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 海と空が静けさを取り戻すまでに、然程時間はかからなかった。
 クオンがすべての能力を解いた途端傍に立ったゾロに「どこだ」と短く問われ、意味を正確に汲み取った上でそらとぼけようとしたが黙っていてはひん剥かれそうだなと思い直して素直に左腕を差し出す。ゾロが無言で白いジャケットとシャツの袖をまくれば、肘近くの白い肌に浮かぶ青黒い内出血の痣があらわになった。


「ご安心ください。損傷軽微、冷やして湿布でも貼れば治ります」

「チョッパー、患者だ」

「お、おう!そうだ、頭は!?頭は大丈夫なのか!?」

「少し熱をもってはいますが、思考・五感共に明瞭ですよ。反動も軽く済みましたし、この程度何の問題もありません」

「それを判断するのは医者であるおれだからな!」

「ごもっとも」


 まったくもって医者らしいチョッパーの正論に、反論ひとつなくゾロに腕を掴まれたままクオンは深く頷いた。






† 空への指針 4 †






 ガレオン船が空から降ってくるという異常事態にウソップと抱き合い仲良く震えていたチョッパーだったが、患者を前にすればそれどころではなく、すぐさま医者の顔になって甲板に腰を下ろしたクオンの治療に取り掛かった。
 左腕に氷を当てて冷やすクオンの後ろにウソップがカサカサと床を這いながらやってきて隠れたが、また何かあったときにその方が護りやすいので何も言わない。必要なら力ずくで離れさせればいいだけですし、などと少々乱暴なことを考えるクオンは仲間になったからといってその部分は大きく変わらなかった。


「何で…空から船が降ってくるんだ…!?」

「奇っ怪な…」

「空にゃ何にもねぇぞ…」


 クオンとチョッパー、そしてウソップを護るようにして囲みながら空を仰いだルフィ、サンジ、ゾロが呆然と言い募る。だがその疑問は至極当然なことだ。いくら何が起こるか分からない“偉大なる航路グランドライン”といえど、まさか空から船が─── しかもガレオン船が降ってくるとは誰が想像できようか。さしものクオンですら完全に思考が止まるほどの衝撃だった。


「海は広いですねぇ」

「よし。クオン、暫く能力は使うなよ。ここから傷が大きくなったら大変だ」


 ひとりごちたクオンの痣に丁寧に湿布を貼ったチョッパーが念を押して言い聞かせ、愛嬌があるようでどこか間の抜けた被り物で隠した顔をしかつめらしくさせたクオンは頷き治療の礼を言った。
 すっくと立ち上がって波間に浮かぶガレオン船の砕けた亡骸を眺める。幻ではない確かなこれは、いったいどこから来たのだろうか。
 考えても分からない疑問をぼんやりと頭に浮かべたクオンの思考を切るように、ふいにナミが「あ!!」と大きな声を上げた。すかさずサンジがどうしたナミさん!?と声をかける。ナミは左手首につけた“記録指針ログポース”を顔色を変えて見下ろしていて、何やら異変があったようだ。


クオンクオン!ねぇ見て、“記録指針”が……!壊れちゃった!!上を向いて動かない…!」


 慌てた様子でクオンに駆け寄り、ナミが腕を掲げてクオンに“記録指針”を見せる。首を最大限空に向けるようにして天を指す指針にクオンは被り物の下で髪と同色の柳眉を寄せた。
 アラバスタの“記録ログ”を元に、“記録指針”は水平線の先を指していたはずだ。それはクオンもナミと一緒に確かめた事実である。だというのに、指針は明らかに空を指して動かない。壊れちゃったと言うナミの言も道理ではある。─── しかし。


「いいえ、“記録指針”は壊れてはいないでしょう」

「執事さんの言う通り。…より強い磁力を持つ島によって、新しい“記録”に書き換えられたのよ」


 クオンの言葉を引き継いでロビンが言う。クオンは顔だけでロビンを振り向き固く頷いた。どういうことだとナミが目をしばたたかせる。


「以前教わったことがあります。『この海はあまりに広く、異常こそが常識だ』と。海に島があるのなら─── 海底やに島があることのどこがおかしいのかと」


 今は滅びたカオナシの一族のリーダーの言葉は、聞いたときは論が通っているようでいないように思ったが、実際に“偉大なる航路”を航海してみればそれは事実なのだろうと思われた。疑うべきは己の常識の方なのだと。
 クオンの被り物越しに紡がれた低い声音に同意して頷いたロビンが空を見上げ、固い表情で続ける。


「指針が上を向いているなら、“空島”に“記録”を奪われたということ…!」


 空島。成程、そう呼ばれているのか。
 クオンはひとり納得するが、右肩に乗ったハリーは体を傾けてきゅあ?と訝しげに小さく鳴いた。
 初めて聞いた空島という単語にナミが盛大に眉を寄せる。


「空島─── って何よ!!」

「浮いてんのか島が!!」


 訝るナミとは対照的に、冒険が大好きなルフィが目を輝かせて喜色に満ちた声で叫んだ。
 ガレオン船や骸骨はそこから落ちてきたのかとウソップが目を瞠るが、白い雲が広がる空を見上げたゾロが空に島らしきもんは何も、と呟く。それにすかさずロビンがそうじゃないわと首を振り、正確に言うと浮いているのは「海」だと告げた。


「なんとも、まぁ……」


 いくら疑うべきが己の常識でも、浮いているのが島ではなく「海」となればスケールの大きさに絶句してしまう。
 ますます分かんねぇと呻くサンジの横でルフィとウソップが目を輝かせながら「おおおおお!!!」と嬉しそうに叫んだ。


「空に海が浮いてて島があるんだ!?よしすぐに行こう!!」

「野郎ども!上に舵を取れ!!」

上舵うわかじいっぱーい!」

「2人共、お静かに伏せ

「「べぎゃっ!!」」

「あっクオン!!能力使うなって言っただろ!!」

「おっとそうでした」


 騒ぐ2人をそのままにしておくと話が進みそうにないので床にうつ伏せに引き倒したクオンだったが、チョッパーに即座に咎められるとすぐに能力を解除した。がばりと身を起こしたルフィがまた何かを言う前に今度はロビンの咲かせた手がルフィの口をふさぐ。何やら呻くルフィに「とりあえず上に舵は取れねぇよ船長」とサンジが呆れて紫煙を吐き出して言い、この船の優秀な航海士と博識な考古学者は聡明な元執事を挟むようにして話を続けた。


「正直、私も空島については見たこともないし、大して知ってるわけでもない…」

「そうでしょ!?ありえないことよ!島や海が浮かぶなんて!!」


 やっぱり“記録指針ログポース”が壊れたんだわ、と続けるナミに、じっと空を指す“記録指針”を見下ろしていたクオンは「いいえ」と鋭く声を上げる。ナミとロビンの視線が集まり、クオンは顔を上げて真っ直ぐにナミを見据えた。


「ナミ、お忘れですか?“偉大なる航路”に入ってすぐ、一本目の航路で私が言ったことを」

「……『不変のものは唯一、“記録指針”の指す方向のみ』」


 宙を見上げて記憶を掘り起こしていたナミが答えを見つけてそっと口にする。クオンは頷いた。
 まだ“偉大なる航路”の知識がほとんど何もなかった頃、初めて経験したでたらめな季節と天候と波に翻弄されていた彼女に告げた言葉。
 “偉大なる航路”では風も空も波も雲も何一つ信用ならない、しかし疑ってはいけない唯一のものが“記録指針”だと、かつての真っ白執事は教えたのだ。
 ナミは海を越えるごとに経験を得て、今はある程度海を予測することはできている。何一つ信用できなかったものを理解して先を読み、手札にすることを覚え、クオンに言われた通り頭に叩き込んで体に深く刻んできた。その代わりに、疎かになったのは不変への信用だ。


「執事さんの言う通りよ、航海士さん」


 笑みのない真剣な響きを含んだロビンの声がクオンに同意する。それに、そういえばクオンもまた、私をそう呼んでいたんだっけとナミは思って、見上げた先にある真摯な女の表情にあのときのクオンを重ねて見た。
 似ている、と唐突に思う。顔の造形はどこも似ていない。けれど確かに「似ている」と思った。
 被り物をしていたから、あのときクオンがどんな顔をしていたかは分からない。でも今は容易に想像することはできる。冷淡に聞こえた声音に宿る真剣さそのものの表情と真摯な心をしていたと疑わない。だからロビンもそうなのだと、ナミは同じように疑わなかった。


(あのとき、私はどんな海だって越えてみせるって言った)


 その思いは今も変わらない。さすがに詳細の分からない空島なる場所へ必ず連れて行くとは今は言えないが、それでもそのための努力はしなければあのとき啖呵を切るように断言した自分が嘘になる。クオンの真摯さを無碍にすることでもあって、それは絶対にしたくないことだった。あのときはきっと許されなかった、頼りになるクオンの袖を掴むことを許されているのだから。

 困惑と疑心に彩られていたナミの瞳が強い輝きを宿す。クオンのジャケットの袖を掴んでいるのは不確かな存在を前にした不安の表れだが、そのやわさを厭わないクオンは被り物の下で満足げな笑みを浮かべてロビンに顔を向けた。
 ロビンにはたった数度しか見たことのない秀麗な顔が今どんな表情をしているかは分からない。だが、「どうです、うちの航海士は良いでしょう」とでも言いたげなドヤ顔をしている様子が容易に脳裏に浮かんで思わず微苦笑し、すぐに表情を引き締めて口を開く。


「今考えなきゃいけないことは、“記録指針”の故障箇所ではなく、空へ行く方法よ」


 とはいえ、さてどうするべきか。手掛かりは今にも沈みそうだと首をめぐらせて海にたゆたうガレオン船の残骸に目をやったクオンは、そこにふたつの影があることに気づいた。ふらりと船べりに近づけばナミの手が離れる。
 ナミとロビンが真面目な顔で話をしているのを背後にクオンは船べりに身を預けて海に浮かぶ残骸を眺めるチョッパーの隣に立ち、クオンの視線の先を追ったゾロがいつの間にか船を飛び出していたルフィとウソップに気づいて呆れを隠さず唸った。


「何をやってんだよ、あいつらはまた…」

「探検だって……」


 チョッパーが2人を眺めながら短く返し、クオンも彼らが少しずつ沈んでいく残骸を器用にひょいひょいと進み、何やらあさっている様子をじっと見て。


「よし」

「『よし』じゃねぇ大人しくしてろお前は」


 音もなく身を乗り出したクオンの肩をゾロががっちり掴んで止めた。


「ルフィとウソップはいいのに!?」

「あいつらは勝手に飛び出して行ったんだろうが」

「だから私も」

「行けるもんなら行ってみろ」

「あああああ被り物を回すのは卑怯では!?」

「チョッパー、お前も回せ遠慮なく回せ容赦なく回せ」

「えっ、こうか?」

「目は回りませんが妙な感じですねこれは~~~」


 肩を掴んだままのゾロと戸惑いつつも言われた通りにするチョッパーに回されて被り物がぐるんぐるんと勢いよく回転する。その気になれば振りほどいて飛び出せるのにそうしないのはチョッパーに能力を使うなと先程止められたからで、探検に行きたい気持ちはあるが仲間の心配を無碍にするほどのことではない。そのあたりをちゃんと分かっていて的確な方法で止めてくるゾロをクオンは回る被り物の下でじとりと見上げた。ゾロは視線に気づいていて素知らぬふりだ。

 被り物を指で止め、ちょっとした戯れに大した力を入れず拳を突き出せば軽々と厚い手の平で受け止められる。
 ぱしぱしぱしぱし、と無言の攻防で気を紛らわせるクオンとそれに付き合っていたゾロだが、そのうち2人とも熱が入ってきて段々と音が重くなってきた。腹筋に突き出した拳はやはり容易く受け止められたがバシン!と鋭い音が鳴り、これはいけませんねぇと思いながらも楽しくなってきたがゆえにやめどきが分からず右手を引いたクオンは、


「あれは棺桶かしら、ちょっと見てみるわ」

「お任せください」


 ロビンの呟きにこれ幸いと意識を逸らして能力を発動した。海に沈みかけている木造の棺桶が音もなく一直線に飛んでくる。自分の能力でメリー号に運び入れようとしていたらしいロビンが驚きに目を瞠り、甲板に降ろされた棺桶を見下ろした全員の目が次いでクオンに注がれた。
 ロビン以外のじっとりとした視線に一拍遅れてクオンが「あっ」と声をもらす。同時に被り物が外されて大きな手にがっちりと頭を掴まれ、振り返れば凶暴に口角を引き攣らせて笑うゾロの顔がそこにあった。


「ツラ貸せクオン

「わぁお極悪人顔!」

「海賊だからなァ」

「あだだだだだゾロと違って質の良い頭に何するんですか痛い痛い痛いみしみしいってますよこめかみから潰れたらどうしてくれるんですかこのゴリラぁああああ~~~ナミ~~~~~」

クオンが悪い」

「ぴえん」


 あ、使い方合ってます?とゾロに両手で頭を掴まれながら笑うクオンに、本当にイイ性格してるよなぁと感心してしまうサンジだった。ぴきぴきとこめかみに青筋立てながらもその白い頭を掴む両手に加減を見極めて力を加えるゾロの気遣いはちゃんと分かってるだろうから尚のことたちが悪い。

 深いため息をついて「合ってるわよ…」と力なく答えたナミが額を押さえる。
 この元執事、ドラム島を出てからの療養期間でも片鱗は見せていたが、執事でなくなった途端に本性を隠さなくなった。それは仲間としてとても喜ばしいことなのだろうが、ルフィとはまた別の意味で目が離せずこちらを振り回す。
 あんたもっと常識人だと思ってたわよ。いや確かに常識人なんだろうけどどうしてそう妙なところでぶっ飛んでいるの。でもそれがクオンなのよねぇ。内心唸るナミはぐしゃぐしゃの鳥の巣頭にされても笑って手櫛で整えるクオンと眉間にしわを寄せながら雪色の髪を武骨な指で梳くゾロを半眼で見やり、「ゾロ、ちゃんと見てなさいよ」ともう口にし慣れた子供の世話を押しつけるような物言いをしてもうひとつだけため息をついた。






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