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 びゅうと凍える風が頬を打ちつけ、その冷たさに小さく呻いたクオンはぱちりと目を開けた。脇に抱えるようにして腰に回った男の腕一本に支えられた肢体は宙に浮き、奇妙な浮遊感と共に視界の端で両手両足が力なく揺れている。耳の横を風が切る音がして、眼下の針葉樹の森が瞬く間に後ろへと流れていった。鈍い頭でゆるりと眼球を動かすと小舟のようなものが見えて、そこから伸びる紐が、前を行くトナカイへと繋がっている。ああ、ソリですか。ゆっくりと瞬きをして理解した。


「ゾロ!あんたクオン落としたらただじゃおかないからね!!」

「誰が落とすか!!」


 視界の外でナミが叫び、即座にゾロが返して腰に回った腕にぐっと力がさらにこもる。内臓が圧迫されて少しだけ苦しい。
 さて、何がどうなって今の状況なのか。どうやら猛烈な速度で駆けるソリに全員が乗り、余程慌てていたのかクオンはソリの中ではなくゾロの腕に支えられて宙に浮いている。
 首をもたげて顔を上げたクオンはそこで、冴え冴えとした光を地上へ降り注ぐ、巨大な満月を見た。雪が舞い散る中、万人に分け隔てなく光を届ける美しい月に感嘆の息を吐き、ぺしぺしと自分を支える腕を叩く。


「剣士殿剣士殿、見てください、月が綺麗ですよ」


 腕の支えがなければ宙に放り出されて死ぬ、あるいは大怪我は免れない状況だというのに、月光に照らされほのかに光り輝く雪色の髪を揺らして白皙の美貌をゆるめ、クオンはのんびりと微笑んだ。





† ドラム島 17 †





 ぐっと腕に力がこもり、月を見上げて空中を風を切って泳いでいたクオンは強く引き寄せられてソリに押し込められた。広くもないソリの中、7人も入ればみっしりとして隙間がなく体の一部は当然誰かに当たる。ビビの体をクッションにしたお陰で倒れ込むことはなく、小さく謝罪を落として上体を起こした。器用にソリのふちに腰かけてバランスを取るゾロには支えてくれていた礼を言う。


クオン、よかった!目を覚ましたのね!」

「ええ、ご心配おかけしました、姫様。……ところで、これはいったいどういう状況なのです?」


 いまだに思惟は軋むように鈍いが、現状を把握しようと回転を始める。先程までと違い寝ぼけているわけでもなくふわふわともせずしゃっきりとした目でソリの中を見回すクオンに、「なんでかチョッパーがドクトリーヌに追われて、慌てて山を下りたのよ」とナミが教えた。成程、どうやら寝落ちしていた間に大変なことが起こったらしい。
 数度目を覚ましたときはあまりに意識がおぼつかなかったため記憶が曖昧なところはあるが、今はそうでもない。筋弛緩剤か鎮静剤の効果が薄れたのだろう。クオンは顔に吹きつける風の冷たさに肩をすくめて厚手のコートに顔をうずめた。さっきまであたたかかったのに、今は随分と寒い。風が強いからだろうか。


クオン、寒いの?顔色が悪いわ」

「あらホント。ほら、もうちょっとこっちに寄りなさい」


 寒さに耐性があるはずのクオンが身を震わせる様子に目聡く気づいたビビがぴたりとクオンにくっつき、同じくクオンの顔を見たナミがビビとは反対側からクオンにくっつく。クオンを挟んでぴったりと寄り添う美女2人に、サンジが見たら発狂ものだが、ラブコックは現在夢の中なので羨ましいと歯噛みすることはなかった。
 ビビとナミの体温が厚手のコート越しに伝わり、ほうと息を吐いたクオンの呼吸が白く染まる。首元にはハリーが巻きつくようにしてぺたりとはりつき、その小さなぬくもりに頬がゆるんだ。

 そうしているうちにソリは地上に着き、大木の根本─── かつてのドクトリーヌの家の周りに集まる住民達を置いてそのまま勢いを殺すことなく駆けていく。雪を巻き上げて走るソリの後ろには雪煙が立ち、すぐに彼らは遠く見えなくなった。


「うは───!!いい~~~気持ちだったぁ!!おい!!もっかいやってくれ!!」

「バカっ!!出航するのよもう!!」


 楽しそうに騒ぐルフィに、すぐさまナミの叱責が飛ぶ。死ぬかと思った、とウソップが青い顔で言い、ほぼ同時に「っぬお!!!」と声を上げてサンジが目を覚ました。


「ん!?ここはどこだ!?」

「あ、サンジさん気がついた?」

「ビビちゃ……いやなに超羨ましいことになってんだ執事野郎てめぇ!!!」


 目を覚ましたサンジがビビとナミに挟まれているクオンに気づいて嫉妬の炎で目を燃やす。羨ましい、すごく羨ましい、超羨ましい、そこ代われとその顔がうるさく自己主張している。だが狭いソリの中、クオンに掴みかかることはできないようでぎりぎりと歯が軋むほど噛み締めている。本当はクオンの首に包帯が巻かれているからそれに気遣って、ということに気づいたのはクオン以外の全員だ。まったく優しいコックである。

 雪道を駆けるソリの上、クオンはふとたった今駆け下りてきた山の頂上を見上げた。新たにルフィの仲間となるチョッパーはドクトリーヌに追い立てられるようにして飛び出してきたという。なぜそんなことになったのだろう。あの腕が確かな医者は乱暴で口も態度も悪いが、情は深くあつい。共に過ごしてきた彼に情がないはずはないのだ。
 海賊として海に出るのが反対だったのか。心配だからと反対するようなひとではないと思うが、果たして。


「……そういえば、私の被り物は」

「あ、それなら私が預かってるわ。ジャケットごとちゃんと持ってきてるから」


 ぽつり、こぼれたひとり言にビビから言葉が返る。それならよかった、と唇をゆるませて礼を言ったクオンが早速受け取ろうとビビに向けて手を伸ばした、そのときだ。


 ドゥン!! ドドドゥン!! ドドゥン!! ドン!!!


 唐突に重く低い音が連続して闇夜に響き、一同ははっとして顔を上げた。満月に照らされた空は明るいが、それでも昼間といえるほどではなく、何が起こっているのが判然としない。するとまた同じように音が響き、それが山の頂上にある城から鳴り響く砲撃音だと気づいて顔を強張らせたチョッパーが足を止めて振り返った。四足歩行のトナカイ姿から二足歩行の小さな体へと変えてピンク色の帽子を揺らしたチョッパーが慌ててソリの後ろへと回って山の頂上を見上げる。

 砲撃音はすぐに止んだ。微かに空気を震わせる余韻の中、ふいに頂上が光を放つ。それは閃光と呼ぶには鈍い、しかし夜空に浮かぶ満月よりも強いものだった。
 なんだなんだとソリに乗っていた一同がライトアップされた山の頂上を見上げ、どうやら攻撃の類ではないようだと察して何人かがソリを降りる。クオンはソリの床に手をついて立ち上がり、ゆっくりとソリの後方、ルフィが胡坐をかく右横に立った。逆隣にはソリの外にゾロが立っており、ちらと視線を向けられる。だが何も言わずにゾロは空に視線を戻し、クオンもまた、ライトアップされて浮かび上がったその光景に瞬くことも忘れて見入っていた。


 ─── ちらりちらりと、薄紅が舞う。


 風に吹かれて流れる色付いた雪は、まるで花弁のようにひゅるりくるりと踊っていた。山の頂上は鮮やかな薄紅に覆われ、断崖の山は木の幹にも見える。その姿はまるで、満開の花を咲かせる一本の大樹のよう。幻想的なピンク色の花弁が舞い踊るさまは、言葉にできないほどに美しい。ああ、あの花の名は、何というのだろう。


「あれは…」

「桜だ」


 呆然としたクオンの呟きに、ゾロの低く落ち着いた、けれど抑えようのない感嘆がにじむ声が美しい花の名を紡ぐ。さくら、とクオンはその名を繰り返した。あまりに幻想的で、しかして力強く、見るものを圧倒させる。


「ウオオオオオオオオオオオ!!ウオオオオオオオオオオ!!!!」


 夜空に咲き誇る“桜”を見て、チョッパーが大きく吼えた。天高く、歓喜の声が白い雪を縫って伸び、薄紅色の花弁に触れて、さらに高く。誰かを想うように。誰かを偲ぶように。─── ああ。


(これは、彼女の、彼に対する、愛だ)


 クオンは鈍色の瞳を揺らした。チョッパーとドクトリーヌがどんな関係なのか、詳しくは知らない。けれどこの“桜”を、彼女が今咲かせたことに意図があることくらいは判る。喉を震わせ、吼え立てながら涙を流すチョッパーにとって深い意味がある、この“桜”は。
 この島を飛び出して海に旅立つ男へ、そして愛するただひとりの我が子への─── はなむけだ。


「ウオオオオオオオオオオオ!!ウオオオオオオオオオオ!!!!」


 クオンは“桜”を見上げ、耳を澄ませた。しんしんと降りしきる雪に溶ける声を聴く。夜空を舞い散る薄紅の花弁が届ける声を聴く。母の愛を、そしてそれ以外の何かを胸に吼え立て涙する息子の声を聴く。
 どこか遠くで。我が子の背中を強く押した母の声が、聴こえた気がした。


 ─── 行っといで バカ息子…


 ああ、とクオンは思う。唇はほころび、あまりに優しく鈍色にびいろをとかして、甘やかにクオンは笑う。
 この国は、きっと素晴らしい国になる。「良いもの」である王と、「良いもの」に決まっている偉大な愛にあふれた医者がいるのだから。そして、きっとのちに語り継がれるだろう、まだ名もなき国に自由を告げる“桜”を、この目で見ることができた。それがこんなにも嬉しい。

 健勝であれ。したたかであれ。誇り高く、その胸にこの“桜”を咲かせ続けてれ。
 この雪深き国に埋もれるほどの幸福があらんことを。この私が、お前達を言祝ことほごう。

 ゆらり、その瞳に差した色は─── 薄紅色の花弁に覆われて、誰の目にもとまることはなかった。





†   †   †






 “桜”の花弁がすべて舞い散り、白い雪が降り注ぐ月夜の下、天高く聳える山の頂上にドクトリーヌと共に座り込んで遠く海の彼方を見つめていたドルトンはふと、あのアラバスタの王女と共にいた真っ白執事のことを思い浮かべた。


「そういえば……あのクオンとかいう執事ですが」

「ああ。カオナシの一族だろう。1年前に滅んだと風の噂で聞いていたが、まさか生き残りがいたとはね」

「……カオナシ?」


 聞き覚えのない単語に、何の話ですと顔に書いて首を傾げれば、ドルトンの方を見たドクトリーヌもまた訝しげに眉を寄せる。


「知らないのかい?あの妙な被り物はカオナシの一族の特徴だよ。あの一族は全員顔を隠して過ごす傭兵集団。彼らにのみ伝わる秘伝の薬も持っていたから間違いない」


 ナミとかいう小娘に手紙と共に預けられていた執事の手持ち薬は、他では見ないほど成分と調剤方法が異質なものだった。数十年も前に偶然カオナシと縁を持つことがなければ、ドクトリーヌはいまだ存在すら知らなかっただろう。それを持っているということはカオナシと深い縁を持つ人間の証左に他ならない。加えてあの奇妙な被り物だ。滅んだと聞き及んだ一族の生き残りだと思うのも当然だった。

 しかし、唇を歪めて眉を寄せたドルトンは下を向き、じっと白い雪を見つめて不可解げな顔をする。
 雪の色と同じ髪を揺らした、この世のものとは思えないほどに美しい、あの執事。傭兵集団カオナシの一族?……違う。あの執事は、あの方・・・は───。


「Dr.くれは、あの方の素顔は見ましたか」

「当然だよ。随分と綺麗な顔をしていたね……雪色の髪に、人外じみた美しい顔…………いや、待ちな。そんなはずは」

「私は、そう・・だと思います」

「バカ言ってんじゃないよ!瞳の色が・・・・違う・・だろう!」

「……なぜ違うのかは私には分かりません。ですが、あれは間違いなく」


 顔を上げ、海の彼方を見晴るかしながらドルトンは目を細めた。
 海賊船に乗ってやってきた、白い燕尾服をたなびかせていた執事。しかしドルトンの脳裏に翻るのは、その痩躯に似合わぬほどに大きな白いマントだ。

 覚えている。忘れたことなどない。当時、美しいその顔は帽子の陰に隠されていたから執事と繋げることはできなかったが、あの時─── 6年前、各国の王達が一堂に会する地にて出会った「それ」から、無造作に投げられた厳かなたったひと言だけは忘れられず強く胸に刺さっていた。
 そして、今日。


「私はあの方に、新しい国の王にと指名を受けました」

「なんだって? …それは…ドルトン、もし本当にあの執事があれ・・なのだとしたら、あんたは」


 ほのかな微笑みすら浮かべるドルトンと対照的に、ドクトリーヌは苦く顔を歪めた。そうだろうとも、自分以外の者が指名され、それに頷いたと誇らしげに言われたとしたらドルトンもきっと同じ顔をした。だが指名を受けたのはドルトン自身であり、その言葉の重みを重々理解していながら、頷こうとしている。深くこうべを垂れて、許された王冠を戴こうとしているのだ。


「光栄なことです。他の誰でもない、あの方に、この国は言祝がれたのですから」


 胸を張り、真っ直ぐに背筋を伸ばして国を背負う覚悟を決めて笑う男をドクトリーヌは無言で眺めやり、暫しの沈黙のあと深いため息をついた。吐き出された呼気が白く染まり、夜空に溶けて消える。


「仕方がないね、付き合ってあげるよ」


 ゆるりと唇をゆるめてそう呟いた彼女もまた、雪に溶ける言祝ぎの声を確かに聞いたのだ。





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