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『雪狗が麦わらの一味と行動を共にしてるわ』


 海軍本部大将赤犬のもとにかかってきた電伝虫は、赤犬が受話器を取るや否や通話相手に擬態し、女の声を吐きながら目を細めてにんまりと口角を吊り上げた。
 なぜ赤犬直通の番号を知っているのか、お前は誰なのか、なぜ自分が雪狗を血眼になって捜していることを知っているのか、知っていてわざわざ教えたのか、訊きたいことはごまんとある。しかし、赤犬は帽子の陰で鋭く目を眇めただけで、続く女の軽やかな声が紡ぐ言葉を待った。


『でも海兵を差し向けるのはもう少し待ってちょうだいな。あなたも雪狗をできるだけ穏便に手元に取り戻したいでしょう?』


 澄んだ鈴が反響するような声音で蠱惑的に囁く女に擬態した電伝虫の雪色の髪が、窓から射し込む陽光に照らされて煌めく。だが所詮は擬態、電伝虫の向こう側にいるだろう女の自前の髪の方がより美しいことを、同じ色を有した人間を脳裏に描いた赤犬は存分に知っていた。
 女の声は続く。そう長い時を置かず、必ず雪狗は自らこちらへやってくる、と。そのときに取り戻せばいいのよ、と続けて軽やかに微笑んだ。根拠のない、しかし確信を持ったその言葉を、赤犬は切り捨てることはできない。


「なぜ分かる」

『知っているからよ。私達血族・・・・は、この広い海のただ中でも必ず巡り合う』


 そういうものよ、そういうものなの。悲しいことにね。そう笑み混じりに嘯く情報屋の女は、『あなたもよぉく、知っているのではなくて?』─── そう言い残して、返事も聞かずに通話を切った。






† 空への指針 1 †






 仲間を置いてアラバスタを離れた麦わらの一味は、追ってくる海軍を蹴散らし、突き放して、今は穏やかな海を静かに航海していた。
 もう追って来ねぇな、海軍の奴らと周りの様子を窺っていたゾロが呟き、それに「ん───……」という気のない声がいくつか返る。突き放したんだろ?とゾロが続けて、それにやはり「ん───……」と気のない声がいくつも返って、あまりに腑抜けた仲間の返事に呆れを隠すことなくゾロは眉を寄せた。


「あのな、何だよその気のねぇ返事は…」


 ゾロの冷めた視線の先、ラウンジ前の手すりから頭と顔を出して並ぶ船長含めた仲間達がめそめそと涙を流しながら同時に力なく嘆きを落とした。


「「「「「さみし───……」」」」」

「めそめそすんな!そんなに別れたくなきゃ、力ずくで連れてくりゃよかったんだ」


 すっぱりと切り捨てるゾロの隣で、上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物を被った燕尾服をまとうクオンが実に海賊らしい思考だと感心するが、嘆く仲間に対する気遣いのひとつもない言葉にめそめそしていたルフィ達がじろりとゾロを睨んだ。
 うわぁ野蛮人、最低、マリモ、三刀流……とそれぞれ悪口を口にし、「待てルフィ三刀流は悪口じゃねぇぞ」とウソップがツッコんで、「四刀流……」となぜか増やしたルフィに増えてどうすんだよ!とさらにツッコミを入れる。いいか納豆あるだろ、納豆にお前腐ってるとか言ってもよ、と具体的に説明を加えるウソップにどうでもよくなったのか「分かったよ好きなだけ泣いてろ」と手で制してため息をついた。


クオン!あんたも言ってやりなさいよ、あんただってビビと別れて寂しいでしょう!?」


 ひとり仲間に混じって嘆くでもなくいつものように相棒のハリネズミを右肩に乗せて中央甲板に佇立するクオンをナミが振り向く。クオンはことりと被り物をした頭を傾けた。


「何を仰るのやら。彼女は自分の道を自分で決め、そして残るという選択をした。私がその選択を是としなければどうするのです。それに、彼女は私をアラバスタにて待ってくれています。確かに別離は悲しいものではありますが、寂しいからと嘆いている場合では……場合……では……さびしくなど…別に………」


 被り物越しのくぐもった声は抑揚が削がれて感情が読み取りにくいが、それでも判るほど徐々に言葉尻を小さく震わせたクオンは、背中をぴんと伸ばして佇立していた姿勢から力なくくずおれるようにして甲板に膝を抱えて座り込んだ。


「…………さびしい……」


 膝頭に被り物の額をつけて小さな嘆きを落としたクオンを、瞬時に仲間達が取り囲んでぎゅっと抱きしめた。
 愛情深く一途な元執事はビビに主従以上の愛を抱いていたのは誰も疑うことはなく、それはビビも同様で、深く重く想い合っていたふたりが道を別つことは胸が裂けるほどの痛みがあったことは容易に窺えた。
 それでも胸の痛みを受けとめビビとの関係性を変えるために先へ進むことを決めたクオンの小さくこぼれた嘆きを仲間達は聞き逃さず、少しでも慰めになればと少し低めの体温に熱を分けるようにして抱きしめる。そうしてみればクオンの体は外見よりも随分と細く感じて、尚更腕に力がこめられるのだった。

 クオンの体が抱きつかれた仲間に隠れて白い被り物だけが僅かに頭を覗かせている。サンジすら一番輪の外からクオンを慰めるために腕を回しているというのに、その中に唯一入っていない緑髪の剣士を全員が顔だけで振り返った。


「こっち見んな」


 一連の流れを見ていたゾロは過保護がすぎると呆れ果てた様子で唸り額を押さえる。クオンがビビと別れて寂しいのは本音だろうが、覚悟ガンギマリの鋼メンタル且つちゃっかりしているクオンはその実、仲間に抱きしめられた時点で既に機嫌を上向きにしている。ちらりと窺うように僅かに上がった被り物の下にある秀麗な顔は外から見えないからとゆるゆるになっているのがゾロには直感的に分かっていた。

 ゆえに、目を据わらせたゾロはクオンを中心とした塊に近づき、冷たく切り捨てるかと思いきや意外に乗り気なのかとナミ達が目を瞠る中、愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物を外すときょとんと目を瞬くクオンの髪に武骨な手を伸ばし、思い切りぐしゃぐしゃに掻き回した。頭を掴んでぐわんぐわんと揺らす。


「何をするんですかゾロ~~~」

「せっかく慰めてやってんだ、ありがたく受け取れ」

「目が回ります~~~」

「この程度じゃどうってことねぇだろお前なら」

「この脳筋マリモめ」

「よく言った」

「おあああああああ」


 ぼそりとしたクオンの呟きは聞き逃さず、口の端を歪めて笑ったゾロが両手でクオンの頭を掴んでぎりぎりと力をこめる。痛いですよバカ、と遠慮なく悪態をつきながら涙目で睨むクオンと悪い顔をして笑うゾロを交互に見たナミが肩をすくめて「クオンも結構バカよね」と容赦のないひと言をこぼした。
 その気になればいつでも能力を使って抵抗できるがする気配のないクオンと、それを分かっていて加減してクオンに軽い痛みを与えたあと被り物を被せたゾロの戯れはすぐに終わり、ひどい目に遭った、と被害者ぶって膝を抱えるクオンの肩をそれぞれが叩いて茶番は終わりを告げる。
 そのとき、まるでそれを待っていたかのように、涼やかな女の声と共に女部屋へ続く船室の扉が開いた。


「やっと島を出たみたいね…ご苦労様」

「ああ。……?」 


 ねぎらいの言葉に思わず返したゾロが仲間の声ではないことに気づいて訝しげに振り返り目を見開く。クオンを囲んでいたルフィ達も声の主を見て、まさかの人物の登場に揃って目を見開き声もなく驚愕し、即座に体勢を整えると臨戦態勢を取った。

 クオンもまた甲板に座り込み膝を抱えたまま声の主を振り向き、シンプルな服装に身を包んだ女を認めると被り物の下で鈍色の瞳を瞠る。
 肩ほどまである艶やかな黒髪、出るところは出て引っ込んでいるところは引っ込んでいるスタイルの良いその身には武器のひとつも携えず、理知的な瞳が麦わらの一味を静かに映している。ナミとは違う種類の美しい面差しは妙齢のそれで、誰が見ても美人だと口を揃えるだろう。

 麦わらの一味が壊滅させた組織、バロックワークス副社長にしてクロコダイルのパートナー、ミス・オールサンデー─── ニコ・ロビンは、殺気立つ面々を前にしても平静とした風情を崩すことはなかった。

 組織の仇討ちかと鯉口を切るゾロ、何であんたがここにいんのよ!と頭を抱えて驚愕するナミ、キレーなお姉サマ~~~!と目を♡にして見惚れるサンジ、敵襲~~~!!と拡声器を手にあたふたじたばたと慌てるウソップ、驚きメインマストの陰に隠れようとしてまったく隠れられていないチョッパーと一気に騒がしくなった船の中、見覚えのある人間だと気づいたルフィが「あ!…何だ、お前じゃねぇか!生きてたのか」と何とも呑気に言って、クオンは立ち上がることすらせずにおやおやあらあらまぁまぁとのんびり目を瞬かせた。


「そういう物騒なもの私に向けないで。───って、前にも言ったわよね?」


 ゾロに刀を、ナミに天候棒クリマ・タクトを向けられたロビンが両手を掲げて静かに言い、ゾロとナミの腰あたりに生えた手がそれぞれの得物を叩き落とす。否、「生えた」ではなく「咲いた」の方が正しいですねと内心改めるクオンが立てた膝に顎を置けば、ちらりとロビンに視線を向けられて首を傾ける。


「……?」


 あんたいつからこの船に、と問い質すナミと叩き落とされた刀を鞘に仕舞って警戒の目を向けるゾロとは違い、クオンには別にニコ・ロビンに対して向ける敵意はなかった。ただ、何でこの船に乗っているんでしょうか、とは思うが。
 動く様子のないクオンから視線を外し、折りたたみのビーチチェアを開きながらロビンが「ずっとよ」とナミの問いに答える。下の部屋、つまりは女部屋で読書をしたりシャワーを浴びたりナミの服を借りたりと、何ともまぁ好き勝手にしていたようだが、それでもやはりクオンはロビンの隠密の上手さに感心しただけだ。いくら海軍に追われビビとの約束に気を取られていたからといって、そこまでされてまったく気がつかなかったのはロビンが気配を上手く殺すすべを熟知しているからだ。
 何のつもりよバロックワークス!と怒りをあらわにするナミを見て、さすがに座ったままはよくないかと思いながら腰を上げる。動いた白を警戒するようにロビンの目が再びクオンを見たが、何をするでもなく佇むクオンをじっと見て、今度はルフィの方を向いて彼の名を呼んだ。


「モンキー・D・ルフィ」

「ん?」

「あなた、私に何をしたか…忘れてはいないわよね…?」


 ビーチチェアを開きながら言われたルフィは疑問符を浮かべ、そんなルフィの胸倉を掴んでサンジが「キレーなお姉さん」ことロビンに何しやがったのかと詰め寄り、メインマストの裏からクオンの背中へと移動したウソップが脇から顔を出し拡声器越しに小さな声で「速やかに船を降りナサーイ」と言うが、誰の耳にも届いてはいない。クオンには届いたが「それ、拡声器を使う意味あります?」と割と容赦のないことを思うだけだった。


「おいお前!嘘つくな!おれは何もしてねぇぞ!?」

「いいえ、耐えがたい仕打ちを受けました。責任…取ってね」


 ロビンの言に心当たりのないルフィが返し、しかしロビンはビーチチェアに腰掛けながら言葉で詰め寄る。
 慌ただしい麦わらの一味の中で唯一ロビンと面識のないチョッパーが不思議そうに首を傾げているのを見て、クオンは白手袋に覆われた手で手招きチョッパーを呼んだ。素直に傍に寄ってきたチョッパーに腰を屈めて目線を合わせ、クオンにつられて背後のウソップも床に寝そべった。


「彼女はオカマ殿と同じくバロックワークスの元副社長、つまりは敵だった方ですね」

「えっ!そうなのか!?」

「まぁ、様子を見る限り今は敵対する意思はなさそうですが」


 ビビの祖国を危ぶませた敵のひとりを前にしてどこかのんびりとクオンが言い、チョッパーをすくい上げたクオンが腰を伸ばす。ぽふりとピンクの帽子に顎を乗せれば、クオンの肩から頭に移動したハリーがぺしょりと寝そべった。手遊びにチョッパーの顎をくすぐり、くすぐったそうに身をよじらせながら笑うチョッパーにクオンも肩を小さく震わせて笑い、面白くなさそうにひと鳴きしたハリーが被り物をぺしりと叩けば即座に意を汲んだクオンが片腕でチョッパーを抱えたまま指を伸ばしてハリーを撫でた。構ってもらえてきゅっきゅと嬉しそうにハリーが鳴く。
 そうして和やかに戯れている3人をじっと真顔で見つめるロビンに、3人は揃って首を傾けた。心なしかきゅっとロビンの口元が締まる。


「意味分かんねぇ奴だな、どうしろっていうんだよ」


 散々サンジにルフィてめぇあのお姉さんに何をしたとがっくんがっくん揺さぶられていたルフィがようやくサンジの手を外して面倒くさそうに訊く。その問いにクオン達からルフィへ振り向いたロビンは薄く微笑みながら頬杖をつき、まったく予想だにしていなかった言葉を紡いだ。


「私を仲間に入れて」


 一拍遅れ、ルフィとウソップとナミの渾身の「は!!?」が晴れ渡った青空の下で轟いた。





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