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 ふ、と目を開けたクオンは、耳に入ってくる複数のいびきと嗅ぎ慣れた部屋の匂いにここが男部屋であることを知り、光が射し込まず暗い部屋の中、それでも闇に慣れた目は僅かな影を見分け、すんと鼻を鳴らして薄まりつつある夜の匂いを嗅ぎ取った。

 澄んだ朝の気配がする。夜明けが近い。
 寝起きで頭の芯がぼんやりとするが、それでも体は自動的に動き出す。夜明け近くに目が覚め、じきに朝が来るのなら、薄暗い水平線を見つめ朝焼けを眺めるのがクオンの日課だった。とはいっても、毎日というわけではないが。

 もぞりと身じろいで横向きから仰向けに寝返りを打とうとして、微かな揺れに鈍色の瞳が訝しげに眇められる。どこか不安定な揺らぎに瞬き、自分がいつもの寝床としているソファではない場所─── ハンモックの上だと徐々にはっきりとしていく頭で気づいて僅かに目を見開いた。加えて、全身を覆う厚手のコートをまとうクオンの腰にぐるりと二重に巻きつく腕と、胸元にある少年の頭。目を閉じていびきをかくその顔をぼんやりと見つめ、はて、とクオンは首を傾げた。


「……船長殿?」





† 執事の療養 1 †





 起きてみれば狭いハンモックでルフィと抱き合って寝ていた、などという事態に、クオンは慌てることなく冷静に考え、いやよく分かりませんね、と僅かに首を傾げた。何だこの状況。
 昨夜のことは覚えている。酒が入って理性が弱まり、歯止めが利かないと自覚したままビビに愛を囁いたのだ。クオンは酔っている間のことをしっかりきっちり覚えているタイプである。そして、途中からぷつりと記憶が途切れているから、どうせまた寝落ちしたのだろう。
 宴がお開きになって男部屋に運び込まれた、までは分かるが、それとルフィの腕の中にいる現状がどう繋がるのかは分からない。しかも腕が体に回されているから大変に動きにくい。

 が、まぁ別にいいかと流すことにする。ルフィなら「一緒に寝たかったから」のひと言で終わらされても不思議ではない。違ったとしてもこの同衾に深い意味はないだろう。ウェストコートはしっかり着込まれていて乱れは一切ないし、回る腕もコートの上。健康的な寝顔をさらすルフィの手には性的接触の欠片もない。

 わざわざこんな夜明け前の時分に起こすのは可哀想かと静かに腕をほどこうとすれば、予想に反してぐっと力がこめられて小さく呻く。闇に慣れた目がむにゃむにゃと口元を動かすルフィを見て、ゆっくりと瞼が開いていくのを見た。


「申し訳ございません、起こしてしまいましたか、船長殿」

「……クオン?」

「ええ。まだ夜明け前です。どうぞ気にせずお眠りなさいませ」


 密やかな優しい声がいびきに反響する部屋に溶ける。まどろむ少年の頭を撫でて眠りに促し、ついでに体に回る腕をほどこうとすれば、やはり腕に力がこめられて逆に抱え込まれた。ぼす、と額がルフィの鎖骨に当たる。


「寝ろ、クオン

「いえ、私は…」

「いいから寝ろ」


 まだ朝じゃないんだろ、と寝起き特有の掠れた声で言われ、まぁそうですが、とクオンは冷静に胸中頷く。体格がいいとは言えないルフィの体はあたたかいが、冴えつつある頭をまどろみに誘うほどではなかった。
 ここで無理やり腕をほどいて脱出することは、おそらくは可能だろう。しかしルフィの様子からそれは簡単には許されないだろうし、やろうとしたらそれなりの騒ぎになりかねない。不安定なハンモックの上で暴れる趣味もなければ他の者達の安眠を妨げるつもりもないクオンはひとつため息をつくことで朝焼けを諦める。体から力を抜けば、腰に回るルフィの腕からも力が抜けた。
 ルフィの瞼が力なく落ちる。すぐに健やかな寝息といびきが聞こえて、何でこうなったんでしょうね、と思いながらクオンも静かに瞼を伏せた。
 頭は冴えていたが、目を瞑り闇にひたれば休息を渇望する肉体に睡魔がじわじわと這い寄ってきて、クオンの意識はいつの間にか眠りの淵から下りていた。










「おい起きろクオン!朝だぞ!!」


 元気な声と同時にぺちぺちと頬を叩かれ体を揺らされ、強制的に眠りから引き上げられたクオンは眉間に深いしわを刻み、瞼を開いて輝く笑みを浮かべるルフィを目だけで見た。一度目を覚ましたときには隣で寝ていたが、今は上体を起こしてクオンを覗き込んでいる。周囲も見て判るほどに明るく、どうやらとっくに陽は昇っているようだ。ぱち、ぱち、と数度瞬いて眉間のしわを消したクオンが僅かに首をルフィの方へ向けた。


「……おはようございます、船長殿」

「おう!おはよう!」


 にっかりと満面の笑みが返ってきて、クオンの顔にも苦笑に似た笑みが浮かぶ。寝起きは悪くないが、ここまでハイテンションにはなりきれない。
 もう腰に腕は回っておらず、自由なクオンをひとり置いて朝の挨拶を終えたルフィはひょいとハンモックを飛び降りた。クオンも上体を起こして首をめぐらせ、男部屋に誰もいないことに目を瞬く。他の皆様は?と首を傾げれば、外だぞと返ってきた。サンジが朝飯までもう少しかかるから外で待ってろだってよ、と続けられ、その言葉にはっとしてハンモックを飛び降りる。


「いけません、寝過ごしてしまいました」


 キッチンはサンジの城だが、下拵えや片付け、配膳はクオンも手伝っていた。サンジはひとりで十分だし手伝ってほしいときは都度呼ぶから別にいいと言うが、船のキッチン事情をすべてひとりで預かるコックの負担が僅かでも減らせるならとクオンから申し出たことだ。ぶっちゃけやることなくて暇ですし、とは言わなかった。料理自体はサンジが心から楽しんでいるようなので、そこには頼まれない限りけして手を出していない。

 冬島の海域はまだ抜けていないのだろう、厚手のコートを肩から滑り落とせば寒気が肌にまとわりつく。だがジャケットを羽織れば大して気にならない寒さだ。
 きちんと壁にかけられた燕尾服のジャケットに腕を通し、いつものように被り物をと懐に手を入れてもそこにはスペアすらなく、そういえばビビに取り上げられていたのだと思い出す。何もなく素顔を晒していることに若干の落ち着かなさを頭を軽く掻くことで誤魔化して無意識に左手で首に触れれば、やわらかい包帯の感触がそこにあった。そのことに驚いて指を離し、恐る恐るまた触れて、首に触れても痛みがないことにゆるゆると息を吐く。それがどこか安堵じみていることには、気づかなかった。


「寝過ごした?メシはまだだから寝過ごしてはねぇぞ?」


 身支度を整えるためにぱたぱた動き回るクオンに、腕を組んだルフィが深く首を傾げる。艶やかな雪色の髪に櫛を入れながら「コック殿のお手伝いですよ」と簡潔に答えれば、ルフィはきょとんと目を瞬かせた。


「ナミがクオンには何もさせるなって言ってたから、行っても何もさせてもらえねぇよ」

「……はい?」


 今度はクオンがきょとんと目を瞬く番だった。何を言っているんだろう、彼は。
 何もさせるな?なぜ?サンジを手伝った結果何かしら粗相をしたことなど一度もなかったはずだ。もし何かしていればそのときにサンジは言うし、手伝いに関して不満そうな顔は一度としてしたことがなかったと思う。それにサンジではなくナミが言ったとはどういうことだ。なぜナミがここで出てくる。前に女部屋で紅茶をこぼした失態はしたが、あれは不可抗力だったし、ナミも責めるようなことは一切言わなかった。
 思わず手を止めたクオンが訝しげに眉を寄せると同時、男部屋の外から届く聞き慣れた声がクオンの耳朶を打った。


「メシだ野郎ども───!!!」

「おっ!メシだってよクオン!!早く行こうぜ!!」


 言うが早いか、びょんと伸びてきたルフィの腕が再びクオンの腰にぐるりと回る。二重に巻きついたそれは容易く外すことができないほどがっちりと掴み、「え、は、な?」と混乱するクオンは引きずられるようにしてルフィと共に男部屋を出た。
 待望の食事の時間だというのに、いつもなら一目散で真っ先に飛び出していくルフィに引きずられるまま男部屋から出てきたクオンに前方甲板にいたらしいウソップが階段を下りながら「おー、起きたかクオン、おはよう」とのんびりとした声をかけてきて、「おはよう…ございます…」と呆然と挨拶を返す。ラウンジへ続く階段を登っていれば後部甲板から朝のトレーニングをしていたらしいゾロが現れ、つい普通に「おはようございます」と挨拶をすれば、「ああ、おはよう」とルフィに半ば抱えられるようにして歩くクオンにツッコミのひとつもなく平然とした顔で返された。ゾロの肩の上にいたハリーが元気よく鳴いて、ハリーにも挨拶をしたクオンの顔にはなんだこの状況、とでかでかと書いてあるが、それを読み取って説明をしてくれる人物はこの場にはいない。いや本当になんだこの状況。


「サンジ───!!メシ!!!」


 ラウンジに飛び込んだルフィは言いながらクオンをイスに座らせてその隣に座り、そこでようやく腕が離れた。瞬間立ち上がろうとしたクオンの肩をゾロが掴んで再びイスに沈み、ルフィとは反対側にゾロが座ってクオンは2人に挟まれる形になる。ぱっとゾロの方を振り返ると、ゾロは淡々と「座ってろ」と言うだけで、けれど肩から離れた手はクオンが僅かに尻を浮かせた瞬間にまた伸びるのだろうと思われた。


「おはよう、クオン

「……おはようございます、姫様。いったいこれは…」

「あ、起きたのねクオン。おはよう」

クオン!調子はどうだ?具合は悪くないか?本当は怪我してるときに酒はよくないんだから次は控えるんだぞ」

「航海士殿、船医殿、おはようございます…」


 口々に挨拶はしてくれるがルフィとゾロに挟まれて立ち上がることすら許されず、何一つ説明してくれない彼らにさすがにクオンの目が不審に細められる。いったい私が何をしたというのか、という胡乱な表情を隠しもしないクオンに向かいに座るビビが苦笑して隣に座るナミに顔を向け、ちゃんとあとで説明してあげるわよとナミは笑ってみせる。
 いつもならクオンが手伝う配膳はウソップが行い、クオンの前には特製の朝食プレート(小)が置かれて、全員が席について朝食が始まった。とはいえ、待ちきれないルフィはとっくに手を伸ばして口の中に詰め込んでいたが。
 手伝いを終えたウソップが慌ててフォークを手に取ってチョッパーに食われる前に食え、いいかこれは戦いだと真面目な顔で言い、ゾロは皿に伸びてきたルフィの腕を見ることなく弾く。ちなみにクオンの皿には伸びてこない。クオンから掠め取ればビビの激昂とナミの拳とサンジの踵とゾロの鞘が同時に飛んでくると初日で学んだからだ。


「─── それで、いったいどういうことなのです?」


 賑やかな朝食を終え、小さなカップに淹れられた食後のコーヒーをひと口啜ったクオンが静かに問う。ミルクと砂糖が入れられたコーヒーは茶色の水面を僅かに揺らし、訝しげなクオンの横顔を映すことはない。朝食後に皿洗いを手伝おうと無意識に立ち上がりかければ腰に回った腕と肩を押さえる武骨な手に押さえられ、何の説明もないまま動きを制限されれば思うところはある。
 しかし、冴えた頭と短くはない時間があれば、察するものはあった。ルフィが言っていたではないか、「ナミがクオンには何もさせるなって言ってた」と。ナミがクオンの動きを制限する、その理由。どうせ何もさせてはくれないのだろうと早々に諦めたクオンが脳みそを回転させて導き出した答え、というか心当たりは、ひとつだけあった。つまりは、クオンの問いは形だけのもので実質答え合わせだ。
 クオンの視線を真っ直ぐに受け、ナミはにんまりと笑ってみせる。


「だってクオン、罰、欲しいんでしょう?」


 クオンは苦く笑った。その言い方は何だか語弊がある気がする。いや、何も間違ってはいないのだが。


「『何もしないこと』が、罰ですか?」

「そうよ。正確には、『怪我が完治するまで何もしないこと』。サンジ君の手伝いも他の雑用も、もちろん不寝番や戦闘なんてもってのほかよ」


 ナミは笑って言うが、その目はまったく笑っていない上に苛烈に燃えている。どうやらクオンの無茶が余程腹に据えかねているらしい。時間を置いて冷めるかと思えば、冷静になった分よりいっそう燃え上がってしまったようだ。
 その怒りは、即ちクオンをそれだけ大事に思ってくれているのだということくらいは、分かる。そこまで鈍くはないし気づかないふりをするほど無粋でもなかった。だからこそクオンは苦く笑うに留めて反論はせず、肩をすくめて了承の意を示す。が、続いた言葉にはさすがに顔色を変えた。


「言っとくけど、ビビのお世話もダメだからね」

「はい?お待ちください航海士殿、姫様のお世話にはひとつひとつ誠心誠意、心をたっぷりこめさせていただいていますが、大した負担ではありません。姫様の髪をくしけずり、結い上げ、肌のケアをし、時にマッサージを、爪を整えて色を塗ることくらいは許されるでしょう…!おはようからおやすみまで見守り、姫様に渾身の一杯を注いで嬉しそうな顔を見るのが私の癒やしなのに!」

「あんた本当にビビが好きね!昨日ので存分に分かったけど!!でもダメ!!」


 昨夜の酔っ払っている間のことをきちんと覚えているからこそビビへの想いを隠さなくなったクオンの必死な叫びをナミはすげなく切り捨て、ガーン!と目に見えてショックを受けるクオンにため息をつく。しかしそれで諦めるクオンではなく、それでは、と声を震わせて両の拳を握り締めた。


「それでは、姫様のお世話は私以外の誰がするというのですか!!許しませんよそんなこと!!!」

「自分の世話は自分でさせなさい!!!」





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