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 ゴーイング・メリー号は順調にアラバスタへの航路を進んでいる。アラバスタの海域に入ったようで気候は安定し、空も海も穏やかそのものだ。
 燃費がいいクオンはそれでもここ暫く毎日三食とっていたために食事を抜けば軽い空腹を覚えるようになっていて、他の者達にとっては尚のこと空腹に苛まれているだろう。突如「ニ゛ャ───ッ!」と雄たけびと共に海から現れた猫耳を生やして立派な背びれを持つ海獣を前に、怯えるでも驚くでもなく真っ先に「あのクソマズイ紙粘土ぶりのメシだァ!!」「メシだァ!!!」と刀を三本構えるゾロと指を鳴らして今にも襲いかからんとしているルフィを見れば空腹度合いが判るというもの。

 目の前に現れた食料を前に狩人の目をする2人をまったく気にも留めず、“永久指針エターナルポース”の指針を確かめ水平線を見つめるナミは「進路よし」と呟いてそろそろ着いてくれないかなと平常通りだ。まったくもって逞しい航海士である。

 海獣を「海ねこ!」と呼び慌てて後部甲板へ駆けていったビビの後を追いながら視線の先にいる海獣を見て、クオンはおや?と首を傾げた。あの程度ならゾロとルフィに任せていい、むしろ過剰戦力だとは思うが、そうではなく。
 ゾロとルフィの気迫に押されてぞっと身を引いた海獣に船をバックさせろと叫ぶルフィとできるかァ!と怒鳴り返すナミの声、そして確実に仕留めろと指示を出すサンジの声をBGMに「確かあれは…」と記憶を手繰りながら右手をゆっくりと掲げた。





† ナノハナ 3 †





「あなた達、おすわりストップ

「おべっ!」「ぐっ!」「ぬぉっ!?」


 クオンの声と共に海ねこ食料を狙っていたルフィゾロサンジが引き倒されるように甲板の床に叩きつけられ、まさかクオンに止められるとは考えなかった3人は受け身も取れずにその場に倒れ込んだ。
 その隙に海ねこが海へと潜って逃げていく。それを見送って能力を解除すれば、がばりとサンジが身を起こし、次いでルフィが麦わら帽子を押さえて起き上がった。


「てめぇクオン!何しやがるせっかくの食料を!」

クオンコノヤロ何すんだァ!」

「手荒な真似をして申し訳ございません。しかし緊急事態でしたので」

クオンありがとう!あのね、あれは食べちゃダメなの!アラバスタで海ねこは、神聖な生き物だから」


 国外の人間にとっては何の思い入れもないものでも、その国に住む者達にとっては命よりも大事にするべきことはままあることだ。特にアラバスタ王女のビビからすれば、海ねこは絶対に狩られるわけにはいけない存在である。
 海には色々いるんだな、と感心するチョッパーに、膝を震わせて甲板に上半身を伏せつつも「あんなもんにびびるとはお前まだまだだな」と震える声でウソップが言う。脅威が去りすぐさま復活して手すりに足をかけながら“凪の帯カームベルト”で海王類と勇敢に戦ったときの話をしてやろうと嘘をつくウソップと純粋であるがゆえにそれを信じてしまうチョッパーは置いておいて、クオンは食いもんが逃げたと手すりを噛みながら泣くルフィを慰めるように「おいたわしいことで」と声をかける。自分が泣かしたも同然であることはまるっと棚に上げて嘯くクオンに刀を鞘に納めたゾロが物言いたげな顔をするが無視をした。


「安心して、もうすぐお腹いっぱい食べられるから」

「本当か!?今度は何ネコが出るんだ!?」


 ビビの言葉に即座に反応してぎらりと目を輝かせるルフィに答える前に、後部甲板へとやって来たナミに「ビビ、クオン!風と気候が安定してきたみたい」と声をかけられる。クオンもそろそろかとは思っていたが、ナミがそう言うのであれば間違いないだろう。アラバスタの気候海域に入ったようですねとクオンがこぼせばビビが頷き、「海ねこが現れたのもその証拠」と続けた。

 クオンは肩から被り物の上に登ったハリーにぺしぺしと前足で叩かれ、きゅいきゅいと鳴かれて顔を上げれば、水平線の向こうから徐々に船影を表すそれらに被り物の下で目を細めた。同じくそれに気づいたゾロが不敵な笑みを浮かべて口を開く。


「後ろに見えるあれら・・・も…アラバスタが近い証拠だろう」


 はっとしたビビが顔を上げてクオンとゾロの視線を追うように目をやり、息を呑んだ。大型の帆船が数多く姿を現し、波を切ってこちらに─── メリー号と同じ場所を目指して進んでいる。まだ遠いが、帆には大きくバロックワークスのマークが入っているのも見えた。
 ルフィ達もバロックワークスの船に気づいてそれぞれ声を上げ、とりあえずはすぐさまこちらに攻撃を仕掛けてくる気配がないことを確かめるクオンのジャケットを、ビビがぎゅっと握り締める。力がこもった手は小さく震えていた。それでも強い眼差しで敵の船を見つめ、「あれはおそらく『ビリオンズ』!オフィサーエージェントの部下達よ」と教える彼女の背を鼓舞するように軽く叩く。
 大丈夫だ、ビビにはクオンがついていて、そしてルフィ達麦わらの一味がついている。何も心配することはない。顔を上げて見上げてくるビビにひとつ頷いてみせれば、ジャケットを握る手の震えが止まった。

 バロックワークスの船に向かって今のうちに砲撃するかと怯えながらも攻撃的なウソップに、敵船のもとに行ってぶっ飛ばした方が早いと言い自分の腹の虫が鳴くのを聞いていや待てメシ食うのが先だろと意見を変えるルフィの緊張感のなさに吐息のような笑みがこぼれる。瞬く間にゆるんだ空気を再度引き締めるように、「バカ気にすんな、ありゃザコだ」と口の端を吊り上げて笑うゾロの声が飛ぶ。


「そうさ!本物の標的を見失っちまったら終わりだぜ。こっちは10人しかいねぇんだ」


 紫煙を吐き、ゾロに同意したサンジが続ける。クオンも頷いた。その通りだ、あちらは軽く200人以上、こちらはたったの10人。しかも内2人はカルガモとハリネズミである。今真っ向から相対するのは時間の無駄だ。優先順位を見誤ってはならない。


「それで、Mr.2への対策はいかがされますか」


 アラバスタも近くに迫り、喫緊の課題をクオンが口にすれば、考えがあるとゾロが口を開いた。まずは仲間である印を決める、と。それに真っ先に食いついたのはルフィだった。


「印ならバツがいい!」

「おや、どうしてですか?」

「海賊だろ」

「でも、ありゃ本来相手への“死”を意味するんだぞ」


 ウソップが思わず口を挟むが、ルフィは「いいんだバツがいい」と取り合わずビビとクオンの方を向いた。


「なぁビビ、クオン!カッコいいもんな!」

「うん、私もそれがいい」

「ええ、私も賛成ですよ」

「何でもいいから描けよ。本題はそこじゃねぇんだ」


 前提段階で話が滞り呆れるゾロに言われ、懐からペンを出したクオンはそれをルフィに渡した。1本では足りないだろうとウソップが男部屋へと降りていき、待っている間に左腕の手首近くに×を描いたルフィが「これでよし!」とにっと歯を見せて笑う。
 そこで数本の黒いペンを手にウソップが戻ってきて、ゾロがチョッパーに包帯を頼んでクオンに近づくとおもむろにクオンの左腕を掴んだ。ゾロの示す対策を興味津々に聞いていた真っ白執事がうん?と突然腕を掴まれたことで目を瞬かせる。
 剣士殿?という呼びかけを無視したゾロはクオンのジャケットの袖を雑にまくり上げ、クオンが声を上げる暇もなくルフィが描いた場所と同じ位置に×を描いた。白くなめらかな肌に真っ黒なインクが乗って、よりいっそう黒々と浮かび上がる。
 容赦なく仲間の印である×をクオンの腕に描いたゾロは持ってきてもらった包帯を使い、印を隠すように巻く。


「いいか、あのオカマ野郎の変身は完璧だ。いつ、この中の誰かになりすましてビビの命を狙ってくるかもしれねぇ」


 真剣な顔で言葉を紡ぐゾロに、クオン以外の全員の顔も自然固くなる。
 仲間を少しでも怪しいと感じたら、とゾロが続け、おもむろにクオンの腕の包帯を解いた。


「この包帯を取って・・・“印”を見せ合う。それができなきゃ偽者だ」


 成程、とクオンはどこか遠いところで感心をこぼした。包帯だけでは全員の共通点として判りやすく、それゆえの二段構えは有効な手段だろう。包帯だけが証明の手段ではないと気づかれたとしても、ルフィが決めた印まで見通すことはほぼ不可能だ。
 提示された良策に、しかしこれをナミやクオンが思いつくならともかくゾロが発案となれば感心だけに留まらないのがサンジである。


「へぇ、二段構えの印とは気が利いてておめぇらしくねぇな…─── さてはおめぇが既にオカマ野郎!?」

「斬るぞてめぇっ!!!」


 サンジの真面目くさった疑惑に、クオンから手を離し即座に目を吊り上げて怒鳴り刀の柄に手をかけるゾロに「お、ゾロだ」「なんだゾロか…」と同じく疑っていたらしいルフィとウソップが安堵の声を上げた。

 そうしてわいわいとそれぞれペンと包帯を手にする彼らを眺めることも忘れ、呆然といまだ自分の腕に描かれた×を見つめるクオンに低い声がかかる。錆びたブリキのおもちゃのようにぎこちなく首を動かして顔を上げれば、ずいと黒いペンが差し出された。なにを、と吐き出された言葉は低くくぐもり、掠れていた。


「描いてやったんだからてめぇもおれに描け」

「……」


 別にあなたに頼んだわけではありませんと反射的に言おうとした口は、しかし空気を噛んだだけで力なく閉ざされる。被り物の下で揺れた鈍色の瞳を逸らした。
 描く気がなかったのを見抜かれたのだろうか。クオンはあくまでビビの執事だ。付属品である。そういう自覚があるクオンはビビ以外は不要であり、どれだけ彼らに親切にされようともこちらが心と気を許そうとも、彼らを仲間だとは、認めていない。認めてはいけない。
 アラバスタに着けばビビの傍を離れるつもりもないから証明の機会など訪れない。だからこれ・・は、自分には不要なのだと─── そう、思っていたのだ。なのに。


(嬉しい、などと)


 腕に乗った黒いインクで描かれたそれは、クオンの胸をひどくあたたかくすると同時に痛いほどに締めつける。クオンの腕に描かれたこれを誰も否定はせず、当然のように受け入れられたことが拍車をかけるようだった。
 ああ、これではまるで、一味に惹かれていることを自覚しつつも頑なに認めずにいた自分が聞き分けのない子供のようではないか。
 しかしもう既に手遅れだとは、分かっている。だってあのとき、自分はこの船の船長に己が引いた線を無遠慮に灼かれたことを自覚したのだから。それでもバカみたいな意地を張って目を逸らしていたら、今度は剣士の手で無理やりに視線を合わせられただけのこと。クオンがひとりで引いた線などとっくに越えている。

 ふ、と吐息のような笑みを浮かべたクオンは自分の左腕に描かれた×をそっと指で撫でた。慈しむような、いとおしむような優しい仕草で触れ、腕に残るぬくもりに目を伏せる。しかしすぐに顔を上げると、ゾロの手からペンを取って無遠慮に男の左腕を引いた。キャップを外したペン先を腕に押しつけ、自分が描かれたそれと同じ場所にインクを乗せた。自分もと鳴いて被り物を叩くハリーの左腕にも器用に×を描いた。

 あとは包帯を巻くだけとなり、クオンは右手を掲げて近くにあった包帯を3つ手の中に引き寄せた。直線を描いて飛んできたそれを握り、隠すこともなくなってきた能力の使用にしかし何も言わないゾロに1つ渡す。
 ペンを懐に仕舞うクオンの左腕が再び取られ、×を覆った包帯がギュッと固く結ばれる。それでも痛みを覚えるほどでもない力加減に、意外と器用…力の加減が絶妙……繊細ゴリラ、という単語が浮かんだクオンの思考を読んだように鋭い手刀が被り物に落ちてきて、まだ何も言ってませんが?と被り物を押さえて抗議の声を上げるクオンにじゃあ何を考えたか言ってみろと返されて口を噤む。無言でゾロの左腕を取ると包帯を巻いた。


「とにかくしっかり締めとけ。今回の相手は謎が多すぎる」


 クオンに包帯を巻かれながら仲間に向けてゾロが言い、しっかりと固くレース風にアレンジを加えた豪華な蝶々結びにした真っ白執事に目を据わらせて被り物を無言で横に叩きくるくると回す。「何をするのです」「てめぇが何しやがるふざけんな」「可愛いでしょう?」「普通に巻け」「それではつまらないじゃないですか」「面白さを求めてんじゃねぇ!」と仲良く額を突き合わせる2人を、ナミの腕に包帯を巻いていたビビが羨ましそう且つ妬ましそうに見た。


「なにあれ浮気?浮気よね?気安いにもほどがあるわよ私にだってあそこまで雑にされたことないのに!!どう思うナミさん!かくなる上はクオンの顔に私の名前を書いて誰のものかはっきり判るようにするしか…!」

クオンの美貌に自分の名前が書かれてるのはビビ的にアリなの?」

「ナシだわ」


 何を言ってるの当然じゃない、と言わんばかりの真顔できっぱりと言い切るビビに苦笑し、じとりと半眼になったビビの視線の先、しょうがありませんねぇと包帯を巻き直すクオンと回る被り物の上から避難してゾロの頭に飛び移り何やら鳴きながらわさわさと若草色の髪を掻き混ぜるハリーに「分かった分かったお前のはおれが巻くからやめろ」となぜか言葉を理解して返すゾロを見たナミは、ふいに“東の海イーストブルー”で出会ったばかりのクオンを思い出した。あのとき、突如空から降ってきた真っ白執事と今のクオンを比べてみる。
 初めての出会いから、日数的にはそんなに多く経ってはいない。だというのに随分とこの船に馴染んだクオンは当然のようにそこにいて、いつしかクルーに気を許してはああして戯れ、一番警戒心を持たれていたはずのゾロとの距離が誰よりも近い。


「ねぇビビ、ひとって変わるものね」


 小さいハリーのためにクオンが包帯を細く切り、それを使って器用に巻いていくゾロを見ながらこぼれた呟きに、ビビはひとつ目を瞬き、そっと伏せて、唇に笑みを刷くと静かに頷いた。





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