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 ─── それは、6年も前の記憶だ。
 ワポルの護衛として足を踏み入れた“世界会議レヴェリー”の開催地。そこでドルトンは、ひとりの幼くも気高い少女に心を揺さぶられ、己の王に対する忠誠に小さなひびが入った。
 突然の理不尽な暴力を受けても、国を想い、そこに生きる人を想い人前では決して涙を流さず笑顔を保った少女の泣き声を建物の陰から聞いて拳を握り締めていた男に、唐突にかかった声があった。


「あれ、いらないだろう」


 はっとして振り返る。誰もいなかったはずのそこにいたのは、白いマントを羽織り白い帽子を目深に被った、己の半分ほどの身長しかない子供だった。子供だというのにまとう空気はひどく張り詰め、けれど帽子の陰から覗く瞳はあまりに静かで透明だ。子供特有の高い声は抑揚がなく、事務的にかけられた低いトーンでの問いかけは冷徹さを帯びていた。
 ドルトンはその子供を知っていた。そのマントと帽子が何を意味しているのかも知っていた。己が答えたひと言で何がどうなるのかも、そのとき瞬時に理解してしまった。呼吸を忘れるほどの重い空気に全身を強張らせ、ごくりと喉を鳴らして、そして。


「あなたは手を出さないでください。あれでも我々の王であり、……まだ、余地は、あるはずなんだ」


 絞り出した声は震え、白々しくその場に響く。思ってもいないことをと凪いだ瞳がなじっていたが、子供は何も言わず、ため息ひとつなく白いマントを翻してドルトンに背を向けた。その背にある文字が大きく揺れる。
 建物の角を曲がって消えていった「それ」との会話は、たったのそれだけ。けれど無造作に投げられた厳かなひと言はドルトンの脳裏に深く刻まれ、強く強く胸に突き刺さった。





† ドラム島 18 †





 咲き誇る“桜”を背に、涙を拭ったトナカイは雪道をひた走る。世界を見るために。海へ出るために。
 7人と1匹も乗せているソリだが、それでも速い。満月が浮かぶ夜空に咲く“桜”がゆっくりと花を散らしていくさまを眺めていたクオンは、ふいに肩をぐっと掴まれて振り向く。そこにはにっこりと綺麗に笑うナミがいた。つられてそっと微笑む。


クオン、説明してくれるわよね?」


 しかし笑顔のまま絶対零度の詰問を受け、ぴしりと固まったクオンにナミが目を据わらせてずいと顔を寄せる。笑っているのに目が一切笑っていない。ゆらゆらとナミの体から湧き出る怒りのオーラが見えた気がしてぴっと緊張に背筋が伸びた。


「いつから首に傷なんてこさえて、どんだけ無理してたのか!……ちゃんと話してもらうわよ!!」


 笑顔から一転、くわっと牙を剥いて般若の形相になるナミにひぇっと情けない小さな悲鳴がクオンの口から漏れる。慌てて距離を取ろうにも、がっちりと肩を掴まれているため逃げられない。そもそも動くソリの上、逃げる場所などどこにもないのだが。


「べ、別に、そこまで気にするほどのものではありません。確かに多少は無茶をしましたが、きちんと自分の限界を見極めた上での行動です。航海士殿さえ元気になれば後は任せて体を休めるつもりでしたし、その間に首の傷も……」

「それで済むんだったらあそこまでドクトリーヌは怒り狂わないでしょーが!!」


 ごもっとも、とクオンは言葉を詰まらせる。健康的とは言い難い青白い秀麗な顔が引き攣り、鈍色の瞳が逃げ道を探すようにうろつく。ビビが被り物を取り上げているから晒されている表情は、痛い点を突かれて言葉を失くすクオンの心情を如実に表していた。やばい怒られる、とその顔が語る。自覚はあったらしいことがさらに腹が立つナミだった。
 肩から手を離してクオンの頬を両手で掴む。なめらかでつるつるでもちもち、毛穴などひとつもない光り輝く美しい顔の触り心地は最高だが、今はそれを堪能している場合ではない。


「そんな無茶をしてほしくて私はあんたと約束したわけじゃないのよ!?」


 クオンの容態を分かっていたなら、そこまで無茶をするのだと知っていたら、ナミはおそらくクオンに頼らず素直に倒れていただろう。というかこの執事、ドクトリーヌにバレて強制治療されなかったらちゃんと体を休めたかも怪しい。否、ビビの世話だったり雑用だったり何だりで絶対に動き回っていたと確信する。
 己の推測に目を吊り上げるナミを見てぴゃっと肩を跳ねさせたクオンは慌ててナミの手を引きはがし、素早く視線を走らせると狭いソリの中、我関せずの傍観に徹していたゾロを認めた瞬間その背に逃げ込んだ。ぐいぐいと広くあたたかい背を押してナミの方へ押しやり、自分はゾロとソリの壁の間に滑り込んで身を縮こませる。完全なる敵前逃亡だった。


「おいクオン


 何しやがる、と低い声が降るが、ゾロの背に凭れてナミの方を見ないよう必死なクオンは取り合わない。だって今のナミはとても怖いのだ。逃げるが勝ち、三十六計逃げるに如かず、戦略的撤退である。


「おれを巻き込むな」

「だってあなたのせいじゃないですか。剣士殿が私を抑えなかったら麻酔弾を受けることもなかったですしバレもしなかった」

「いや普通にてめぇのせいだろ」


 ごもっとも。クオンは言葉を詰まらせ、あまりに正論すぎるひと言に顔を歪めた。反論のしようがなく、100%自分が悪い。癒えない傷を黙っていたのも平気な顔で無茶をしたのも、完全なる自業自得なのである。
 だからといってそれを認めるのも何だか癪で、むぅと唇をとがらせるクオンを背に怒り狂うナミと向き合うゾロはくつくつと愉快げに喉を鳴らして肩を震わせる。ざまァねぇな、と笑われて無言で後頭部をゾロの背中にごすんとぶつけたクオンの珍しい八つ当たりに、肩の揺れが大きくなった。


「ちょっとゾロ、そこどきなさい。この際だからクオンの隠し事全部吐かせてやるんだから!」

「一部は開示しても構いませんが、それ以外はまだ早いのでできかねます。無理やり暴こうなどと、まったく航海士殿はえっちですね」

「えっちって言うクオンがえっちだわ」

「真顔で何を言っているんです?」


 ゾロの背中に隠れてビビの表情は見えないはずだが、正確に言い当てたクオンは深いため息をつく。真っ白い息が吐き出されて、すぐに溶けて消える。
 そろそろ落ち着かないから被り物を返してほしいですねと思いながらも、ビビの様子がいつもと違うことに気づいているクオンはそれが叶わないと悟ってもいた。クオンの素顔を見たがるくせにクオンの素顔を隠したがるビビは愛嬌があるようで妙に間の抜けた被り物をしっかりと抱えて離さない。
 そういえばハリーはと己の相棒を捜すも定位置の右肩にはおらず、小さな聞き慣れた鳴き声を聞きとめて顔を上げ、ゾロの頭に寝そべってこちらを見下ろしているハリーと目が合った。おや、珍しい。ルフィに引き続き、ゾロにも懐くなど。でもまぁ気持ちは分かるので指を伸ばしてハリーの顎を撫でて優しく目を細める。
 背中から伝わるぬくもりがひどくあたたかい。基礎体温が高いのだろうか、このままでは寝そうだ。重みを増していく瞼を半分下ろし、けれどどうせもうじき船に着くのだから起きていた方がいいかと気合いで開けた。

 クオンは出てこないしゾロもどく気がないと分かって肩を怒らせながらもソリの上で暴れるのはまずいと冷静に判断したナミがとりあえず拳を引っ込め、けれど低く吐き出された地を這うような声はきちんとクオンの耳に届けられる。


「あとで覚えてなさいよ、クオン


 まるで悪役の台詞だとクオンは思い、海賊は悪役だった、とすぐに思い直して小さく笑った。










 バタバタドタドタ、逃げるようにして出航したドラム島も既に遠く、満月が照らす海の上を悠々と泳ぐメリー号の甲板にて、どんちゃん騒ぎの宴が開かれていた。
 急拵えではあるがサンジが料理とつまみを作り、酒を引っ張り出して始まったクルー歓迎の宴会はルフィを中心に盛り上がっている。
 鼻に箸を突っ込んで口と繋ぎ、間抜けな顔で踊り騒ぐルフィに周りの男どもはやんややんやと手を叩き大口を開けて笑う。ハリーもきゅいきゅい鳴きながら己の針をお手玉のように何本もくるくると宙に放り投げてはキャッチし放り投げ、空中に針の輪を作るとそれをくぐってみせるなどの芸を見せては場を沸かせ、月が出てるし桜が咲いた、とウソップが満面の笑顔で囃し立てていた。

 その様子を、サンジに押し付けられた皿にのった食事をもそもそとつまみながらクオンが穏やかな笑みを浮かべて眺める。皆が皆、楽しそうで何よりだ。
 しかし主役であるはずのチョッパーは船の手すりに腰かけ、ぼんやりと海を眺めて物思いに耽っている。そんなチョッパーを気遣って声をかけずにいたが、酒も入ってできあがった男達に繊細な気遣いなどできるはずもなく、テンション高くウソップがチョッパーに声をかけ、こっち来て飲めと誘う。


クオン、お前も飲もうぜ!」

「おわ」


 唐突に左側から首に腕が回り、いつになく陽気なゾロに引きずられるようにして輪に組み込まれる。慌てて食事がこぼれないように皿を抱えて隣に腰を落ち着ければ、ずいと空のジョッキを押しつけられた。皿を片手に反射で受け取り、何を言う間もなくなみなみと酒が注がれていく。一応こちらは怪我人なんですが、と包帯を首に巻いたクオンがぽつりと思うが、この様子では何を言っても無駄だろう。


「いや、しかしいい夜桜だったぜ。まさかこんな雪国で見れちまうとはな!」

「ああ、こんなときに飲まねぇのは嘘だな!」


 顔を合わせれば基本口喧嘩をしていたサンジとゾロだが、どうやら今はどちらも機嫌が良いようでゾロがサンジのジョッキに酒を注いでやっている。やっぱり仲良しですねぇと内心呟いたクオンが持っていた皿を床に置けば、それを待っていたようにクオンのジョッキに2人のジョッキがぶつかる。そうして一気に呷る2人を見て、ちらと自分のジョッキを見下ろしたクオンは数秒考え、まあいいかと口をつけた。
 ぐっと喉を開いて酒を胃に流し込み、いい飲みっぷりだとゾロがまた機嫌良く笑う。こんなに笑うひとでしたっけ、と横目に見たクオンは小さく首を傾げたが、笑っている顔を見て悪い気がするはずもないのでそういうひとなのだと思うことにする。酒の味は嫌いではないが特別好きでもなく、だが盛り上がる彼らを肴に味わうのは気分が上向く。


「ちょっとあんたら!!少しはこっちの心配もしたらどうなの!?」


 騒ぐ男どもに、航海士の鋭い非難が飛ぶ。こっち、と指差されたのはぐったりと毛布にくるまって凍えているカルーだ。先程までかちんこちんに凍っていたのだが、クオン火針ひばりの石による解凍とビビが抱きしめてぬくもりを与え続けていた甲斐あって小さく鳴く元気は出ている。
 ようやく口が利けるようになったカルーに「あなたどうして川で凍ってたりしたの!?」と涙を流すビビが問うた通り、カルーはメリー号を泊めた場所のすぐ近くの川で凍りついているところを発見されたのだった。つい先程までクオンもカルーの傍にいたのだが、ゾロに引っ張りこまれての現状である。
 そして宴騒ぎの中心にいたルフィは「なんだ、生きてたからいいじゃねぇか」と割とドライだ。


「クエクエクエ~~~クエクエ…グエ」

「足でも滑らせたんだろ?ドジな奴だなはははは」

「黙ってMr.ブシドー!!あとクオン返して!!!」


 何やら必死に訴えるカルーをゾロが笑い飛ばし、それにビビがくわりと吼えて、クオンはじとりと半眼でゾロの横顔を見た。確かカルーはゾロと一緒にいたはずで、カルーが何の理由もなく川に飛び込むはずがないし、足を滑らせるような真似もしないだろう。ということは、この男に原因の一端があるはずだ。


「ゾロって奴が川で泳いでていなくなったから、大変だと思って川へ飛び込んだら凍っちゃったって」

「あんたのせいじゃないのよ!!」


 チョッパーがカルーの言葉を通訳し、カルーが凍った原因であるゾロにナミの重い拳が降り降ろされる。ゴンッ!と痛い音がしてクオンはそっと身を引いた。あの拳が自分に落とされなくてよかったと心底思う。
 しかし、はて。クオンはジョッキの酒をひと口嚥下してチョッパーの方を振り向いた。同じようにビビもまたチョッパーを見て口を開く。


「トニー君、あなたカルーの言葉が分かるの?」

「おれは元々動物だから動物とは話せるんだ」

「すごいわチョッパー!医術に加えてそんな能力ちからもあるなんて!」


 手すりから下りて当然のように言うチョッパーをナミが手放しに褒める。確かに、動物と話せる医者というのは貴重だ。良い仲間を得たものですねとクオンはそっと微笑んだ。
 チョッパーは偽りのない称賛を受けて目を見開き、「バ…バカヤローそんなの褒められても嬉しくねぇよ!!コノヤローが!」と妙な踊りを披露しながら言うが、目許はゆるみきっているし、口元の笑みも隠しきれていない。チョッパーの変な照れ隠しに嬉しそうだなー、とルフィとウソップが声を揃えた通り、どう見たって心の底から嬉しそうだ。
 ふふ、と笑みをこぼしたクオンは空になったジョッキを離して酒に濡れた唇を拭った。





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