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 ナミに盛大に叱られ本当にロープで縛りつけられたいかと脅されて全力で謝罪して拒否し「決してクルーを誘惑しません」と追加で誓わされてようやく解放されたクオンは、「あんたはここで大人しくしときなさい」と後部甲板で鍛錬に没頭していたゾロのもとへぽいと放り投げられた。ちゃんとクオン見ててよね、と子供の世話を押しつけるような物言いでゾロに念を押してナミがラウンジへと戻っていく。
 説教の声が聞こえていたのだろう、鍛錬を中断することなくアホかお前は、と言いたげなゾロの視線が向けられてクオンはむっと唇をとがらせる。


「だって暇なんですもん!」

「あと3日だろうが」

「暇で死にそう。今なら床に転がって駄々をこねられます」

「それをナミの前でやったらどうだ」

「効かないと分かっている相手にするわけがないじゃないですか」


 何言ってるんですか剣士殿、と真顔で言い放つクオンの髪を、ゾロは容赦なくぼさぼさになるまで掻き回した。





† 執事の療養 8 †





 そんなに暇なら坐禅でもしたらどうだ、とゾロに言われたのは黙々と繰り返すゾロの腹筋を500ほど数えたあとだった。シャツを脱ぎ胸を走る大傷を晒しながら流れる汗を適当に拭うゾロの顔を見上げてクオンが首を傾げる。


「ザゼン?」

「知らねぇのか」


 意外そうにクオンを見るゾロに知りませんねと返し、暇潰しになりそうな気配を察知して居住まいを正す。ゾロがすすめるものであれば決して無駄な遊びの類というわけではなく、そしてナミの逆鱗にも触れないものだろう。
 まず足をこう組むと実際にして見せるゾロの静かな声に従いながらクオンも足を組む。胡坐ならたまにかくがそれともまた少し違う慣れない組み方だが、特に問題なく組むことができた。一応「こうですか?」と訊いて頷きを得て次を促せば、ゾロは常にしゃんと伸びた背を意識して真っ直ぐにし、しかし肩に力が入りすぎないよう体勢を整えた。クオンもそれに倣って背を伸ばす。腹の辺りに置いた両手も同じように組んだ。


「細かい作法があるんだが、今は省略する。あとは目を……本当は薄く開けるんだが、閉じてもいい」


 本格的にやる必要はねぇだろと続けたゾロがゆっくりと瞼を伏せる。ちらと見れば確かに薄く開いていて、視線はどこか遠い。どこを見ているのだろう。それともどこも見ていないのか。内心首を傾げながら、目を閉じてもいいと言われたので素直に閉じた。途端、視界が真っ暗に染まり、太陽の光を透かして瞼の裏がちかりちかりと明滅する。穏やかな波の音、帆を煽る風の音、どこか遠くで、誰かのはしゃぐような明るい声が聞こえた。


「おれに合わせて呼吸しろ」


 1、2、3……とゆっくり続く声に合わせて呼吸を繰り返す。10に到達したら、また1から。これをひたすらに繰り返され、それに合わせて呼吸をする。ゾロの声に合わせるように内心で数を数えたクオンは、途中からゾロの声が聞こえなくなっても自分で繰り返し、徐々に無心になっていく自分に気づいた。
 成程、これはいわゆる精神修行というものか。強い肉体にはつよい精神を内包するものだ。身を調え、呼吸を調え、心を調える。─── そうか、と唐突に理解した。この男の中に息づく動と静は、こうしてつくられたのだ。

 ト、と左肩に軽い衝撃が走って思わず目を開ける。
 目の前に、口角を上げて笑うゾロの顔があった。


「集中してねぇな。体勢が崩れてるぜ」

「……」


 言われてみれば始めたときと比べて僅かに体が傾いでいる。無言で体勢を戻し整え、再びゆるりと目を閉じた。
 教わった通りに呼吸をしながら、心を無にしていく。そういえば、いつも頭の中では色々と考えることが多かったから、こうして本当に頭の中を空っぽにして、何の警戒心もなく座して自身にのみ集中するなど、初めてのことだ。

 風の音が聞こえる。波が船をやわらかく打ちつける音が聞こえる。掲げられた海賊旗がはためく音が聞こえる。みかん畑の葉が風に吹かれて音を奏で、誰かの声が、己の心臓の音が、傍らの男の呼吸が、クオンの耳を通ってとけていく。


 ────……


「……」


 ────……、……


「…………」


 ────……!


 じろ、と半眼に目を開けたクオンはゾロの傍に丁寧に並べて置かれた刀を見やった。正確にはその中の一本、朱塗り鞘の妖刀、名を鬼徹。無心になって集中しようとするクオンをいたずらに煽るその“声”は、今はクオンにしか聞こえないものだ。
 反応しなければいいと分かってはいるのだが、斬れ味鋭い妖刀はクオンの張り詰めた精神をすっぱりと斬って構えとばかりに鳴くのだからたまらない。それを無視して無心になろうにも、やはり妖刀はけたけたと笑ってクオンの心に切っ先を突きつけてくる。まったく、本当にお喋りな刀だ。しかしそれに応じてしまうのは悔しい。修行が足りない。……成程、鬼徹に振り回されないように修行すればいいのか。クオンの半眼が鋭く据わり、鬼徹がいいぞいいぞと言わんばかりに冷徹に笑う気配を飛ばしてくる。


「……?なんだ、なに騒いでやがる」


 さすがに気づいたゾロが訝しげに自分の刀を見やる。瞬間、まさしく鬼徹は“鳴り”を潜めた。
 主人に己を認知してもらえるのはいい。だが、大音声で騒いでいるところを見つけられるのは少々癪のようだった。認めているからこそ、密やかな己の“声”を聞いてほしいという。
 わがままな奴め。クオンは内心で悪態をつきながらも唇を微かにゆるめ、しかしすぐに引き締めて意識して呼吸を繰り返した。

 それから数十分程度で坐禅は終わり、数百キロの重りをつけたバーベルを振るゾロに「まだやりたきゃ続けろ、2,3回くらいやる奴もいた」と言われたクオンは時折邪魔をするように鳴く鬼徹に負けじと続けたが、暫くしたら集中も切れ、さすがに疲れてぺたりと甲板に寝転びながらゾロの鍛錬の様子を眺めていた。眼鏡をかけたまま寝転がるとちょっと邪魔ですねぇと僅かに顔の位置を調節する。ただのガラスレンズを通して視界に入るバーベルは規則正しく上下に揺れ芯がブレていない。綺麗な太刀筋だ。


「……剣士殿、私を乗せて振ってみる気はありませんか」


 小さくはない声に唐突な問いを投げられ、ゾロの目が床に転がるクオンに向く。クオンの肉体は痩躯だ。その重さも、クオンを背負ったことのあるゾロならどれほどのものか判る。クオン自体が然程重くない、どころか大した負荷にもならないものだということも。
 しかしクオンは過去に一度、今のようにバーベルを振るゾロを強制的に止め、容易く奪い取ったことがある。

 ウソップのようにナミを呼ぶか、もしくはあとで告げ口をしたら、クオンは間違いなくロープでベッドに縛りつけられることになるだろう。それはまあ仕方ないと分かっているが、たぶん何となく、ゾロなら言わないだろうなという確信があった。彼は聞こえないふりをするかノるかのどちらかだ。
 微笑むクオンから視線を外し、バーベルを握る手を止めないまま、ゾロが口を開く。


「その包帯が取れるまでは大人しくしとけ」


 クオンの目がきらりと輝く。にんまりと猫のような笑みが浮かんだ唇が、約束ですよ、と音もなく言葉を紡いで、ゾロは応と目だけで頷いた。それきりクオンから視線が外れる。
 明日には包帯を外してもいいとチョッパーが言っていた。そのときに抜糸もするとも。朝食の席での話だったから当然ゾロも聞いていて知らないはずがなく、つまりは、暇を持て余してしょうがないクオンはまたひとつ許されて、上機嫌に笑った。










 さて、朝から夕方までは基本的にクオンはひとりふらふらとしているが、それでクオンを愛してやまないガチ勢強火担(同担可)(ただし不埒者は全力で排除する)であるビビが大人しくしているかと訊かれれば、答えはNOである。

 クオンに世話を焼かれないよう自分の身は自分で整え、ちょっと手を加えたそうにしているクオンの視線を唇を噛んで後ろ髪引かれまくりながら何とか振り切るビビだったが、素顔を晒してころころと表情を変えるクオンを影からガン見して撮影機材が何もないことに歯を軋ませ、たまに視線に気づいたクオンのウインクをもらって胸を押さえて倒れ、慌てたチョッパーに診察室兼用のラウンジに運び込まれたくらいで、そうして何とか耐え忍んでいた。が、それも最初の3日間だけだった。


クオン……クオンが足りない……」


 手を震わせ、青褪めやつれた顔でふらふらと寄ってきたビビに苦笑したクオンは腕を広げて受け入れた。クオンの腕の中におさまり、すんすんと早速匂いを嗅ぐ王女の頭をぺちりと叩いてやめさせるが、癖になって人前でするのは王女としてどうなのかと思いはするものの本気で止める気もないクオンは挨拶のようにそれだけをして拒絶はしないしもう癖になっていることから目を逸らした。クオンって麻薬の一種なのか?とチョッパーが真面目に考えてしまうくらいそのときのビビの顔は色々とひどいものだったらしいと聞いたのは随分後のことだ。

 クオンとの時間が欲しい!!とついに我慢が限界を迎え駄々をこねてクオンの1日をもぎ取ったのは昨日、つまり4日目の話。クオンに負担をかけないよういつものように急に抱きつきにいったりはしなかったが、おはようからおやすみまで共にした。とはいっても、ただ本を読むクオンの傍でビビも本を読んだり、うっとりとクオンの顔に見惚れたり、膝枕でごろごろしていればルフィが飛んできて子供のケンカみたいなことを繰り広げたり、その間に近くに寄ってきたチョッパーをクオンが撫でてやれば「私も!!」「おれも!!」とビビとルフィが声を揃えてクオンの手をそれぞれ取ったり、クオンの顔をひたすらにガン見したり、発作を起こしたように抱きついたり微笑まれて奇妙な唸り声を上げたりと、まぁいつもの日常で特筆すべきことはあまりなかった。
 そうか?本当にそうか??お前マジで言ってんのか???とウソップが化け物を見るような目をしていたのでつい目潰してしてしまったのはご愛敬というものだろう。悶えるウソップの悲鳴は聞かなかったことにした。

 そんなわけで、昼間は何とか耐えるが反動のように夕食後以降の時間はビビが独占している。ラウンジで、ではない。ナミのひと声によってクオン限定で解禁された女部屋で、だ。サンジが筆舌に尽くしがたい顔で泣きながらクオンの胸倉を掴みはしたが、声にならない呻きを上げて崩れ落ちたあまりの悲愴さに思わず肩を叩いて慰めてしまったクオンである。まぁ何の慰めにもならなかったようだが。


クオン、女装したら絶対イケると思うのよね~これくらいなら着てみない?」


 時刻は夜、風呂を終え就寝までのひととき。女部屋のラグの上に足を伸ばして座り、膝枕を堪能しているビビの頭を撫でていたクオンはナミが差し出してくるキャミソールとカーディガン、膝下ほどの長さのレギンスに苦笑して遠慮した。男装の身で女装とは、と思いはするものの口にはしない。ごろごろと猫のように膝に顔を埋めるビビが女装も悪くない…とぽつりと呟いたことには頬をつつくことで抗議する。ビビが本気でないことくらいは分かるが。


「ま、いいわ。無理に着せて嫌そうな顔されるのもごめんだし……それより今日もいじらせてもらうわよ」


 クオンと一緒にいたがるビビに、ナミはクオンの女部屋滞在許可の対価としてクオンの身をいじることを要求して、ビビは二つ返事で頷いた。私の意思は、とこぼしたクオンの呟きはまるっと無視されたのは余談である。
 身をいじる、とは言ったものの、普段クオンが自分で行う自身の手入れを私にさせてほしいということで、つまりは煌めく雪色の髪と秀麗な顔に触れ、体はダメだが手と爪くらいなら、とクオンが許可したことでその権利をナミは得た。
 今夜も嬉々としてクオンの髪を丁寧にくしけずり、ヘアケア用のオイルを塗ってさらに櫛を通し、一本一本がきらきらと輝く髪がランプの光に照らされて眩しく光るのを満足そうに眺めている。
 ナミはどちらかといえば奉仕するよりされる方だろうと思ったクオンがそれは楽しいのかと訊いた初日に「綺麗な宝石は磨いてこそでしょ。その一端に私が関わってるってのは、気分がいいものよ」と言われ、日々喜んでビビの世話に尽くすクオンには心当たりがあったので分かりますと強く深く頷き、クオンのケアをすることでナミの気分が上向くのならば好きにさせようとそれ以上何も言わずになされるがままだ。

 髪の手入れを終えれば今度は顔。慣れたように膝から頭を上げたビビが今度は背中に回って後ろから抱きついてくる。ビビと入れ替わるように前に座ったナミは鼻歌まじりに化粧水やら乳液やらその他諸々、私物を持ち出してまでクオンの顔に触れ丁寧に指を這わせた。ぱちりと瞬きをすれば「睫毛なっが…顔が良い…」とたまにナミがこぼしてため息をつく。そう言うナミの顔も幼さを残してはいるが美しいと言って過言なく、やわらかく目を細めてあなたの美しさも大変に好ましく思いますよと世辞なく言えば、カキンと固まったナミがじわじわと頬を赤く染め、声にならない呻きを上げてクオンの頬を両手で挟む。むいと唇が突き出て間抜けな顔になったクオンの背中から「私は!?」とビビの声が飛び、「ひめひゃまがあいらひふふふふひいほはひまはらへひょう」と間抜けな言葉を返し、姫様が愛らしく美しいのは今更でしょう、と正確に読み取ったビビが背中に顔を押しつけて「すき…」とだけ呟いた。私も好きですよ、とやはり間抜けな言葉で続ければやはり容易く読み取ったビビが撃沈する。


「あんた本当たち悪いわよ…」


 いまだ赤い顔のまま呻いたナミがクオンの頬に触れる手から力を抜き、痛みを与えない程度に軽く引っ張る。ゴムのようには伸びない顔でクオンは楽しそうに唇に弧を描いた。
 クオンは誰彼構わずそんなことを言わない。あなただから口にしたのだとナミは理解していて、だからこそたちが悪いと言う。こんなのにハマってのめりこんだら人生終わりだ。だがそんな脆弱な精神をしていればそもそもとしてクオンからの好意は得られないのだから本当にうまくできている。
 クオンにハマってのめりこんでいるビビはそれでもしっかりと王女として立っていて、だからこそクオンの手は優しく伸ばされて甘い言葉と眼差しが与えられる。一度得られた蜜の味が忘れられず、手を伸ばして触れることを許される甘美さを知ってしまったナミは自分も同じだとは分かっていた。

 深いため息をついて顔から手を離したナミが白手袋に覆われていない手を掴み、毎日整えられているため短く丸い爪を撫でる。血色のよい爪はきれいに磨かれてつるりとしていた。爪はこれ以上いじるところはなく、ハンドクリームを手にしたナミが白く長い指に塗り込むのを、やはり穏やかに微笑んだままクオンは眺めていた。





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