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「おや航海士殿、おはようございます。いい朝ですね」

「……おはよう、クオン。一応訊いておくけどね、…あんた何してんの?」

「ご覧の通り甲板の掃除を。そうそう、勝手な真似をと思いましたがみかん畑に水をやり、葉に少し元気がなかったようなので肥料を撒きました。それと帆ですが、前々から少し気になっていた箇所の補修を済ませて、あとは掃除が終わり次第倉庫の整理を───」

「ビビ───!!!」

「任せてナミさん!!クオン被り物取るわよ」

「えっなぜ」

「期間が明けたからってすぐに働こうとしてんじゃないわよしかもいきなりそんなにこなす奴があるかこのバカ!!!」


 スパァ─── ン!!


「あいたぁ!!」



「…………あいつら朝から元気だなぁ」

「あっはっは!クオンの奴ナミに殴られてら!」

「……食料盗み食いしたのバレたら、おれ達もああなるのか…」

「クワァー…」





† ナノハナ 1 †





 チョッパーから設定された療養期間が明け、同時にナミからの厳命も解かれたクオンは1週間ぶりに好きに動けるとあってうきうきと早起きして雑用をこなしていたのだが、起き出したナミとビビに見つかり捕まったことで強制終了と相成った。
 きっちりと白い燕尾服に身を包むクオンの頭には上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物がはまり秀麗な顔を隠している。声は被り物を通したことで低くくぐもり抑揚を削いで感情が読み取りにくい。だが既に麦わらの一味にとってはクオンの内情を見透かすことは難しくなく、つまりは、腰にしがみついて全体重をかけ放さないビビを真っ直ぐに立ちながら見下ろすクオンが被り物の下で困ったように眉を下げていることなど容易く見抜くことができた。

 クオンの首に昨日まであった絆創膏は既になく、なめらかな真っ白い肌が晒されている。よくよく見ればうっすらと赤い筋のような傷痕が見えるがパッと見では気づかず、これもあと数日で跡形もなく消えるだろう。

 はりぃきゅいきゅいと鳴くハリネズミがクオンの肩に乗って何やら懇々と諭しているが、人語を解していても話すことはできないハリーの言うことは通訳なしでは正確には伝わらない。それでもせめてアラバスタに着くまでは大人しくしておけという意味のことを言われたことを理解したクオンは頷く代わりにハリーの顎を指で撫でた。
 と、そのとき、男部屋から眠そうな顔をしたゾロがのそのそと甲板に出てきて大きく欠伸をする。


「ふぁ…」

「おはようございます、剣士殿」

「ああ……あ?……何やったんだお前」

「なぜ私が何かやらかした前提なのです」

「何もやってねぇのか?」

「やりましたが?」


 挨拶代わりにゾロに胡乱な目を向けられてしらっと答えれば、やったんじゃねぇかと呆れたように言われて何も言い返せない。クオンは被り物の下でそっと視線を逸らした。

 さて、いつもならば既にサンジの朝食の号令が飛んでいるはずだがそれはなく。なぜかと言えば、どうやら食料庫が空になっているようで作ろうにも作れないとのこと。
 クオンがナミとビビに捕まっている傍らでサンジは非常事態に頭を抱え、すぐに犯人候補に目星をつけて尋問に入っている。煙草を吸いながら仁王立ちするサンジの目の前に正座をさせられているのは、肉に目がない大食漢、このゴーイング・メリー号の船長モンキー・D・ルフィである。予想通りすぎて驚きもしない。

 眠そうに甲板を見回したゾロは特に興味がないのか、すぐにぱたりとその場に大の字になってぐがーっといびきをかいた。大変に寝つきがいい。
 呼吸のたびに揺れる胸元と若草色の髪をなんとなしに見下ろしていれば、おもむろにビビが離れたかと思えば手を引かれ、船室の壁に凭れるように座らされた。正座をしろということなのかと足をたたもうとするとそうではないようで、膝を立てて座れば足の間にビビが入り、ぽすんと胸元に凭れてきた。満足そうに笑って体重を後ろにかけ後頭部をすりつけてくるビビにクオンも被り物の下で笑みをこぼし、応えるように被り物の頬部分を寄せる。白手袋に覆われた両手はビビに取られ、細い指がにぎにぎと触れて楽しそうだ。

 そうして主従がいちゃついている間に、サンジに尋問されたルフィは嘘が苦手なためすぐに看破され、「おい、口の周りになんかついてんぞ」「しまった!食べ残し!?」と焦って両手で口を覆えばもはや自分が犯人だと言っているようなもので、「おめぇじゃねぇかァ!!!」とサンジの鋭く重い蹴りを食らって吹っ飛んだ。勢いよく甲板の床を滑っていくルフィだが、残念なことに同情の余地はまったくないのである。

 ビビのつむじに被り物の顎を乗せ、視線をめぐらせたクオンは船のふちに座り釣竿を持つウソップとチョッパーとカルーを流し見た。ルフィに目がいき共犯がバレないうちに証拠隠滅しようと一生懸命口を動かしているが、クオンが気づいて黙っていても鋭くクオンの意識が自分に向いていないことを察知したビビがウソップ達を見て気づき、鍵付き冷蔵庫をねだるサンジに「そうね。考えとくわ、命にかかわるから…」と返すナミも共犯者どもに気づいて目を据わらせた。

 いち早く咀嚼を終え飲み込んだウソップが「さーて釣らなきゃなーサンジ君のために~」と平然と嘯くが、彼と共犯がバレないかと怯えるチョッパーとカルーのもとには青筋立てた航海士が近づき、拳を振り上げていた。


「さて、姫様。じきにアラバスタに着く頃でしょう。クロコダイルについて話せることは話しておいた方がよいのでは?」

「ええ……そうね。…バロックワークスの社長ボスであるクロコダイルは、アラバスタの人達にとっては英雄ヒーローなのよ」


 その言葉に、盗み食いの共犯者どもに鉄槌を振り下ろして沈めたナミが意外そうに目を瞬く。


英雄ヒーロー?クロコダイルはアラバスタの英雄ヒーローなの?」


 執事を背凭れにしたビビが頷いてクオンの手に自分の手を絡めてぎゅっと握り締め、クオンも応えるように握り返す。


「“王下七武海”っていうのはつまり、世界政府に雇われた海賊達のこと。七武海が財宝・・目当て・・・に海賊を潰すのも、海軍が正義のために海賊を潰すのも、国の人達にとってのありがたさは変わらないってわけ。結局、町を襲う海賊達を追い払ってくれるんだもの」


 ビビの言葉に、そりゃそうだとサンジが頷く。海軍は正義を掲げて海賊達を捕まえにかかるが、どうしても後手に回りがちであるため必ずすべての国の民を護れるわけではない。海軍が来るよりも町が潰れる方が早いことも珍しくなく、そんなときに颯爽と現れ自分達を助けてくれるのであれば、海軍だろうが政府公認の海賊・・だろうが、救いを求める者達にとっては変わりはないのである。
 アラバスタにも軍はある。だがそれよりも単身動く方が当然早く、結果、近年国王に不信感を抱いている民達がより頼りにして英雄視するのはクロコダイルという現状だ。実はそのクロコダイルこそがアラバスタに不穏の種を撒き国王の不信を煽って民衆を唆し国を乗っ取ろうとしているとは、誰も夢にも思っていないのだろうが。ビビがバロックワークスの社長の正体を知って絶句したほどなのだ、おそらく近年の暴動に悩む国王の頭からは国をおびやかす黒幕候補から真っ先に除外されている。どころか、もしものときの頼りにすらしているのかもしれなかった。


「とにかくおめぇ、クロコダイルをよ!!ブッ飛ばしたらいいんだろ!?」


 拳を突き出しながらルフィが言い、とても簡潔な答えにクオンは被り物の下で笑みを深めた。ビビがクオンの手を握ってルフィに頷く。


「ええ…暴動をまず抑えて、国からバロックワークスを追い出すことができれば…アラバスタは救われる」

「……」


 希望を口にするビビの言葉に、クオンは思うことが何もないわけではない。ビビのそれは理想論であり、とても甘くご都合的な解決方法だとクオンは知っている。
 アラバスタの国王軍30万、反乱軍は70万、合計100万人の衝突は近い。それが何の犠牲もなく無事に止められるなどクオンはまったく考えていなかった。
 国王軍が反乱軍へと寝返り、国王軍が混乱している今が事を仕掛ける絶好の機会だ。既に何度も小競り合いや暴動は起きており、物資が不足しがちな反乱軍の体力もそう長くはもたないことも加味するとあまり時間はない。
 かつて傭兵団にいたときの経験から冷静にそう分析するが、ビビに伝えるような真似はしない。いまだ暴動に留まっている彼らを止めたいとビビが言うのなら、それを何とか・・・して・・叶えるのが執事だからだ。

 それに、ビビの理想論はまったくの実現不可能というわけではない。ビビにかつて聞いた、反乱軍のリーダーは彼女の幼馴染だという。
 少しだけ聞いた過去の話だけでも固い絆が結ばれたのだろうと察することはできた。だとすれば、彼とビビを会わせることができれば、反乱軍を解散することはできずとも、揺らぎ、荒れ狂う砂嵐の向こうにある真実を探ろうとしてくれる可能性は高かった。

 クオンが思考に耽っている間に、ウソップがふと疑問に思ったバロックワークスのシステムをビビに訊いて淀みなく答えるまで話が進んでいた。クオンは以前一度聞いていたのでビビが話すたびに顎から伝わる微かな振動に目を細めて流し聞く。
 と、一度目を覚ましたゾロが目をこすりながら船べりへと体を滑らせ、ウソップの隣に座り込むと腕を組んでまた瞼を閉じる。本当によく寝ますねぇ、とクオンはいっそ感心した。
 ビビがバロックワークスの詳細な説明を終え、「─── これが秘密犯罪会社“バロックワークス”よ」と締め括る。


「そ~~~か、じゃあクロコダイルをよ!!!ブッ飛ばしたらいいんだろ!?」

「お前絶対理解してねぇだろ」


 結論は変えず拳を突き出して笑ってそう言うルフィに、紫煙を吐き出したサンジが呆れたようにツッコむ。大して難しい話でもないとは思うのだが、まぁ船長殿ですからねぇとクオンは被り物の下で苦笑した。


「─── ってことは間違いなく、バロックワークス社最後の大仕事、アラバスタ王国の乗っ取りとなれば」


 おもむろに口を開いたナミが真剣な顔でビビを見つめ、にわかに空気が張り詰めた。


「その、“オフィサーエージェント”って奴らの、残りは全員…」

「……ええ」


 ナミの言いたいところを悟り、固い表情でビビは頷く。
 オフィサーエージェント─── Mr.5以上のエージェントである強敵、リトルガーデンで対峙したMr.5ペアとMr.3ペア以外の全員が、アラバスタに集結するはずだ。


(そしておそらく、あの男も)


 クオンの脳裏に浮かぶのは、ミス・オールサンデーを護るように現れたあの男。濃灰色の短い髪、褐色の肌、顔の上半分を覆い隠す濃い色のレンズをはめたゴーグル、そして柄が赤い大きな槍。
 一見して只者ではない。クオンの動きを察知し、おそらくあのままミス・オールサンデーに飛びかかっていてもあの男に弾かれただろう。もしかしたら叩き落とされるくらいはしたかもしれない。それほどまでに隙はなく、無造作に放たれる圧は強かった。
 クロコダイルの部下ではなく、お前達には何の興味もないと言い切ったその言葉をすべてまるっと信じるわけではないが、何となく嘘はないように思える。

 しかし、気になるのはやはりメリー号からカメへと乗り移るまでの僅かな時間、彼と見合ったことだ。本当に何もなければあの男はさっさと船を降りただろうに、ミス・オールサンデーに呼ばれるまでお互いに視線は外さなかった。
 あのとき、敵意はなかった。害意も。だが敵対しないとは限らない。クロコダイルと手を組んでいる以上ぶつかるときは必ず来るだろう。


(彼の名前は確か……ユダ


 きっとあの男と相対するのは自分だと、クオンは根拠のない確信を抱いた。





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