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「そういえば航海士殿、ここより10時の方角に島が見えました。小さくはない島です、村か町のひとつやふたつはあるかと」

「ほんと抜かりないわよねクオン。うーん、進路からそんなに外れるわけじゃないから、補給のために立ち寄るのはありだと思う。チョッパーもドクトリーヌが用意してくれた本や医療道具はいくらかあるけど在庫は十分に抱えておきたいって言ってたし……。どれくらいで着きそうなの?」

「そうですね……何事もなく進めばこのスピードでしたら夜には着くでしょうが…」

「ルフィは夜だからって我慢できない、絶対に。でも朝早くに飛び出されても困るし……日が暮れたら錨を下ろして、昼前くらいに着く程度に調整するわ」

「ええ、ではそのように」


 真っ白執事と航海士の密談は、輝く太陽のもと、誰にも知られることなくひっそりと行われた。





† 執事の療養 4 †





 ナミのひと声で日が暮れると同時に錨が下ろされ、就寝前にまたクオンを抱え込もうとしたルフィに早く起きて働いたりは絶対にしないと約束を交わして説得しいつものようにソファで眠りについて迎えた翌朝。

 朝食を無難に終え、“永久指針エターナルポース”の指針から僅かにずれた進路を取っていることには誰にも気づかれず、しかし見張り台に立って双眼鏡を覗いていたウソップが「おい!まだ遠いけど、島が見えたぞ!」と大声で叫んだことでメリー号はにわかに騒がしくなった。進路の決定権を持つナミに男達が詰め寄る。


「ナミ!島!島だってよ!!行こうぜ!!島だ!!!なァちょっとくらいいいだろ!!」

「ナミさん、食料も減った分は補充しておきたいし、少し立ち寄ってもらえないかな」

「新しい道具を作ってみたかったところなんだ、材料買いたいし頼むよナミ!」

「おれ、おれも!医療道具とか本とか、あとみんなのカルテ用の紙が欲しいんだ!」

「酒が飲みてぇ」

「うるさいわよあんた達!同時に喋るな!!」


 正座おすわり!!と一喝され、甲板に横一列になって男どもが正座する。彼らの前に腰に手を当てて仁王立つナミの後ろでビビが「今、クオンの幻影が見えたわ」と少しだけ顔を青くして、クオンは賑やかですねぇと秀麗な顔をゆるめてくすくすと笑っていた。カルーとハリーがそっと寄り添ってナミから距離を取る。動物は序列が上のものには決して逆らわないものであるからして。


「島があったってだけで、町があるかどうか、そもそも人が住んでるかも行ってみないと分からないんだからそんなに騒がないでよね。進路を大きく外れるわけじゃないから寄ってみるのはいいけど、明らかに人がいなさそうだったらすぐに出航するわよ」


 ビビもいい?と振り向いたナミにビビがこくこくと頷く。限られた船の上、アラバスタまでまだまだかかるし、今後のことも考えれば補給はできるときにしておくべきだ。ビビの同意を得てナミも頷き、ルフィとウソップが顔を見合わせて笑った。しかしウソップは無人島だったらどうせ「上陸してはいけない病」とやらを発症するのは目に見えている。だがクオンの目算では住民がいると思われるので、今回はその病を実際に目にすることはなさそうだ。


「今度はどんな島なんだろうな~~~」


 メリー号の船首に乗ってわくわくと体を揺らすルフィはそれから島が見えるまでそこに座り続け、そしてナミの目論見通り昼前には島が眼前に迫り、見張り台で双眼鏡を覗いていたウソップが「町がある!」と歓喜の声を上げた。
 ビビとハリーとゾロとトランプに興じ、ハリーと共にとっくにあがっていたためビビとゾロの白熱する一騎打ちババ抜きを観戦していたクオンはその声に顔を上げ、「あー!!」「おれの勝ちだな」と目を離した隙に勝負が決したことで顔を戻した。ジョーカーを手に打ちひしがれるビビの向かいでゾロが勝ち誇ったように胸を張るが、クオンが1抜け、ハリーが2抜けしていたので彼は3位だ。なのにまるで優勝したかのような表情で、対するビビは甲板に拳を打ちつけて本気で悔しそうだった。賭けるものなどひとつもないただのお遊びにそこまで熱くなれるとは、人生楽しめているようで何よりである。

 さて、島がある、ということで、先程ナミに詰め寄った男どもは全員上陸希望であり、ではナミとビビとクオンで船番をするのかと思いきや、戦闘禁止令が出ているクオンを残しておいて何かあったらどうするの!というナミの言葉により交代制ということになった。


「ルフィ、ウソップ、サンジ君が前半メンバーよ。で、後半にチョッパー…ひとりだと目立つから…クオン、一緒に行ってあげて。そしてゾロ、あんたはチョッパーとクオンについて行くこと。ハリーもいるし、これなら何かあっても大丈夫でしょ」


 遠目に見ても海軍基地がなければ他の海賊船もないのんびりとした町並みに、目に見えての脅威はなさそうだと判断しててきぱきと決めていくナミに反対の声を上げる者は誰もいない。ルフィは近づく島にうずうずと身を震わせ、「前半メンバーは3時間後に集合。ルフィ、分かった?」と言われても「おー」と返事がおざなりだ。ナミの鋭い目がウソップとサンジに据えられ、無言の圧力を受けた2人がぴっと姿勢を正して「了解しました!」と声を揃える。成程、ルフィを捕獲・連行することも視野に入れた人選のようだ。

 ビビはどうする?と振り向いたナミに、ビビは少し考え、前半メンバーに入ると答えた。後半メンバーにクオンがいるのだからいつものビビなら迷うことなくクオンについていくのだが、そうすればクオンが無意識に世話を焼くだろうと判断しての答えだ。クオンがちょっと寂しそうな目をしてビビを見つめるが、耳を下げて窺うように上目遣いに見つめてくる仔犬の幻覚を見て身悶えながらもビビは決してクオンの希望に沿うことはなかった。

 チッ、ダメか。陥落しまいと背を向けて走り去るビビの背中を見つめたままクオンが聞こえないよう小さく舌打ちする。「お前それが本性か」とゾロが胡乱な目で見てきてじとりと見返した。うるさいですよ、姫様の前では猫くらい被ります。そもそもかつて傭兵団に所属していて今と同じくお上品なままだったわけがないだろう。ビビの執事になると決めたその瞬間まで、クオンの口と態度はそれなりに悪かったのだ。まぁその辺の話はいずれまたの機会に。










クオン、今のうちに包帯替えるぞ!」


 町から少し離れた場所に船を泊め、我先にと船を飛び出したルフィ、まったくあいつはとため息をついたウソップとついでに町の様子も見てくるとビビを連れ立っていったサンジを見送ったクオンの背にチョッパーの声がかかり、ひとつ頷いたクオンはラウンジへと足を向けた。
 特に買いたいものはなく寝込んでいる間に描けなかった海図に取り掛かりたいからと上陸を希望しなかったナミは女部屋にひとりこもっている。ゾロは後部甲板の方に行っていたからいつものトレーニングか昼寝だろう。

 しんと静まり返るラウンジの一角に腰を下ろし、医療道具が入ったカバンを傍に置いたチョッパーの手が届きやすいように体を傾ける。チョッパーの手が伸ばされ、しゅるしゅると器用に包帯を解いていった。そしてあらわになる傷痕を見つめたチョッパーがほうと息をつく。


「やっぱりドクトリーヌはすごいな。縫合がすごくきれいだ。これなら縫い痕も残らないよ」

「それはありがたいことです」


 傷が残っては姫様が悲しそうな顔をしますし、とは言わない。
 可愛らしい外見だが立派な医者の目で傷を診て、丁寧に洗浄をしたのち軟膏を塗って再び包帯を巻いていく。痛みは?熱は?違和感はあるか?ちゃんと痛み止めは飲んだか?と問診に答え、ドクトリーヌから引き継いだクオンのカルテを開きながら所見を書いていくチョッパーを見下ろし、性別欄にきっちり「女」と書いてあるのを認めたクオンはおもむろに口を開いた。


「ところで船医殿」

「ん?」

「私の性別ですが、他の皆様には内密にしていただきたいのです」


 えっ、とチョッパーが顔を上げて目を見開く。クオンは秀麗な顔に穏やかな笑みを貼りつけ、そっと口元に白い人差し指を立てた。
 己の性別は、絶対に何が何でも隠し通さねばならない秘密、というわけではない。だが吹聴して回ってもいいものでもなかった。できることなら知っている者は少ない方がいい。ゾロはああいう男だ、自分でも言っていた通り、言い触らすような真似は決してしないからそちらは心配していない。だがチョッパーはうっかり口を滑らしそうなので、今のうちに口止めはしておきたかった。


「何でだ?クオンとルフィ達は仲間なんだろ?」


 きょとんと純粋な目で首を傾げられ、クオンの笑みが僅かに苦みを帯びる。答えは口にしなかった。もし言葉にしたならば、「それはあまりに、おこがましいでしょう」と返しただろうが、それを口にすればまるでそうありたいと願っていると言っているようなもので、それは、ダメだった。ビビの執事である自分が口にしていい言葉ではなかった。確かに彼らによくしてもらっているとは感じるが、だとしても、明確な言葉にしてしまえば本当に取り返しがつかないような。引いた線は灼かれてしまったけれど、きっとそれだけはダメなのだ。
 ……そう思うことこそが、と深みにはまりそうになった自分の思考に内心苦笑して考えることをやめる。チョッパーはクオンの静かな笑みに何を感じたか、視線を下に落とすと俯いてしまった。


「剣士殿には不可抗力で知られてしまいましたが、諸事情あって他の皆様には秘密にしているのです。聞いていただけますか?」

「……ゾロは知ってるのか。うん、でも、分かった。約束する!おれ、絶対にクオンが女だって言わない」


 顔を上げ、ふんすと鼻息荒く宣言するチョッパーにクオンの目がゆるく笑みに細められる。ありがとうございます、と返してピンク色の帽子をぽんぽんと叩けば、照れくさそうにチョッパーが身をよじった。


(……でも、クオン


 優しく叩かれた帽子を押さえ、つば越しに美しく微笑むクオンを見上げながらチョッパーは内心で呟く。
 クオンはルフィ達を仲間だとは言わない。クオンはビビの執事で、きっと性別以外にも多くの隠し事があって、懸念があって、それがクオンを足踏みさせている。けれどルフィは。おれに化け物だとかそんなこと関係なく、うだうだと言う自分をうるせぇと切り捨て、いこうと力強く誘ってくれたあの男は、きっと。
 でもそれを言うのは自分ではないとはっきり分かるから、チョッパーはクオンに心の中の言葉を口にはせず、そっとカルテを閉じた。










 ルフィ達が下船してからきっちり3時間後。荷物を抱えたウソップとサンジが戻ってきた。彼らの後ろにビビとルフィがいて、ルフィがきちんと戻ってきたことを意外に思って目を瞬く。ナミの言葉なんて何のその、満足するまで戻ってこないと思っていたのだが、クオンの表情に気づいたウソップが「サンジがメシ食いてぇなら戻るぞって言ったからな」と笑う。成程、それは確かに大変魅力的だ。
 昼時を少し過ぎているが、遅すぎるというわけではない時間に前半メンバーが見聞きした町の様子を聞きながら昼食を終え、今度は後半メンバーが町に出ることになったのだが、ここでビビのストップがかかった。


クオン、これ被っていって。素顔のままだとあまりの綺麗さにみんな卒倒しちゃうわ。それに、変なのに絡まれるかもしれない」


 言いながらビビがクオンに被せたのは、つばが少しだけ長い白いキャスケットだった。いつもの被り物はさすがに目立つからとわざわざ町で買ってきてくれたらしい。素直に受け取り、深く被らされたキャスケットに燕尾服は合わないだろうからジャケットは脱いでいくべきかと思えば、「あとこれもね」と裾が長い薄手のコートを渡される。コートは体のラインを隠せるほどゆったりとしたものだ。
 礼を言い、一度男部屋に入ってジャケットを脱ぎコートを着たクオンが甲板に戻れば、自分が選んだ服装をするクオンを360度眺めたビビがうっとりと「いい……」と頬を染めて噛みしめる。いつもの燕尾服と違って新鮮なようで、どうせ療養期間中は執事の仕事ができないのだしビビがそこまで喜ぶのなら違う服装をしてやろうかと思えば、「他にも買ってきたからね!きっと似合うわ!!」と先手を打たれた。どうやら着せ替え人形にする気満々らしい。ウイスキーピークにいた頃は何を言われても燕尾服を脱ぐことはなかったから、この機会を逃すつもりはないのだろう。まったく己の欲望に素直な主である。そういうところは好ましい。


「では姫様、行って参ります」

「……うん」


 キャスケットを深く被り直し、既に船を降りて待ってくれているゾロとチョッパーのもとへ行こうとすれば、神妙な顔で見上げられる。クオンは鈍色の瞳をやわらかくゆるめ、少しだけ頭を下げた。伸びてきた白い手が頬に触れる。


「大丈夫ですよ、もしガラの悪い方々に絡まれても剣士殿がいます。怪我を負っても船医殿がいます。何も心配することなどありません」


 囁くクオンに、うん、とビビが返す。だがその瞳は不安に揺れて、クオンの顔から首へと落ちた。包帯の下にある傷は、あと数日は縫われたままだろう。傷が完全に癒えるまではビビの翳りは消えない。それが分かっているから、クオンはあらゆる行動を制限されても大人しく頷いたし、顔を出したままでいてほしいというビビの願いに応えたのだ。もちろん、罰を望んだのは自分であるからして、何を言われたとしても受け入れるつもりはあったが。


「おーいクオンー!」

「……呼ばれてしまいましたね」


 降りてこないクオンを呼ぶチョッパーの声に苦笑し、頬に触れるビビの両手を取って顔を上げる。今行きます、と短く言葉を返してビビを振り向いた。ビビはクオンの手をきゅっと握り、その手を覆う白い手袋を取って胸に抱えた。


「その格好に、これは似合わないわ。行ってらっしゃい、クオン





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