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『私は療養中にもかかわらず無断でお酒を飲みました』

『←こいつにおれが酒を飲ませました』


 そう、それぞれ書かれた木の板を首からさげて正座するクオンとゾロの2人を、般若を背負いながら仁王立ちするナミは腰に手を当てて目を三角に吊り上げ「あんた達今日一日そうしてなさい!」と怒鳴りつけた。





† 執事の療養 11 †





 本日は7日目、チョッパーがとりあえず定めた療養期間最終日。
 ルフィにお前らバカだなーと散々に笑われ、ウソップに呆れつつも憐れまれ、チョッパーは医者として怒り、ハリーにはどうして起こしてくれなかったのかと拗ねられてひたすらに撫でまわしご機嫌を取り、ビビには2人きりの時間を過ごしたことにひたすら文句を言われてずるいずるいと泣きつかれて今度ちゃんと2人きりでゆっくりと酒を飲み交わすと約束して何とか宥め、サンジには大変健康的な苦い青汁を渡され目の前で一気に飲み切るよう凄まれ、最後にぷんすこと肩を怒らせて去っていったナミを見送ったクオンはゾロと目を合わせると同時に深いため息を吐き出した。

 胸元にさがる板が邪魔だが、これを外せば今度こそナミの鉄拳が飛びそうだ。それはさすがに勘弁願いたい。既にナミの拳によってゾロの頭にこさえられたたんこぶを見れば尚のこと。
 共犯と言えば共犯、巻き添えと言えば巻き添えを食らったゾロが鬱陶しそうにしながらも板を外すことはなく、サンジが置いていった朝食のおにぎりに手を伸ばした。クオンも口の中で後を引く青汁の苦さに眉をひそめて口直しに傍らに置かれた水を口に含む。少しだけぬるくなった水が口の中を洗い流してほっと息をつく。


「過保護か、あいつらは」


 酒くらい別にいいだろとぼやきながら2個目を手に取るゾロに内心同意しつつもクオンは苦く笑うに留める。怒られるだろうなぁと分かっていて酒を飲み交わしたのだから言い訳のしようがない。特にビビは、酒に弱いクオンを人前に出したくないと人一倍強く思っているのだ。その可愛らしい独占欲を袖にしたのだから、たとえ暇でしょうがないとしても罰に甘んじよう。明日からは自由に動き回れるのだし。

 ナミ達が起き出してすぐに見つかってとっ捕まり説教を受ける羽目になったため、せめてこれだけでもと説教中にビビによって着せられた白のファー付ロングコートは全身をすっぽりと覆うほどで、今の温暖な気候では少し暑い。島に降りた際に被っていたキャスケットと合わせて「冒険の傍ら行く先々の人々を治療し深い感謝と称賛を浴びて報酬をしっかりもらいながらも果てのないひとり旅を続ける、微笑みにどこか影を落としたアウトローな若き天才医師」がコンセプトらしい。大変に長い。しかも言われないと分からない。言われてもよく分からないので半分は聞き流したが、ビビがうっとりと見惚れて楽しそうだったからよしとしよう。
 でもクオン、そんな医者がいたら近づいたらダメよ、危ないわ、あなた医者と聞けばイコール良い人認定するでしょうと続けられてハハハまさか世の中善い医者だけではないと分かっていますしそもそも私がそんなちょろいわけが、と一笑に付したが、どこかでフラグが立った音にクオンは気づかなかった。気づかないまま、クオン用に用意された小さな可愛らしいおにぎりをひとつ手に取って半分ほど口に入れる。サンジお手製のおかかが入っていておいしい。
 もう半分を口の中に放り込み行儀悪く咀嚼しながら、いつナミの説教が終わるか分からないからと置かれていった、クオンの腕より太い保温水筒のフタに中身を注ぐ。食欲をくすぐる味噌汁の良い香りがふんわりと鼻孔をくすぐった。熱いそれを息をかけて冷まし、ゆっくりと嚥下していく。

 再び水筒を傾けて中身を注ぎ、視線を向けずに横に差し出す。大きな手が受け取って冷まさず口をつけるのを気配で感じながらもうひとつおにぎりに手を伸ばした。あち、と小さく聞こえた声に吐息のような笑みがこぼれる。
 おにぎりと味噌汁は朝食としては問題ない。だが酒を飲んだあとの2人にとっては、サンジがわざわざ他のクルーとは別に用意してくれたこれは、まるで飲み会後のシメのようだった。


「コック殿は本当に気が利きますねぇ」

「……こいつはてめぇに用意されたもんだろ。あいつはお前に甘いからな。おれはついでだ」


 しみじみと呟くクオンにゾロが苦い顔をする。成程確かにそうかもしれないが、それでもきちんとゾロの分まで用意してくれたのだからサンジは気が利くし優しいひとだという評価は変わらない。

 おにぎりと味噌汁を完食し、両手を合わせてご馳走様とゾロと声を揃えたクオンは皿と水筒をラウンジに持っていくべきか少し考え、不寝番を終えて睡眠を欲しているゾロが構わずごろりとその場に横になるのを見て最終日だから怠惰なのもいいかと同じようにその場に横たわった。甲板の板は固い。だが眠るのに支障はない。
 おやすみ3秒で眠りに落ち寝息を立てるゾロを見やり、手を伸ばしてゾロの胸元でひっくり返った木の板を戻してやり、自分の板も整えたクオンは頭にのったキャスケットを取ると顔に被せた。

 腹はくち、心地好い陽光は絶え間なく降り注ぎ、隣には慣れた気配と体温。鬼徹の“声”を聞かせるためにゾロの手に触れた自分の手にはいまだあのときのぬくもりが残っている気がする。
 キャスケットに覆われ薄暗い視界の中、ゆっくりと目を閉じればいつの間にか意識がまどろみ、やがてクオンはゆるやかに眠りに落ちていった。






「……腹いっぱいの獣が2匹」


 皿と水筒を回収しにきたサンジは晴天のもと並んで眠る白と緑の生き物を見下ろして、随分と仲良くなったことで、と喉を鳴らして笑った。





†   †   †






 アラバスタ王国レインベース、通称夢の町。巨大なワニの屋根が特徴的なカジノ“レインディナーズ”にて、従業員の黒服に悲鳴混じりの懇願を受けたミス・オールサンデーは賑やかに沸くカジノ内を歩いていた。
 ポーカーやブラックジャックなどのトランプカードを用いたテーブルゲーム、ルーレット、ビンゴやキノなどのランダムナンバーゲームにスロットマシンなど、あちらこちらで勝者の歓声と敗者の嘆きが入り交じり、勝負の行方を見守り時に囃し立てる観戦者の声が響く。

 彼女の前を歩いていた黒服の男が、あちらです、とスロットマシンが立ち並ぶ一角を指差す。ほとんどの者が座る4面のスロットマシンではなく、1ゲームが高ベットの富裕層向けのマシンだ。その中のひとつと向き合い、皮張りのスツールに片胡坐をかくようにして座り、頬杖をついてマシンのボタンを押す男がいた。
 男が3つボタンを押せばコインが雨のようにじゃらじゃらとあふれる。それを雑な仕草でドル箱へと入れ、傍らに山と積まれた同じ箱の上に積んだ。


「そんなに稼いで何に使うつもりなのかしら、ユダ


 微笑みを口元に刷きながら言えば、淡々とボタンを押していた男の褐色の指がぴたりと止まる。顔の上半分を覆う大きなゴーグルには濃いレンズがはめられ瞳の色も動きも見えないが、意識はこちらに向いたようだ。
 だが彼は何も言わずに止めていた指を動かし、ボタンを押して、絵柄はバラバラで止まる。ハズレだ。それに落胆のため息もなく、男にしてはなめらかな指がレバーを引いてリールが回る。ボタンを押す。ハズレ。レバーを引く。ボタンを押す。アタリ。コインがいくらか出て、それをすべてマシンのコイン投入口へ突っ込んだ。

 こちらを無視してスロットマシンに興じる─── と言うにはあまりにつまらなさそうに、作業じみた手つきでスロットマシンを操る男の背中に、ミス・オールサンデーは浅くため息をついた。
 このカジノの支配人として、ジャックポットを当てたわけでもないのに店を潰しかねない量のコインを淡々と吐き出させる客がいるからどうにかしてくれと懇願されてやってきたのだが、外見の特徴を聞いてまさかと思いきや本当にこの男がここにいるとは思っていなかった。同時に、この男に穏便にあるいは強硬に退店を促したであろう黒服達が瞬く間に床に転がされた様子まで想像できてしまう。

 これだけ稼いでいるのに周囲に誰も人がいないのは、ひとえに彼が放つ空気のせいだ。痛みを覚えるほど威圧するような空気が辺りを満たし、徒人ただびとならば本能で近づくことを拒否する。
 そんな男の体格は細身ではないが大柄というわけでもなく、七分丈のシャツから覗く腕は褐色であり、見る者が見れば質のいい筋肉で覆われているのが判る。ゴーグルをつけていても端整な顔立ちは隠しきれず、しかし引き結ばれた唇は固く閉ざされて行儀の悪い姿勢が見る者に男の不機嫌さを植えつけるようだ。スロットマシンの傍らに無造作に立てかけられた身の丈ほどもある大きな槍は穂─── 刀身部分が長く、店の照明に照らされて鋭利に煌めいて、男の雰囲気もあり、どう見ても堅気ではない人間に好き好んで近づくような者は少ないだろう。ドル箱を積み上げる男を怯えつつも興味津々に何者だ、と遠巻きに見る者はちらほらいるが、思い切って声をかける者はいない。おそらく黒服を追い返したところを見られたのも要因だ。


「それにしても、あなたの目的があの執事さんだとは思わなかったわ」


 突然話を変えても無視されたが気にせず、腕を組んだミス・オールサンデーは薄く笑う。
 半年ほど前、突然バロックワークスの社長ボス、王下七武海のひとりでもあるクロコダイルの前に現れた男は、人を捜している、と言って手を組まないかと持ち掛けた。当然クロコダイルは訝り、捜し人の特徴を問うたがユダはそれに答えなかった。曰く、先回りして秘密裏に殺されては働き損だ、とのこと。
 バロックワークスの社長ボスを知っているという時点で抹殺対象ではあるが、隙ひとつない男の始末は簡単にはいかない。迂闊な真似をすれば命を獲られるのはこちらだと思うほどの鋭い気配をまとう男に、クロコダイルは暫しの沈黙ののち頷いた。男を拒否してアラバスタ国王にバロックワークスのことを密告されてはたまらないという打算もあったのだろう。だがその懸念を読んだように、ユダはそのとき低い声で吐き捨てた。


「ここまで腐らせた無能な王の国など、滅びるのが妥当だ」


 喜べよ、その手伝いをしてやろうと言っている。そう、傲慢に口の端を吊り上げた男の凄絶な笑みに嘘はなかった。
 男と初めて顔を合わせたときのことを思い出し、ミス・オールサンデーはちらりとユダの後頭部を見やる。あの妙な被り物を被った執事の特徴を聞き、アラバスタへ戻ると真っ先にクロコダイルのもとへと足を運んで「見つけた、あの執事だ。アラバスタ王女の傍に侍っているあれがおれの獲物だ。お前は絶対に手を出すな」と念を押したのだ。しかし、だからといってすぐに捜し人をどうこうするつもりはないようで、男は戻ってきて以来この町から出たことはない。


「麦わらの一味、全滅したそうよ」


 リトルガーデンで麦わらの一味の抹殺を命じられたMr.3からの報告を受けたクロコダイルが嗤いながら教えてくれたことを口にするが、目の前の濃灰色の短い髪は揺れひとつなく、スロットマシンに伸びる指に微かな動揺も見られなかった。


「あの執事さんも死んじゃったんじゃない?なのに、あなたがまだこの町にいるのはどうして?」


 あの威勢のいい麦わら帽子の少年が死んだと聞いて、あまりの呆気なさに落胆がなかったと言えば嘘になる。モンキー・D・ルフィ。“D”の名を持つ彼はMr.3にすら勝てずに死んだのか、と。だからあのとき渡した“記録指針ログポース”を受け取っていたらよかったのだ、とも。


「麦わらが死んだとして」


 ふと、抑揚の少ない低い声が淡々と言葉を紡ぐ。


「あの執事が死ぬ道理はない」

「……?」


 言っている意味がよく分からずに眉をひそめれば、濃灰色の短い髪が揺れ、微かにゴーグルがこちらを向く。濃いレンズ越しに視線を感じた。


「あの執事はMr.3ごとき簡単にねじ伏せられる。たとえ王女足手纏いがいたとしてもだ。執事は死んではいない。それと…おそらく麦わらも生きているだろう。あれもまた、あそこで死ぬ道理がない男だ」


 後半の言葉はコインが吐き出される音に紛れたが、ミス・オールサンデーの耳には確かに届いた。


「……驚いた。あなたがそこまで他人を評価するだなんて」

「知っているだけだ」


 評価とは違うと男はミス・オールサンデーの言葉を否定する。だがどこまでも他人に無関心な、クロコダイルでさえ歯牙にもかけない態度を崩さない男の言葉だ、執事と麦わらの男の生存を疑わない事実は彼女を心から驚愕させるには十分すぎた。
 しかし、ユダの言葉を信じるのであれば、Mr.3からの報告は何だったのか。報告のあとに返り討ちにあった?あるいは、Mr.3ではない別人がクロコダイルに報告を?それくらいしか考えられないが、後者の可能性は薄いと思う。だって、まさかクロコダイルがMr.3の声を知らないはずが───


「あ」


 思わず間の抜けた声を上げたミス・オールサンデーは、バロックワークスの社長ボスが誰なのかは上位のエージェントにすら絶対の秘密であり、彼らと連絡を取り合っていたのは主に自分で、ゆえにクロコダイルの顔も声もミス・オールサンデー以外の誰も分からず、逆を言えばクロコダイルも部下の顔は写真や似顔絵で知っていても声は知っているはずがないことに気づいてしまった。
 思いがけず真実に辿り着いたミス・オールサンデーは、次の瞬間にはよし忘れましょうときれいさっぱり自分の推理を押し流すことにした。そもそも麦わらの一味の生存は未確認であり、ユダの買い被りなのかもしれないし。
 けれど、とミス・オールサンデーは思う。あの執事が、もし自分が・・・知る・・人間で・・・あった・・・なら・・─── 成程確かに、それはMr.3に負ける道理などひとつも存在しない。

 先程まで饒舌に話していた男は既にスロットマシンに向き直り、またつまらなさそうにボタンを叩いている。その背にミス・オールサンデーは再び声をかけた。
 ユダの捜し人。雪色の髪、美しい顔、しかしその瞳は灰色だという執事は、まさか。


「ねぇ、もしかしてあなたが捜していたあの執事さんは───」

「詮索をするな、ニコ・ロビン。オハラと同じ轍を踏みたいか」


 ぴしゃりと、まるで冷水を頭からかけられたような冷たい声に名を呼ばれて忠告され息を呑んだ。貼りつけていた笑みが凍りつき、見開かれた目が大きく揺れる。
 動揺する彼女に目もくれずユダの指がボタンを叩く。外れて、レバーを引いて、リールが回って、ボタンを押して。絵柄が揃う。7の数字が3つ揃い、けたたましい音を奏でて吐き出し口からコインが滝のようにあふれ出た。


「知り過ぎれば消されるのがこの世界の常だ。目を閉じて耳をふさぎ、口を噤めばまだ苦しまずに生きていけるだろうよ」


 何の感慨もなくユダは淡々と言い、出てきたコインを適当にドル箱へ突っ込み傍らの山に重ねて再びレバーに手を伸ばす。
 ユダの言葉に、そうでしょうねと女は内心で同意する。そうだろうとも、この世界は知識を深めれば深めるほど、歴史を知ろうとすればするほどに生きにくくなる。ただ知りたいだけなのに、それは政府が、世界が許さない。なぜ。どうして。それは故郷を滅ぼされ汚名を被せられるほどの罪なのか。


「お前が口にしようとしたものも同じだ。時代の勝者によって歴史が編纂されていくように、それもまた消えるべきもの」


 ユダの淀みない声と共に長い指がボタンを押し、ハズレ、レバーを引いて、ボタンを押して、ハズレ。


「賢いお前なら分かるだろう。世界が『ない』と言っているものを追うような真似はやめておけ」


 それは、紛うことなき忠告だった。確かに女の身を案じたがゆえにこぼれた言葉で、しかしユダの横顔に表情はなく、上半分は濃いレンズのゴーグルに覆われてどんな目をしているのかも分からない。だが低い声が紡いだ音には、真摯な響きがあったことを聞き逃すほど女は愚鈍ではなく。
 付き合いの短い、大して言葉を交わしたこともない女にどうしてそんな忠告をするのか、彼女には分からない。
 聞き流すことはできた。男も女の反応を窺う様子はなく、その指は淀みなくスロットマシンに触れている。
 ボタンを押し、絵柄が揃ってアタリとなりコインが出て、高く響く硬質な音を聞いて女は口を開いた。


「それでも。……それでも私は、知りたいのよ」
 

 考古学者としての探求心。故郷オハラの誇り。今は亡き彼らの意思を継いで、長い間孤独を抱えて生きて、裏切りながら生きて、ひとつの国を滅ぼすことも厭わないほどに心をすり減らしながらここまできた。後戻りはできない、するつもりもない。ここだけが最後の望みなのだから。


「……そうか」


 少しの沈黙のあと、ユダは抑揚なくそれだけを言い、忠告を無視する言葉を吐いた女を否定せず、嘲笑いもしなかった。
 おもむろに立ち上がったユダはレバーではなく己の得物に手を伸ばす。相当な重量だろうそれを軽々と持ち上げて振り返る。


「好きにしろ、お前の人生だ。だが…望む通りにならないのもまた、人生というものだ」


 ままならないな、とほんの微かに口の端を皮肉げに吊り上げ、ゴーグルの向こうから静かな視線を受けた女は呆然とユダを見上げた。
 言いたいことをひとり吐き出したユダは積み重なったドル箱には目もくれずそのまま彼女の横をすり抜けていく。慌てて振り返るが、静かに歩き去る男を呼び止める言葉を、女は何一つ持ち得なかった。何か言おうと開いた唇ははくりと空気を噛んで閉ざされ、彼女は暫く、その場に立ち尽くしていた。
 傍らのドル箱から覗くコインの金色の輝きが、彼と彼女の、最初で最後の密談に終わりを告げた。



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