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 近くにある人の気配と、寝息にいびきと、たまに寝言が飛び交う男部屋のソファで薄い毛布にくるまり被り物をせずに横になっていたクオンはゆっくりと目を開けた。とっくに夜も更け、朝食の仕込みを終えたコックも規則正しい寝息を立てて久しい。

 澄んだ朝の気配はまだ少しばかり遠い。東の空はまだ白んですらいないだろう。
 音を立てずに上体を起こす。クオンの枕元で寝ていたハリーが眠りながらぷぅと鳴いたが男部屋に響くいびきの音に掻き消され、指でつついて起こそうとすれば嫌がるように指を甘噛みされて諦める。あとで何で起こさなかったのかと不満げに鳴くのが簡単に想像できて、音もなく笑みをこぼすとソファから足を下ろした。





† 執事の療養 10 †





 夜のしじまに溶ける小さな扉の開閉音を聞きとめて、本日の不寝番であるゾロは見張り台に座り込み水平線を見つめながら僅かに眉を動かした。まだ明け方も遠いこの時刻に起きてくる者を考えて、微かな物音を立てながらマストを登ってくる人物にひとりだけあたりをつける。
 果たして、ひょっこりと顔を出したのは想像通りの人間だった。


「おはようございます」


 浮かぶ月の光に照らされて煌めく白い髪を揺らし、誰もが見惚れる秀麗な顔に穏やかな微笑みを浮かべたクオンのはっきりとした声音は、どう見ても寝ぼけていないし寝起き直後というわけでもない。いつから起きていたのかと眇めた目で見やれば、音もなく見張り台のふちに腰かけたクオンは内心を読んだように「お昼寝をしすぎまして、早くに目が覚めてしまったのですよ」と嘯いて肩をすくめた。不寝番を免除され健康的な毎日を強制的に送らされているクオンはサンジの夕飯の号令がかかるまでゾロの背中で惰眠を貪っていたから、眠れなくなったのも道理ではあるが。
 これが夜に眠れないからとやってきたのであれば容赦なく追い返したが、明け方が近くなってから現れたためにゾロの口は閉ざされたまま開かない。しかし深いため息をつくことは隠さなかった。クオンはそれに、声もなく笑みを落とす。


「そうそう、ここ数日色々とあなたのお世話になっていますから、これはほんの気持ちです」


 片手に持っていた瓶を差し出され、反射的に受け取り月明かりでラベルを見てみれば酒の名前が書かれていた。米の酒だ、しかもゾロがあまりお目にかかれないほど上等な。軽く目を瞠ってクオンを見上げ、穏やかに笑うクオンに返すようにゾロも口角を吊り上げて笑った。これには以前「いい酒よこせ」とクオンに言って頷かれたことも含まれているのだろう。
 瓶の蓋を開けて直接ひと口含む。喉を通り過ぎる酒は少し甘いがキレがよく、鼻から抜ける米の風味は後を引かない。常温でも十分に旨い、いい酒だ。上機嫌に酒に濡れた口元をほころばせれば、お気に召したようで何より、とクオンのやわらかな声が降ってきた。


「どうした、これ。あの島で買ったのか?」

「いえ。ウイスキーピークにいた頃に行商から買ったものです。姫様の誕生日にでも飲もうかと思っていたのですが……姫様は特別お酒が好きというわけではなく、またアラバスタへ戻れば他にいくらでも選択肢がありますし、何よりおいしそうに飲んでくれる人がいるのなら譲るのもやぶさかではありません」


 それでも、最愛の主人のためにと買っておいた酒を気兼ねした様子もなく渡される意味をゾロは軽く考えない。随分と懐かれたもんだな、と思いながらまたひと口含んだ。旨い。
 ふいにふつりと会話が途切れた。ゾロが瓶を傾けるたびに中で酒が揺れる音と波が船を優しく叩く音だけが響く中、クオンは見張り台のふちに腰かけ東の空を眺め、ゾロはその美しい横顔を肴に酒を飲む。旨い酒と上等の肴の組み合わせは悪くなかった。


「夜明けまで暇だろ、付き合え」


 クオンの目的は朝焼けだ。船に乗ってからいつしか交わした雑談で、朝焼けが好きでよくひとり起き出しては眺めていると言っていた。まさか誰もが寝静まった時分に酒を渡しにきただけのはずがあるまい。ゾロなら黙っていてくれるだろうという目論見もあってのこの酒だ。
 蓋が開いたままの酒瓶を差し出せばクオンはきょとりと目を瞬かせ、しかし何も言わずに笑みを浮かべて瓶を受け取った。まだ中身が半分以上残っている酒瓶を揺らし、瓶の口に唇を寄せると酒瓶を傾けて中身を喉に流す。こくり、と白い喉が僅かに動いた。


「おいしいですね。ですが姫様には少々辛いか……やはりあなたに渡して正解だった」


 返された酒瓶を受け取りゾロが中身を喉に通す。クオンはジョッキ1杯で酔うほど酒に弱いが、さすがにひと口だけでは酔いの欠片も見られない。再び渡せば先程より少し雑な動作で瓶を傾けた。
 細い脚がするりと組まれ、頬杖を立てて見下ろされる。今のクオンはビビの執事としてのクオンではなく、かつて傭兵団のもとで暮らしていた頃のクオンが色濃く出ているのだろう。お上品でお綺麗な執事はその実、舌打ちはするし雑な仕草で酒瓶を傾ける。そして敬語で飾られた言葉を穏やかに吐くこいつはたぶん素の口も悪い、と察しつつあるゾロは酒に濡れた唇を舐め、懐から出した被り物を膝の上で抱えるようにして持つクオンを見上げた。

 ぽつぽつと他愛なく静かに言葉を交わし合いながら回し飲みをしているとはいえ、クオンは受け取っても舐めるような小さなひと口だけを繰り返し、ほとんどを己の胃におさめたゾロは残り少なくなってきた酒瓶をクオンに差し出した。受け取ったクオンがまたひと口小さく喉に通し、月光の下、酒精にほんのりと目尻を赤く染める。ゾロは返ってきた酒瓶には口をつけず膝の上の被り物を撫でるクオンを見上げた。

 夜明けはまだほんの少しばかり遠い。会話が途切れ、耳を澄ませるように長い睫毛を伏せるクオンの名をおもむろに呼べば、ぱっと鈍色の瞳をあらわにしたクオンの顔がこちらを向いた。


「貸しを返せ」

「……妖刀をお借りしたときのですか」


 突然の要求に宙を見て記憶を手繰り、すぐに心当たりを見つけたクオンが目を細める。穏やかな空気が霧散したが、張り詰めているわけではない。何を要求されるのかと身構えてはいるが、それが決して自分の不利益にはならないと疑っていないようだった。まったくもって、厚く信用されたものである。
 酒瓶を見張り台の床に置き、ゾロは真っ直ぐにクオンを見つめた。


「お前、鉄を斬れるだろ」

「……何を仰るのやら。私が剣を扱ったことがないのは承知でしょう」


 ノコギリ代わりに鬼徹を振るったクオンをゾロは見ている。素人丸出しの、筋は悪くないがただ振り回しているだけにすぎない動作は確かに剣士とは呼べない。しかし。


「あの3の野郎の蝋に針を刺せた」

「……」


 ゾロが斬れなかった蝋でできたかぼちゃ頭を貫いた針は、クオンが持つ火針ひばりではない、ただの針だった。いくらクオンが能力を使って投げたとはいえ針自体は何の細工もないものだ。それを刺せたという事実がクオンとゾロとの実力を明らかにしている。おそらくクオンが慣れない刀を振るっても蝋を斬れたのではないかと思わすほどに。


「どうやったら鉄を斬れる。お前が何かの“声”を聞いてるのと関係があるのか?」


 リトルガーデンでクオンは、斬りたくないものを斬らせるような真似はやめろとゾロに言った。クオン自身の言葉ではなく、明らかにゾロの刀達の目線での物言いだった。
 ゾロには刀達の“声”は聞こえない。妖刀は何となく気配で判るがそれだけで、細かい機微が判るはずもない。だがクオンには判る。クオンとの差異はそこだとゾロは思った。
 真剣な眼差しで射抜くようにクオンを見つめれば、同じく真っ向から見つめ返すクオンは鈍色の瞳を揺らすことなく微かに細める。


「私は他人ひとよりも“耳”がいいだけです。加えて、妖刀とは声が大きくお喋りなもの。だから“声”が聞こえるだけで、それが鉄を斬る力に直結するとは」

「だが、関係なくはねぇんだろ」


 即座に言い返せば、クオンは形の良い唇を閉ざした。剣のことは分からない、だから明確に否定もできず困ったように髪と同じ色の柳眉が寄る。


「何を焦っているのです。あなたはいまだ発展途上、鉄を斬る力もいずれは身につきます。剣士殿は決死の戦闘でこそ加速度的に伸びるタイプでしょう、このまま鍛錬を怠らずにいれば……」

「『いずれ』じゃ遅ぇ」


 分かるだろ、とゆるやかな拒否の言葉を紡ぐクオンの声をゾロは遮った。
 バロックワークスのボスことクロコダイルは王下七武海のひとりだ。その部下はMr.3のような実力者揃いであることは間違いなく、Mr.3すら倒すどころかまともに相対することもできなかった事実があるというのに、アラバスタも近くに迫っている今、クオンのように「いずれ」と悠長にはしていられない。鍛錬は続けているが、鉄を斬れるという確信はいまだなかった。
 力任せに剣を振るって鉄を斬れるほど簡単なことではないことくらいは分かっている。だが刀の“声”を聞ければ、何かしらの糸口が掴めるかもしれない。試せることは試しておきたかった。


クオン


 催促するように名を呼べば、苦虫を噛み潰したように唇を歪めたクオンはため息をついて前髪を掻き上げる。周囲に視線を走らせ、気配を探るように集中したかと思えば、船の周りに何の気配もないことを確かめひとつ頷いて再び視線を合わせた。酒精のにじむ目許はほのかに赤く、けれど煌めく鈍色の瞳は確固とした意志に満ちている。ふ、と赤い唇が笑みにゆるみ、仕方のないひとだ、と囁くような優しい声音が落ちた。


「刀を」


 一転してクオンの鋭く短い声に我に返ったゾロは居住まいを正して背筋を伸ばし、傍に立てかけてあった刀のうち、妖刀三代鬼徹を鞘から抜いて刀身をあらわにした。月明かりに照らされて鋭く光を返す乱刃の表裏に、ゾロとクオンの顔がそれぞれ映り込む。
 クオンが滑り落ちるように見張り台のふちから中へと腰を落として膝をつけば視線の位置が揃う。鬼徹の切っ先を真っ直ぐ天に向けるゾロを見つめたクオンが人差し指をちょいと曲げ、ゾロの意志に反して引き寄せられるように体が傾いだ。
 こつりと互いの額が触れ合って、何度も触れ合ったためにすっかり覚えた低い体温と鼻を掠める微かに甘い風の匂いに目を細めた。至近距離にある秀麗な顔は酒によって薄っすらと赤みを差し、長い睫毛が音もなく伏せられ鈍色の瞳を隠してつられるようにゾロもまた目を閉じる。視界が真っ暗に閉ざされた代わりに聴覚と触覚が鋭敏になりクオンの存在をより強く意識した。


「刀をしっかりと握ってください。ああ、ですが必要以上に強く握る必要はありません」


 男にしては高めの声で、女にしては少し低い声でクオンが言い、鬼徹を持つゾロの武骨な手に白い手が重なる。体温の違いから冷たく感じた手はすぐに自分のぬくもりを移して同じ温度となり、溶け合うような心地を覚えた。


「刀に意識を集中してください。今このときだけは、あなたの相棒のひとつだけを感じるように」


 落ち着いた声が合わさった額を通じて頭蓋に響く。導かれるまま鬼徹に意識を寄せ、感じ取れる気配の深くへと踏み込もうとする。


「呼吸を合わせて」


 クオンはカウントはしなかった。大きく息を吸い、吐いて、吸い、吐いて。繰り返される呼吸にゾロも合わせ、その呼吸音が小さくなっても2人の吐息が乱れることはなかった。
 耳を澄ませ、意識を研ぎ、閉じた瞼の裏で己の手の内にある妖刀を見据える。気配だけが今のゾロに感じられるすべてだ。けれど確かにこの刀は何かしらの“声”を発していて、クオンの耳に届かせている。

 夜明けを控えた空を駆ける風の音は遠く、船を撫でる波の音はもう聞こえない。互いの呼吸音も澄んだ空気に溶けていく。
 深い深い闇の底で、白い手が手招くのが見えた。まるで薄煙に包まれているような曖昧とした気配の向こうへといざなうように腕を引かれていく。


 ─── あなたは既に聞く耳を持っている。逸らさない目を持っている。語りかける口を持っている。あなたはもう、ちゃんと、その“声”をっている。


 穏やかな声が内側から響く。まるで感覚が共有されているようだが不愉快にはならず、促されるまま意識を傾ければ遠かった気配を近くに感じた。


 ────……


 何かの、音が。
 耳の奥、脳の芯に響かせる。

 ─── そこに在るものを、ゾロは知っている。
 ─── そこで鳴くものを、ゾロは知っている。
 ─── そこで笑うものを、ゾロは確かにっている。

 それは、玲瓏に哂う─── 鬼だ。


「────!」


 音を立てて目を見開いたゾロは呆然と目の前の秀麗な顔を見つめた。雪色の睫毛がゆるりと動き、静かな鈍色の瞳に見上げられる。
 貼りついたように額を合わせたまま目だけを動かして己が握り締めた刀を見て、先程より鋭敏に感じる妖刀の気配と、言語化が難しい、脳の内側をくすぐるような“声”に目を瞬かせる。霧が晴れたように明確に聞こえるそれに呆然とするゾロに目を細めたクオンの手がするりと離れていった。同時に額も離れ、身を引いたクオンが薄く微笑む。


「どうやら聞こえたようですね」


 しかしあの方法で本当に聞こえるとは、と感心したようにひとりごちるクオンに思わず半眼になったゾロは無言で刀を鞘に納めた。鬼徹がおかしそうに笑う“声”が耳朶を叩く気配がしたが、本当に音として頭に入っているわけではない。だが当の本人は聞こえたのだからいいじゃないですかと鬼徹を一瞥して肩をすくめ、今の段階でも自分よりもクオンの方が明確に“声”を捉えている事実を知る。

 鬼徹の“声”を聞く耳が鋭くなったからといって、鉄を斬れるかと問われれば首を傾げる。だがひとつの手掛かりを得たような気はした。
 妖刀とはお喋りなもの、とクオンは言う。ならば妖刀以外のものの“声”も、クオンの耳には届いているのだろう。それらの“声”を、あるいは“声”ではない“何か”を聞き、ることができたなら─── おれは、またひとつ強くなれる。そんな確信があった。

 気づけば東の空は白みはじめている。夜明けはすぐそこだ。
 当初の目的を思い出したクオンが狭い見張り台に立って朝焼けを望む。水平線の彼方が紅く燃え始めるさまを見つめて、音もなく昇る朝日に目を細めた。月よりも眩しい光に照らされたクオンの横顔を眺め、傍らに置いていた酒瓶に手を伸ばしたゾロは勢いよく呷った。最後の一滴まで飲み干し、口の中に広がる酒の味を噛み締める。

 短い雪色の髪が吹いた風に揺れた。一本一本が極上の銀糸のように煌めく。どの角度から見ても美しい顔にかかった髪を耳にかける指は爪の先まで手入れがされていて、ナミが自慢げにクオンの手入れをしていることをふと思い出した。
 その指が触れていた自分の手を見下ろす。何度もタコができては潰れて固くなった己の手を握り締め、クオンが見つめる先の朝焼けを眺めて。
 ああ、喉が渇いた、とゾロは内心呟いて奥歯を噛んだ。



 ─── そしてこのあと、起き出したビビやナミやサンジやチョッパーに飲酒をひどく咎められゾロも一蓮托生だとクオンに巻き込まれることになるのだが、昇る太陽はそんなこと想像させないほど穏やかに、世界へと朝を告げた。





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