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 お互いの手元には5枚のカード。部屋の隅にあるバーカウンターにて、ナミとビビは真剣な顔で向き合っていた。ナミは油断ならない光をその瞳に宿して薄く笑い、ビビは努めて無表情に己が持つカードを睨むように見る。

 ナミはカードを2枚抜き、伏せてカウンターに置くと2人の間に置かれた山札から同じ枚数を手に取った。ビビがちらりとそれを見て、己のカードを見て、細く長い息を吐くと覚悟を決めた瞳でナミを射抜いた。





† 執事の療養 9 †





 抜糸後の傷痕は微かな皮膚の凹凸と薄く赤い線が残ったが、軟膏を塗り数日もすればそれもきれいに消えるとチョッパーに言われ、包帯を解いた首の左側に長方形の絆創膏を貼ったクオンは上機嫌だった。何もするなと厳命されてからひたすら休息に時間を費やしていたため、疲労がのしかかり重かった体はすこぶる軽く調子が良い。今ならアラバスタまで海を駆けて行けそうだ。やらないが。

 本日のビビコーディネートは「迷い込んだ山奥で夜も更けた頃に出会ったお茶を振る舞い優しい物腰で警戒を解きほぐして麓の町まで送ってくれる一見するとただの優男なたまたまお忍びキャンプに来ていた百戦錬磨の警察上官」で、日に日に長く細かくなるコンセプトをつらつら並べ立てた彼女はオーバーサイズのマウンテンパーカーとゆったりとしたカーゴパンツに身を包むクオンに「厳しく優しく怒られたい……」と願望を呟いて心のカメラのシャッターをひたすら切っていた。いつものことである。

 午前は早くから唐突に見舞われた嵐の対処に一味は追われ、クオンは当然のようにラウンジにて待機を命じられた。嵐が去ったあとは雲ひとつない晴天が広がり、しかし気温は僅かに低い。相変わらず“偉大なる航路グランドライン”の天候は気まぐれだ。

 穏やかな甲板に現れたクオンに、嵐のさなか襲いかかってきた海王類がすごかったのだと身振り手振りで楽しそうに話すルフィ、ウソップ、チョッパーの話を昼寝するゾロも含めてその場で輪になって聞いていたクオンは、


「そういやよ、クオンは音痴だって聞いたんだけど本当か?」


 唐突に、何の脈絡もなくウソップにそう訊かれて浮かべていた微笑みを凍らせた。のんびりとした空気を一変させたクオンにウソップが今更口を手で押さえるも飛び出た言葉はなかったことにはできない。クオンは凍りついた笑顔のままウソップに顔を近づけて小さく首を傾けた。


「誰に、それを、聞きました?」


 クオンは麦わらの一味の前で歌ったことなど一度としてない。鼻歌ですらしたことがない。だからその秘密は、誰も知らないはずだというのに。
 言い逃れを許さない低い声がゆっくりと詰問し、ウソップは顔を青褪めさせるとさっとゾロの背中に隠れた。クオンの不穏な気配に目を覚ましたゾロがウソップを横目に見やり、無言でクオンに戻せば、クオンは美しい微笑みを浮かべたままウソップを見つめて早く吐けと無言で急かす。


「ナ、ナミだ!その海王類は良い歌聞かせれば大人しくなるってビビが言って、『じゃあクオンは音痴だから無理ね』ってナミが」


 瞬間、スンとクオンの顔から表情が消えた。鈍色の瞳が不穏に据わり、そして。


「─── 姫様ァアア!!!」

「ごめんなさいクオン!!!!」


 珍しく声を荒げるクオンの呼びかけに、ラウンジから飛び出てきたビビが顔の前で両手を合わせた。心当たりがしっかりあるようで何よりである。
 秘密を暴露されてぽこぽこと怒気をあらわにするクオンに慌ててビビが駆け寄る。隣に正座して再びごめんなさいと謝るビビにクオンはむすりと唇をとがらせた。

 ビビが即謝罪をした通り、クオンの秘密をナミに教えたのはビビである。前述の通りクオンは自分の歌声を麦わらの一味に聞かせたことも自分が音痴であることも教えたことはない。クオンの相棒を自負するハリーもいかなチョッパー相手でも口を噤むだろう。けれどビビは当然クオンの歌の腕前をよく知っていて、つまり情報の流出源は彼女しかいなかった。
 そしてクオンは、いくら彼らに気を許したからといってビビが無闇に執事の情報をバラすわけもないと知っている。


「で、何を対価にしたのです?」

クオンと一緒に寝る権利を賭けたポーカーで負けました」


 クオンは無言でビビの額を指弾した。白い指がビビの額を勢いよく弾き、痛みに悲鳴を上げる余裕もなく崩れ落ちたビビが赤くなった額を押さえて蹲る。
 ビビが飛び出してきて開け放たれたままのラウンジのドアから顔を出したナミがあらあらと言わんばかりに笑い、クオンのじとりと据わった目が笑うナミを向く。階段を下りてこちらに近づいてきたナミはそんなに怒らないでよと苦笑して宥めるようにクオンの頭を軽く叩く。


クオンの秘密はそれだけしか聞いてないわ。賭けるものは同価値でないと勝負にならないでしょう?」

「はぁ……航海士殿相手に姫様が勝てるわけもないでしょうに」


 額を押さえて呻くクオンに、だから5本勝負にしたのよとナミは笑う。一度でも勝てればビビの勝ちでいい、とも。


「まぁ全部私が勝ったけど」

「全敗したわ、流石ナミさん」


 胸を張るナミと負けたくせに清々しい顔をしたビビを前に、ひとり秘密をバラされただけのクオンが頭を抱える。ウソップが気遣うようにそっと肩を叩いてきたが、ウソップが口を滑らせなければその事実はクオンの耳には入らなかったはずである。時間の問題だとも思うが。

 ビビの情報通り、クオンは歌が苦手だ。ありていに言えば音痴である。こっそり早朝や誰もいないところで練習はするが上手くなった気がちっともしない。楽器はある程度扱えるが、己の喉で紡ぐ旋律はどうにも調子外れになる。
 ビビに子守唄のひとつも歌ってあげられないのは執事としてどうなのか、と思うが、10代半ばを過ぎた主人相手に子守唄はどうなのか、という世間一般の疑問は無視しておく。あとクオンの子守唄を決して聞き逃すまいとしたビビが逆に眠れなくなる可能性も考えない。
 音痴であることは自覚しているがコンプレックスというわけでもないので怒りはそこまで持続せず、深いため息ひとつでクオンは怒りの残滓すらも掻き消した。


「なぁクオン!おれクオンの歌聞いてみてぇ!」

「船長殿今の話聞いてました?」

「けど歌うの嫌いじゃねぇんだろ?聞かせてくれよ!」


 輝く笑顔のおねだりに、音痴ではあるが歌うことは嫌いじゃないしむしろ好きな方のクオンはそこまで言うのならと笑ってすっくと立ち上がる。ノリノリなクオンにわっとルフィ、ウソップ、チョッパーが沸き立ち、おいお前らうるせぇぞと眉をひそめたサンジがラウンジから顔を出して、輪の中心でひとり立つクオンに目を瞠った。ウソップがサンジも来いよ!と手招き、なんだなんだと訝しげにしながらも輪の中にサンジが入るのを待って、クオンは息を吸った。

 男にしては少し高めの声が紡ぐ旋律は、誰もが一度は聞いたことがあるメジャーな歌だった。明るい調子で進み、跳ね、伸びる。ウソップを中心に合いの手と手拍子が入り、それにつられて笑顔のまま歌いきったクオンへの評価は、


「あっはっは!下手だなークオン!」

「うーん、擁護できないくらい下手だ。クオン、高音が高すぎて裏声になってるしまず喉じゃなくて腹からだな……」

「まぁ寝れねぇことはねぇな」

「壊滅的音痴というわけじゃないレベルの下手さってのも微妙よね」

「お前、絶妙に下手だな真っ白執事」

「えっと、えっと、おれは、クオンの歌嫌いじゃねぇぞ!」

「ノリノリで歌ってるクオンがひたすらに可愛い」


 散々なものだった。笑うルフィ、改善できる点があると真面目にアドバイスをするウソップ、嵐の中でも構わず寝れるゾロのまったくフォローになっていないフォロー、歯に衣着せぬ評価を下すナミ、剣士でもないくせにすっぱり切り捨てるサンジ、頑張って何か言おうとして歌の巧拙に言及できないチョッパー、ビビに至っては歌に関してはドスルーである。
 クオンの歌はまぁ、サンジの評価が一番的を射ている。澄んだ歌声はしかしよく調子が転び、音程が外れ、妙なところでアクセントがついてはテンポが早くなったり遅くなったり。デスボイスというわけではないし不愉快になるほどでもないが、聞き惚れるという評価からは遠く離れている。宴席であるならば野次を入れられながらも酒が入った面々は楽しめるだろう、それでもフォローが難しいほどに絶妙な下手さだった。
 己の歌声の稚拙さを自覚しているクオンは、投げられる評価にでしょうねぇと開き直っておかしそうに笑う。歌は苦手で下手だが、歌うこと自体は好きなのだ。好きこそものの上手なれ、という諺は、どうやらクオンには適応されないらしいが。
 ビビに怒ったのはあくまで秘密を勝手にバラされたことであって、散々な評価をされたとしてもクオンの機嫌が損ねられることはない。彼らの表情にクオンの歌への嫌悪がまったくなかったということもある。クオンが再び歌を口ずさんでも、彼らはきっと黙って聞いてくれるだろう。


「そんじゃてめぇら、メシの時間だ」


 気を取り直したサンジのひと声で、クオンのオンステージは幕を閉じた。










 低い声が淡々と数を増やしていくのを聞きながら、上下に揺れる背中に乗ったクオンは欠伸をこぼした。
 昼食を終えて腹がくち、雲のない晴れた空から降り注ぐ陽光と規則正しい揺れ、下から伝わる体温に眠気がじわりとにじむ。それでも能力は維持したままクオンは眦に浮かんだ涙を拭った。

 昼食後、いつものようにゾロが鍛錬を始め、約束通り包帯が外れたクオンをバーベルの重しに加えて乗せて素振りをするゾロと平然とバーベルの先端に座るクオンを見てナミは物言いたげに口元を歪めたが、クオンがこっそり能力を使って負荷をかけていることには気づかれず、また、傍から見ればただ振られるバーベルに座っているだけのクオンに何も言えずにとにかく大人しくしておきなさいよと言い残して後部甲板から離れていった。

 素振りの方はとうに終わり今は腕立て伏せに移行したが、能力を使って僅かにでも体力を削ったせいもあってか、どうにも欠伸が止まらない。
 ふわあ、と今度は大きな欠伸をこぼすと、背にかけられる負荷をものともせず腕立て伏せを繰り返すゾロは切りのいい数字で動きを止め、「クオン」「ん」と短い、会話ですらないやり取りを交わし、負荷を強めてもらうとまた1から数字を数え始めた。

 ゾロの背中についた両手と尻から伝わる体温は高い。運動しているからというのもあるだろうが、元々の体温が高めなのだろう。代謝がよく健康的、素晴らしい。ぼんやりとした意識でそんなことを思い、うとうとと船をこぎそうになって重い瞼をこじ開ける。
 いけない、このままでは寝てしまう。いや、昼寝をするのは時間潰しにもなるから構わないのだが、鍛錬に付き合わせろと自分から願い出た手前、寝落ちしてしまうのは不義理な気がした。それでも欠伸はこぼれてしまうが、またひとつ出そうになったものを必死に噛み殺す。

 何かいい眠気覚ましはないかと鈍い思考をめぐらせ、どうせバレてしまったのだから別にいいかと、ほぼ無意識にクオンは小さく鼻歌を口ずさんでいた。
 調子外れの、初聴でも分かるほど音程があべこべの旋律が響く。軽やかで優しい音の連なりはひたすらに穏やかで、子守唄のようでもあり、ゆるやかなバラードのようでもあり、どこか童謡じみた懐かしさもあった。
 ゾロのカウントがぴたりとやむ。それでも腕立て伏せは続けられ、クオンはそれに気づきながらも音を紡ぐことはやめず、みんなの前で披露したものとはまったく違う曲をやわらかく口ずさんだ。
 時間にしてほんの数分、短い曲は唐突にふつりと終わり、小さく息を吐いたクオンに笑み混じりの声がかけられた。


「下手だな」

「……」

「うぉっ!てめ、いきなり強くすんな…!」


 抗議の声が上がるが、甲板についた腕は僅かに血管を浮かせただけで崩れず、大した揺れもなかった。
 クオンが医者の目を誤魔化せるギリギリの能力の使用はこれが限度。負荷を元に戻し、短い緑の髪に手を伸ばしてわしゃわしゃと掻き回せばおいやめろと低い声が上がって思わず喉を鳴らして笑う。初めて触れた髪は存外にやわらかく、手遊びに撫でるようにして梳けば今度は文句は言われなかった。


「なんて歌だ、それ」

「さぁ……曲名は聞きませんでした。傭兵団のみんながよく歌っていたのです。ただ、歌詞が人によってバラバラで」


 鈍色の瞳を水平線に向け、記憶を辿りながらクオンは呟く。この歌は基本のメロディこそ同じだが、歌う人間によって歌詞が変わっていたり、アップテンポにして陽気に歌ったりしていた。
 本当の歌詞は、と問うたクオンに、よく口ずさんでいた彼らは、その被り物をした顔の下で笑ったのだろう、低くくぐもった声を僅かに跳ねさせて「ない」と答えた。好きに歌え、伝えたい言葉を歌詞にすればいい、この旋律だけがおれ達に遺された価値のあるものだ、と。そういうものかとクオンは不思議に思いながらも納得し、その旋律を心に刻んだ。喉を通って紡ぐと記憶のものとてんで違うものになるが、歌ってくれた人々の歌はひとつとして忘れていない。


「その時々の想いを歌うのだと。伝えて遺るのであればそれでいいと、あの人達は」


 言って、口が滑りすぎたと気づいたクオンは唇を閉ざした。沈黙が落ちる。波の音が聞こえる。白いひとを背に乗せた剣士の呼吸が聞こえて、吐息に紛れるように、そうか、と静かな言葉が落ちてクオンは目を伏せた。
 再び低い声が淡々とカウントを始め、クオンはぼんやりと自分の手を見下ろした。白い手だ。あのとき“彼ら”の血で真っ赤に染まった手を思い出して瞳が揺れる。あの記憶を過去のものとするには過ごした時間が短すぎた。


(喜び、楽しく、元気に、幸せに、幸福を、笑って、泣いたっていい、憎むこともあるかもしれない、けれどどうか、どうか)


 生きて、と“彼ら”は歌っていたのだ。生きていますよ、とクオンは微笑む。
 赤く濡れる幻覚を振り払い、ゾロの髪から離した手と共に傷ひとつない背中に置く。あたたかい。伝わるぬくもりがじんわりと脳の奥を溶かすようで、くぁと小さく欠伸がもれた。眦に浮かんだ涙を拭う。


「ねむ」

「寝ろ」


 思わずこぼれたひとり言に短い言葉が返る。けれど、でも、と動かそうとした口は僅かに震えただけで、上下の揺れがまるでまだ眠たくないとぐずる子供をあやすようだった。
 眠い、寝ていいのでしょうか、でも剣士殿が寝ろって言ったからいいのか。ではお言葉に甘えて、とまたひとつ欠伸をこぼしたクオンはころんとゾロの背中に上体を倒してうつ伏せるように横になる。投げ出された足は甲板を撫で、上着越しに伝わるゾロの体温が全身に広がるようで意識がまどろんでいく。あたたかな背中に頬をつけ、すんと鼻で呼吸をすれば汗と鉄の匂いが鼻孔を掠めた。
 このにおい、きらいじゃないなと獣じみたことを思ったのを最後に、クオンの意識は深いところへ転がり落ちていった。



 おやすみ3秒で寝落ちしたクオンの規則正しい寝息に、寝ろとは言ったがまさかそのまま背中で寝るとは思っていなかったゾロは深いため息をついた。クオンが寝てしまったために能力は解除され、意識のない人間相応の重みと少し低い体温だけが背中に残されている。
 寝てしまったクオンを背中から落とすことも声をかけて起こすこともできたが、ゾロはその手段を選ばずクオンが横になってから止めてしまっていた動きを再開させた。
 微かな寝息を立てて眠るクオンがゆっくりと上下する。カウントする声はなく、クオンの安眠は第三者の声が轟かない限り保たれるだろう。
 クオンの低い体温が自分のものと混ざり合って同じぬくもりを宿していくのを背中越しに感じながら、ゾロはあの調子外れで音程もあべこべな旋律を紡ぐやわらかい声を頭の中で繰り返した。





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