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 クオンの説得も虚しく、ナミは箸以上に重いものを持つんじゃない、だからといって針を持つのもハリーに作らせるのもダメ、戦闘する事態に陥っても箸を武器にするのも当然ダメ、どうせまだ話す気になれない悪魔の実の能力を使うことも当然ダメとクオンの思考を先読みしてどんどん制限をかけていく。


「とにかくクオンはご飯食べて寝て起きてご飯食べて寝る生活だけをしなさい。それ以外は全ッ部!!ダメ!!!」

「暇で死にそう」

「休まない方が死ぬわ!!!」


 その通り休まず働き続けた結果この世で最も恐ろしい医者とこの船の陰の権力者をブチギレさせた自覚のあるクオンは、「おれも同意見だぞ、まずその傷を治さねぇと」と医者の顔をした愛らしいトナカイにまで言われてしまえば、もう何も言うことはできなかった。





† 執事の療養 2 †





 クオンはビビの執事である。つまりは麦わらの一味ではなくビビの意見に従うことが最優先だ。唯一の望みであるビビを窺えばどうやらナミやチョッパーと同意見のようで、クオンの目を真っ直ぐに見返したビビはぐっと拳を握り、「私も頑張るから、頑張るわよ、クオン」とトドメを刺されて撃沈した。肩を落としたクオンがちらりとチョッパーに覇気のない顔を向ける。


「傷が治るまでどれくらいかかりそうですか、船医殿」

「傷はもうドクトリーヌが縫ってあるから、抜糸とそのあとの様子見で、怪我だけなら1週間ってところだな」

「1週間……」

「てめぇはおれには足の傷が塞がるまで鍛錬をやめろって言ったくせに、自分が言われたら嫌がるのかよ」

「日常生活とあなたのアホみたいな鍛錬を一緒にしないでください」

「よく言った」

「あああああああ」


 つい口を滑らせたクオンの頭をわし掴んで力をこめるゾロの腕を白い手が掴んで引き剥がそうとするが、能力の使用が制限された今、怪力自慢の手をどうにかするだけの力はクオンにはない。だがその手はすぐに離れ、乱れた髪を指で梳くクオンは恨みがましげにゾロを睨んだ。痛みに呻くほどの力はこもっていなかったが、それでもわし掴まれた頭には圧迫感が残っている。解放感に頭の血が勢いよく巡ったか、掴まれた場所が熱を持っていた。
 些細な可愛らしい悪態にこの仕打ち、若干の理不尽ささえ感じる。眉間にしわを寄せるクオンの顔を見てふんと鼻を鳴らして笑うゾロの横腹に一発入れたくなったがぐっと耐えた。今度口にチョコレート突っ込んでやろう、とはひっそりと心に決めたが。まぁ完全なる八つ当たりである。


「ところで、私の被り物ですが」

クオンが完治するまでこれは没収。せめてクオンの顔が見たい私のわがまま、聞いてくれる?」

「姫様にそう言われて、否と言えるわけがないでしょうに。……決して被らないと約束するので、スペアは返していただいても?」


 ビビが可愛らしく小首を傾げておねだりされて即答したクオンがどうにも落ち着かないのでと小さく肩をすくめ、それにビビはすぐに頷くと席を立ってラウンジを出ていき、その腕に見慣れた被り物を抱えて戻ってきた。差し出された被り物は上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模したもので、少々間の抜けた顔をクオンに向けている。
 それを受け取ったクオンはそのまま懐にしまい、誰にも気づかれないようそっと息をついた。


「ねぇクオン。これは単純な疑問なんだけど」

「何でしょう?」


 席に戻ったビビが腰を下ろすのを待って口を開いたナミを、冷めつつあるコーヒーカップに指をかけたクオンが見る。ナミはじっとクオンの首を、白い首に巻かれた白い包帯の下にあるあまりにきれいな刀傷を見透かすように目を細めた。


「それ、誰にやられたの?」

「鷹の目ですよ」


 あっさりとクオンは答え、ナミとサンジが目を見開き、は!?とウソップとビビが驚愕の声を上げ、ルフィが鷹の目ってあいつか?とゾロの方を見て、答えを知っていたゾロは表情を変えないままルフィに頷き、鷹の目?とひとり分からないチョッパーが首を傾げた。


「……相当な奴がクオンに傷を負わせたんだろうとは思ってたけど…」


 まさか、と驚愕の色を残して頬を引き攣らせるナミが片手で顔を覆う。随分と買われているなと思いながらもクオンは無言のまま笑みだけを返し、なぁ鷹の目って誰だ、と首を傾げるチョッパーの方を向いてゾロを指差した。


「剣士殿と同じく刀が武器の、世界で一番強い剣豪のことですよ。クロコダイルと同じ王下七武海のひとり、鷹の目ジュラキュール・ミホーク。いやはや、まさか序盤も序盤の“偉大なる航路グランドライン”で出会うとは思いもしませんでした」


 クオンの脳裏に甦るのは、あの嵐の中、荒れる波と船の残骸と奔流されるだけの人間に紛れる自分を射抜く、あまりに鋭い金色の眼と迫る黒刀だ。クオンと瞬時に間合いを詰め、能力を使って防ごうとしたのにそれをものともせず間違いなく殺すつもりで首を刎ねるために振り下ろされた刃の軌道から首を動かすことができたのは奇跡と言えた。しかし致命傷であることに変わりはなく、あふれる鮮血と激痛を抱えてあの鷹の目からどうやってローグタウンまで逃げきれたのかは覚えていない。命からがら、無我夢中で海を駆けた先の町で無理やり命を繋ぎとめたが、1週間はまともに動くこともできなかった。


「何で鷹の目になんて目ぇつけられたのよ、クオン

「さぁ?そのとき私はクリーク海賊団の船に忍び込んで色々と拝借しているところに船が襲われまして、鷹の目に気づいた瞬間には逃亡一択でしたが、不運なことに目が合ったと思ったときにはこちらに刀が向けられてたんですよねぇ、それでまぁスッパリと」


 聞いた覚えのある海賊の名前に反応することもできずにルフィとゾロとクリークの名前を知らないチョッパー以外の全員が絶句する。へーよく生きてたなとルフィが感心したように言い、いえいえ死にかけましたよとクオンがのほほんと笑い、笑い事じゃねーぞ!と医者のトナカイがツッコんだ。


「何が気に入らなかったのかは分かりませんが……もしかしたら2年以上前に彼に何かやらかしてしまったのかもしれませんね」

「ん?何で2年以上なんだ?」

「2年前以前の記憶がありませんので、私」

「「「はァ!?」」」


 ルフィと会話をしているとさらりと明かされた衝撃の事実に、ナミサンジウソップの声が重なる。ビビは当然知っていたので驚かず、けれど話していいの?と窺うような顔をして、それにクオンは構いませんよと静かに微笑んだ。


「2年前にとある傭兵団のもとで目覚めたときには何も覚えておらず、それから色々あって1年前に姫様に拾われて現在に至るという、まぁあまり面白味もない話ですのでそれは横に置いておきましょう」

「待って情報量!いきなり後出しが過ぎるわよ!!」


 鷹の目に斬られたという事実だけでも驚きなのに、いきなり実は記憶喪失なのだと言われても情報がうまく頭に入らず処理しきれない。そんな素振り、今まで一切見せなかったではないか。しかもビビと出会ったのは1年前で、それにしては随分と距離が近い。てっきり幼い頃からの付き合いなのだと思うほどの深い愛情を注ぎ合っていると思っていたのだ。


「記憶ないのか、クオン

「ええ。自分の出自も両親もきょうだいの有無も本当の名前すら分かりません。クオンという名は姫様がくれた大切な名ですので気に入っていますが、最初に世話になった傭兵団ではまた別の名前で呼ばれていましたし」

「悪魔の実はいつ食ったんだ?」

「目覚めたら使えたので、おそらく記憶を失くす前に食べていたようです。…そういえば船長殿はいつ食べたのですか?」

「10年くらい前だ!すっげーまずかった」

「ふふ、その味を覚えていないのは不幸中の幸いでしょうか」

「けどあの紙粘土はもっとまずかったぞ」

「なんと……」


 まずいと評判の悪魔の実よりも尚まずい携帯食料だとは思わなかった。あの商人、「悪魔の実の方がもっとえげつない味だ」と言っていたくせに、嘘をついたのか。いやでも味覚には個人差があるのだから一方的に断定するのは公平性に欠ける。公平を期して比べるためにはクオンが記憶を取り戻して悪魔の実の味を思い出さなければいけないのだが、そんなことのためにわざわざ記憶を取り戻すのは何だかバカげた話だ。というかそもそもクオンは、記憶を積極的に取り戻すつもりは微塵もなかった。


「まぁ、私の記憶の有無などどうでもいいことです」

「何でよ。クオンにも大切なひとがいたかもしれないのに、いたかどうかすら今のクオンは覚えてないんでしょ?自分が誰なのか、思い出したいとは思わないの?」


 記憶がすべて消えるということは、己のアイデンティティの喪失をも意味する。だからひとは記憶がないことで不安定になりやすく、己の足下が常にぐらついているような錯覚を抱くこともある。しかしクオンは、記憶がない程度で揺らぐような脆く繊細な精神を、残念ながら持ち合わせていないのだった。


「今の私は姫様の執事。それで満足していますし、それ以上もそれ以外も望みません。今の私ではない記憶は不要です。あるかもしれないものよりも、今この手にあるものの方が大事であると、ただそれだけのこと」


 ですから、治療もまた不要ですとクオンはチョッパーに微笑みかける。それは紛れもない拒絶だと医者であるチョッパーは気づいたし、医者でない彼らにも分かった。クオンは本当に、ビビの執事という立場以外を望んでなどいないのだ。


「記憶があってもなくても、クオンクオンだろ。別にいいじゃねぇかそれで」


 なぁ、と何のてらいもなく、真っ直ぐにクオンを見て当然のようにルフィがそう言うから、クオンの口元はにっこりと笑みの形にゆるむのだった。


「まぁ確かに、ルフィの言う通りクオンが何だったとしても変わることなんてひとつもねぇな」


 頬杖をついたゾロがクオンを見て笑う。
 記憶を失くしているということは、即ちクオンの本質が現在であるとも言える。クソまずい携帯食料を平気で食べ、かと思えばきちんと食の好みはあって、すぐに感情が表に出るほど素直な正直者で、僅かにでも情があれば見捨てられないお人好しさがあり、真っ直ぐに向かい合えば同じ心を返す真摯さは隠せるものではなく、あちこちに目移りする浮気者のたちを備えながら、愛情深くひたすらに一途。たまに覗くクオンの不遜と傲慢は不思議なことに欠点ではなく長所と言ってもよかった。
 ひとの本質は、その心根は変わらない。だからクオンがたとえどんなに悪逆非道なことを散々に繰り返しその悪名を世界に轟かせてきた人間だったとしても、クオンの本質を知った今、それがどうしたと一蹴することは息をするように容易なことだ。


「……そうね。クオンクオン、私達にはそれで十分」


 オレンジの髪を揺らしそっと優しく微笑むナミを見て、うんうんと頷くウソップを見て、どうせ記憶失くす前も偏食だったんだろと眉を寄せるサンジを見て。
 やっぱりこの船の者達は「良いもの」だなと、記憶がないながら己を確立している執事は唇をほころばせた。





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