい」と雄弁に語っていて、見えないはずのその表情が見えた気がしたゾロは、イエス or はい の答えしか受け付けない圧を放つクオンに物言いたげに半眼になって口を動かしかけ、しかし深いため息をついただけで力を抜いた。諦めに似た了承を受け取ったクオンがにっこりとする。

 刀を床に置いたゾロは体を倒し、頭を膝に預けてごろりと横になる。男ではないクオンの膝は厚めのスラックスに覆われているせいもあってやわらかく張りがあり、いい枕だなと思わず呟けば「王女にもご満足いただける逸品ですよ」と誇らしげな声が落ちてきた。
 それはそれは、これがバレたらビビの絶叫が耳をつんざきそうだと嫌そうにゾロの眉が寄る。「しわ」と呟いたクオンの白手袋に包まれた指が優しく触れて伸ばし、するとますます眉間に深いしわが刻まれて、クオンはいつもなら相棒がいるはずの今は何もいない白い肩を揺らすとふふふと楽しげな笑声をこぼした。

 ほぼ2日まともな睡眠をとっていないゾロに気づいていて短時間でも寝かせるタイミングをはかっていたクオンは、僅かでも長く眠ってもらうために早々に眠りへ促そうとゾロの目を塞ごうとして、伸びてきた男の手に白手袋を取られて目を瞬いた。次いで上半身を浮かせたゾロがクオンの被り物を外す。
 秀麗な顔と揺れる雪色の髪があらわになり、唐突に素顔を暴かれてなお穏やかなままの鈍色の瞳と目を合わせるとひとつ頷いたゾロが再びクオンの膝に頭を落とし、おさまりのいい位置を探して落ち着くと猫を模した被り物を自分の胸の上に置いた。じ、と真っ直ぐすぎる目がクオンを見つめ、瞬きと同時に眠気がにじむ。


「……何かあればすぐに起こせ」

「ええ。おやすみなさい、ゾロ」


 クオンの頷きを待たず瞼を閉ざしたゾロが大きく欠伸をする。何となくその無防備な口に指を突っ込みたくなったが我慢して額に手の平で触れ、ゆるりと滑らせて若草色の髪を撫でつける。そのまま形の良い頭に添って撫でれば膝に乗る重みが増して、おやすみ3秒で眠りに落ちたゾロを見下ろす瞳が甘くたわんだ。
 自分より少し高い男の体温がじんわりと膝をあたため、その熱が心臓に至って胸をあたたかくする。無意識に浮かんだ笑みはほわほわとゆるんでやわらかい。
 ビビに膝を貸して甘えられたときのようなくすぐったさと喜びが湧く。しかし、ビビに抱いたものと少し違うような感覚に首を傾げた。言語化が難しい、よく似ているのにどこか違う。これが友人と仲間の違いでしょうかと内心ひとりごちた。

 クオンは白い素手でゾロの髪を撫でるようにして梳く。存外やわらかな髪に指をうずめて丸い頭の感触を楽しんだ。
 いつもはゾロの傍らで楽しげに笑う鬼徹も今は鳴りを潜めている。穏やかな波の音が優しく耳朶を叩き、降り注ぐ陽射しが空気をあたためて、今いる場所は日陰になっているから過ごしやすく心地好い。


「……――――」


 おもむろにクオンの形の良い唇が動く。波が船体を撫でる音に紛れそうなほど小さな鼻歌が無意識に紡がれた。
 調子外れで音程があべこべの旋律が響く。軽やかな優しい音の連なりはひたすらに穏やかで、子守唄のようでもあり、ゆるやかなバラードのようでもあり、どこか童謡じみた懐かしさもあって、あまくまろい旋律に彩られた曲がほんの数分間、ゾロの寝息と混じり合って海風にとけた。






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