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クオン、明日はこれを着てね!お願いよ!!」


 目を輝かせてそう言い、服を一式押しつけてきたビビに苦笑ひとつで受け入れたクオンは、翌日の朝、サンジの号令を聞いて飛び出していった男達を見送ってひとり男部屋に残り、いつもの燕尾服なら胸元と体型を誤魔化せるがただの市販品だとそういうわけにもいかないと、島の雑貨屋で買ったさらしをきっちりと巻いて渡された服に袖を通した。





† 執事の療養 6 †





 クオンとゾロの刀を狙ったごろつきの襲撃を受けたがゾロが追い払ってくれた、と船に戻るや否や興奮気味なチョッパーの話を聞いたナミは、騒ぎになる前に島を出るわよと即時出航を決めた。
 ルフィはもう暫く探検したそうにしていたが、「クオンがまた巻き込まれてもいいの?」のひと言で渋々ながらも分かったと頷き、そうして逃げるようにして島を後にしたのが昨日の夕方の話だ。

 今日は何をしましょうか、まぁ何もすることはないんですけど。早速買った本を読んで時間を潰して、あとはいつでも騒がしいルフィやウソップの周りにいれば退屈も紛れるだろう、と適当な算段をつける。

 ビビが選んだ服はやはり体のラインが出ないようなゆるいもので、本日の指定はパーカーだった。着替えのために遅れてラウンジに入ればビビがうっとりと見上げ、「近所の頭のいい素朴嗜好なお金持ちのお兄ちゃん…」と頬を染めて両手で拝む。
 燕尾服を脱ぎ白手袋も外したクオンは非常に顔が良いことを除けばビビの言うようなその辺にいそうなどこか品のいい兄ちゃん、という雰囲気で随分と気安そうな空気をまとっていた。ハリーはパーカーのフードが気に入ったようで、定位置の肩ではなくフードに入ってひょっこりと顔を出し、きゅっきゅと小さく鳴いて楽しそうだ。

 賑やかな朝食を終え、予定通りクオンは買った本を読もうとラウンジで本を広げ、暫くクオンのパーカーのフードで寝ていたハリーは飽きたのか起き上がると部屋の隅でビビを含んだ一味全員に簡単な問診をして作ったばかりのカルテに書き込んでいるチョッパーの帽子に飛び乗る。
 今チョッパーと向かい合っているのはサンジが入れてくれたドリンクを片手に持ったナミで、体調の変化を聞き、病気の容態は安定しているが今日まで飲むように言いつけて薬を渡している。するとハリーが何やら鳴いて、チョッパーが帽子の上のハリーを向いて「うん、成分はそんなに難しくはないよ。あとで見せようか」と言う。目だけを上げて見たクオンが微笑ましさに唇をゆるめた。
 それからもチョッパーは時折入るハリーの質問に答えながらひとりずつ丁寧に一味の問診をし、最後に呼ばれたゾロの足の抜糸を慣れた手つきで行いあまり無理しちゃダメだぞと医者の忠告を残して終えた。当のゾロは、おー、とあまり気のない返事だったが。

 ひと仕事終えたチョッパーがカルテをまとめ、ハリーと仲良くテーブルへと戻ってくる。クオンの隣に座ったチョッパーとハリーに「お疲れさん」とサンジが冷たいドリンクを出してやった。嬉しそうにふたりが礼を言って口をつける。


「ハリーと船医殿は仲良しですねぇ」


 読み終わった本を閉じ、ハリーを指先でくすぐりながらクオンがそう言うと、チョッパーは笑顔で頷いた。


「ハリーはちょっと怖いところもあるけど痛いことはしてこないし、医術に興味があるみたいで色々教えてるんだ!それに頭も良くて呑み込みがいいから話してて楽しい」


 医者がチョッパー以外にいないこの船で医者としての話ができる人間はクオンかかろうじてナミくらいだが、それも素人に毛が生えた程度。到底チョッパーほどの知識量も技術もないが、どうやらハリーはハリネズミであるがゆえに技術はなくとも知識では引けを取らないようで良い刺激になっているようだ。はりゅり、と鳴いたハリーがぺちりと小さな前足でチョッパーの帽子を叩けば「ごめんって」とチョッパーが笑って、本当にいつの間に仲良くなったのやら。だが気がつけばチョッパーとカルーとハリーで輪になっていることもよく見るから、カルーも含めて動物組は仲が良いのだろう。
 ハリーが賢いのは相棒としても分かっていたことなので驚かない。うちの相棒、よくできた子でしょうと誇らしげにドヤ顔をするクオンである。


「チョッパー!ハリー!!」

「あ、ウソップだ」

「きゅーぅ?」


 ふいにラウンジまで届いた声に、ドリンクを飲み干したチョッパーが何だろうな?と首を傾げながら帽子の上にハリーを乗せたまま出て行く。クオンも本を読み終えたことだし暇潰しも兼ねて行ってみようかと腰を上げかければ、どこか硬い、厳かな声が飛んできた。


クオン、お前は残れ」

「?」


 声の主は探るまでもなくサンジだ。きょとんと目を瞬いたクオンがサンジに軽く手招かれ、カウンターへと座り直す。先程からキッチンにこもって何かやっているとは思っていたのだが、まさか手伝えと言うわけもないだろう。ナミに忠実なサンジがナミからクオンに下された厳命に背かせるような真似をするとは思えない。
 そういえばずっといい匂いがする。ルフィがチョッパーに呼ばれたときはキッチンをガン見していて気もそぞろで、本を読んでいたクオンは昼食の仕込みだろうと大して気にしなかったのだが。
 食欲をそそる匂いに腹が小さく鳴る。小食のクオン用に出された朝食がいつもよりもさらに少なかったことを唐突に思い出して、その疑問に答えるようにずいと目の前に肉団子が突き出された。

 ぱちり、瞬きひとつ。ひと口サイズよりも少し小さな肉団子を掴む菜箸のもとを辿れば当然のようにサンジへと行き着く。
 怖い顔だ。緊張している、といってもいいか。眉間のしわがものすごいことになっているし、じいと見下ろしてくる視線は睥睨と言っていい。しかし怒りだとか不愉快だとか、そういったものは感じない。だからクオンは疑問符を浮かべながらも口を開けて差し出された肉団子を迎え入れた。あたたかいが火傷するほどではないそれを口内で歯で削れば、じゅわりと熱い肉汁があふれる。


「ほいひい」


 ふにゃりとゆるんだクオンの秀麗な顔に、サンジがほっと息をついて小さく嬉しそうな笑みを浮かべる。まだ緊張は完全に解けていないが、それでも端正な顔立ちがほころんだ。
 咀嚼を繰り返し、飲み込めば次に突き出されたのは肉団子と同じサイズの揚げ餃子だ。タレも何もかかっていないそれをひと口でいただく。中のあんや皮に味付けがされているのか、味気ないとは思わなかった。とてもおいしい。
 それから差し出されるまま、すべてがひと口サイズよりも小さなそれらを胃におさめる。時間を置かずに次々と差し出されるので満腹中枢は反応が鈍く、小食のクオンにしては結構な量を食べられた。

 差し出されるものを素直に口にしておいしいと笑うたびに、サンジの顔がゆるんでいく。それを見て、本当に料理を作ることも、それを食べておいしそうに笑うひとの顔を見るのも好きなのだなとクオンは思う。
 女性好きなのは目に見えて分かって男には辛辣、しかし男女分け隔てなく向けられる気遣いは細やかで、よくひとを見ている優しい人だ。女性が好きだというのも、軽いというわけではなくてひとりひとりに誠実であり、ナミやビビはもちろん、あのドクトリーヌすら当然のようにレディとして扱ったとチョッパーに聞いた。まぁ、その年齢と彼女の苛烈さゆえに普通にババア呼びはしたらしいが。


「……おれは知ってんだ」


 思考に耽っていればぽつりと言葉を落とされ、視線を上げたクオンはゆるんでいた顔を再び強張らせたサンジを見て、開きかけた口には唐揚げが突っ込まれた。さくさくじゅわりで大変うまし。


「苦い野菜は真っ先に片付ける方で、口にしたのが苦手な味だったら一回別の料理を挟んでからひと息に食うし、酸っぱいものを食べると水をよく飲む、辛いのよりは甘い方が好きで、野菜ジュースは果実多めの方をよく飲み、チョコレートケーキよりも果実のタルトの方が好きだろ」


 つらつらと並べ立てられた自分の嗜好に、自分好みの砂糖を入れて半熟にした卵焼きを咀嚼しながらそこまで顔に出ていたかと自分の正直さを憂うべきか考え、苦手なものに関して表情はうまく取り繕っていたはずだから微かな癖から見抜かれたのだろうなとサンジの鋭い観察眼に感心することにした。称賛の言葉を紡ごうとした口に、鳥肉の照り焼きが突っ込まれる。弾力のある皮がパリパリに焼かれていて肉はやわらかく、シンプルな味なのに雑味は一切なくてやはり最高にうまい。


「鳥だったら照り焼きが好きなんだろ」


 よく覚えていましたね、と無言で咀嚼しながら感心した。それを話したのはウイスキーピークに着く前のことで、しかも軽く流されたはずだった。
 そろそろお腹がいっぱいだなと口の動きを鈍くするクオンにはもう何も差し出されず、代わりにこくんと飲み込んで食事を終えたクオンの前に液体が半分ほど入ったグラスが置かれる。ややオレンジがかった透明なそれを躊躇うことなく口に含めばほんのり甘くさわやかな味が舌を撫でて、蜂蜜とみかんが混ぜられたレモン水に思わず笑みがもれた。結局、サンジはクオンに酸っぱいだけのレモン水を入れたことなど一度としてなかったし、これからもきっとないのだろう。

 クオンの好きなものだけを与え続けたコックは、秀麗な顔をほころばせて微笑むクオンを見下ろし、唇を歪めてガリガリと頭を掻くと項垂れた。


「てめぇが偏食執事で、何よりもビビちゃんに優しくて甘くて、おれ達のこともそれなりに気遣ってて、ビビちゃんが浮気性だって嘆く割に誠実なんだって、おれは知ってたんだ。だからお前が、……ナミさんをただ苦しめるつもりなんてなかったし、ビビちゃん以外どうでもいいと切り捨てられるほど冷血な奴じゃないって、考えなくても分かるはずだった」


 ぽつりぽつりとこぼされる言葉は、まさしく懺悔のそれだ。あのときサンジに糾弾されてにじみ出た感情、ルフィに対する誠実さ、クオンのことをこの船の誰よりも理解しているビビの言葉がサンジの内に渦巻いていた怒りの炎に冷水をぶっかけて消し、冷えた頭で考えればクオンが人でなしであるはずがないと判じて怒りは瞬時に後悔へと変わった。
 あのときの執事は、言い訳ひとつしなかった。ただビビのことだけを頼み、あの場で首を斬られていたとしても恨み言なぞひとつもなかっただろうと、サンジは思う。必ず島へ辿り着かせると断言し、その通りにした肉体は医者の逆鱗に触れるほどの無茶を重ねたせいでもはや死体に近かったという。恐ろしいほどに振り切れている執事に背筋が凍ったのは記憶に新しい。

 たぶん、コックは─── サンジは、クオンの不調に気づけたはずだった。意外なところで鋭い船長はともかく剣士は気づいていたから、サンジが気づけぬ道理はないと自分でも思う。
 食事をしているときのクオンの顔を、いつものように観察していれば。その秀麗な顔に影を落とす、しかしその美しさを損なわせることのない目許の隈を見抜けたはずだ。おいしいとほころぶ唇は血の気を失い首の痛みによって微かに歪んだことも、苦手なものは何一つ入っていないのにカトラリーを握る手が鈍いことも、おれなら気づけたとサンジは思う。この船に乗った瞬間から得体のしれない執事の挙動をずっと目で追い、観察し、航路を共にすると決まってからは偏食執事を矯正するためにより見続けたのだから。
 しかしそれを途中で自分はやめたのだ。一方的な糾弾に罪悪感を覚えて、美しい秀麗な顔を見るとまるで責められているような、被害妄想じみたことを考えてしまったから。そんなことあるはずないのに。
 悔いも禍根も、残しておくべきではない。クオンはおそらく普通に話しかければ普通に返してくれるだろうけれど、自分ができそうにないから、わざわざ根回しして2人きりの時間を作り、贖罪の意味を含んでクオンの好物をひたすらに与えた。


「……悪かったな、一方的に怒鳴って」


 目を逸らさず、真っ直ぐに見つめてくるサンジを、クオンは静かに見返してぱちりとひとつ瞬いた。
 謝罪されているのはナミが倒れてすぐにサンジに怒鳴られたことなのだろうと分かるが、あれは自分に非があったのだと分かっている。サンジが悪いことなどひとつもないのだ。
 好物をたくさん与えられたことでサンジが自分を嫌っているわけではないと分かったから、船長が手打ちにした以上蒸し返すべきではなく、あれからずっとこちらを窺っていたサンジが踏み込んできたようにクオンもまた気安いやり取りができるよう距離を詰めて、ウソップが言った「いつも通り」に戻れるよう振る舞おうかと思っていたのだが。

 特製ドリンクをひと口すすり、痛みなくものを嚥下できるというのはおいしいものがよりおいしく感じるものですねぇと当然のことをぼんやり考えてクオンは唇をもごつかせる。
 サンジになんと言葉を返せばいいのだろう。なぜあなたが謝るのです、という疑問は湧いたが、それを口にするのは違う気がした。それはなんだか、サンジの心遣いを否定するようにも感じられて。けれどそれでもやはり、サンジがクオンに謝るのは違う気もするのだ。たとえ事実一方的な糾弾だったとしても、決して不当ではなかったとクオン自身が思うから。
 ではなんと言うべきか。判断が常に早いクオンはサンジと見つめ合ったまま暫く悩み、そうして、赤い舌で濡れた唇を舐めるとおもむろに口を開いた。


「許します。ですので、コック殿もどうか、勝手な行動をした私をお許しください」


 カウンターのイスに腰かけたまま背筋を伸ばし、傲慢に言い放ちながら許しを請うクオンにサンジは目を見開き、ふと頬をゆるませると「仕方ねェな」と胸を反らして不遜な表情で傲慢に言い放つ。


「許してやるよ、クオン


 それで完全に、互いに距離感をはかりかねていた2人は手打ちとした。サンジはもうクオンのことを誤解することも疑うことはなく、クオンもまたサンジの心根を改めて知り彼を誤解することも疑うこともしないだろう。


(─── 本当に、このひとは)


 長い睫毛に縁どられた瞼を伏せて、クオンはゆるりと唇に笑みを描く。穏やかに、甘やかに、美しい微笑みを花開かせて。


「優しいのですね、コック殿」


 ひとをよく見て、心を配り、砕き、寄せては気遣うこの男は、優しすぎるほどに優しい人だとクオンは思う。女性が好きで、男には乱暴且つ雑で、けれどそのあたたかな心を傾ける先は男女問わず、分け隔てなく。優しい手で作られた料理は善悪すら問わず差し出されるのだろう。それは、紛うことなく「良いもの」だ。「良いもの」でないはずがない。


「……ビビちゃんと同じことを言うんだな」


 クオンの笑みに見惚れて呆然としていたサンジは、クオンが飲み干したコップをカウンターに置いた音で我に返った。ぽつりと落とした言葉に、クオンはぱっと目を輝かせて笑う。己が「良いもの」と定めた者に主がかけた言葉が同じだと知り、まるで同意してもらえたようで嬉しかった。そしてやっぱりサンジは「良いもの」で間違いなく、それもまた嬉しい。

 クオンの格好がいつもの燕尾服ではなくパーカーであるせいか、まとう空気はやわらかくその笑みは幼子のようないとけなさがあって、サンジはつい男のくせに、といういつもの悪態が出てこない。顔が良すぎるせいというもの多分にあるが、あまりの無邪気さに毒気を抜かれたというのが正しい。


(ビビちゃんが事あるごとにクオンを可愛いって言うのも分かる気が……いや!おれは!分からねェ!!!)


 分かっちゃならねぇ気がする!まだ大丈夫だ!クオンは男、クオンは男、おれは世の中すべての女性が好きで、クオンは男だから対象外、ただあんまりガキみたいに笑うから、ならまぁ、ガキだと思えばちょっと可愛く見えても……仕方ねぇだろ。仕方ねぇよな?おれと歳変わらねぇとは思うが。でもこいつはさすがに年下だろつまりクオンはガキだから仕方ねぇ、うん。好き嫌いが割とはっきりしてるガキだから仕方ねぇんだ。目を離すと食事を疎かにするガキだからきっちり食育してやんねぇと。
 思考が乱れ飛び内心葛藤しながら自身に言い聞かせるサンジのことなど露知らず、クオンはふにゃふにゃと笑っている。なんだその顔。初めて見たぞ。いや酒に酔っ払ってるクオンはそんな顔してたな。そんなにビビちゃんが自分と同じことを言ったのが嬉しいのか。しょうがねぇ奴だなかわい………


「可愛くはねぇ!!!」


 ドン!!とカウンターに両の拳を叩きつけたサンジに、クオンはびくりと肩を震わせた。いきなりどうしました、と疑問を浮かべた眼差しを向けられ、困惑がにじんだその顔をじとりと据わった目で見上げたサンジは唸るように声を低めて問うた。


「おい執事野郎……てめぇいくつだ」

「私ですか?19です」

「同い年かよふざけんな!!!」

「どうしましたコック殿、情緒不安定ですよ」

「てめぇのせいだよ!!!」

「えぇ……」


 突然荒ぶって怒鳴るサンジにクオンの眉が下がる。うがああ!と金髪を掻きむしって唸るサンジをおろおろと落ち着きなく見るクオンにぎりぎりと歯を軋ませ、なんだか無性に腹が立ったのでさらさら艶やかな雪色の髪に手を伸ばしてぐしゃぐしゃと掻き回した。指通りが滑らかな髪が指の間をするすると通り、枝毛の1本もない髪を乱していく。


「わわわわわ」

「クソ、ふざけんな触り心地最高か」

「本当にどうしましたコック殿」


 盛大な舌打ちをして褒められながら髪を掻き回され、ぼさぼさになったところでようやく手が離れる。ひどい目に遭った、とこぼしたクオンが乱れた髪を手櫛で直すのを眺めながら煙草を口に咥えたサンジは、けれど火をつけることはなくフィルターを噛んで深いため息をついた。
 いやため息をつきたいのは私の方なんですが、と唇をとがらせる同い年のガキの機嫌を取るためにデザートを取りに冷蔵庫へと足を向ける。クオンが好きな果実のミニタルトは、いい感じに冷えているだろう。





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