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「おーいトナカイ~~~!!一緒に海賊やろう───っ!!!」


 聞き慣れたルフィの声に落ちていた意識を引き上げられ、ふと目を開けたクオンは僅かに首を持ち上げた。どうやらいつの間にか寝落ちていたらしい。
 船長殿、と呟いたつもりの声は言葉にならずもにょもにょとしたものになり、やっと大人しく眠ってくれたと思ったらルフィの声を聞いてすぐに目を覚ましてしまったクオンに気づいたゾロが白いため息をついた。





† ドラム島 16 †





 てめぇ寝てろっつったろ、と低く咎める響きが発されたが、己が定めた「良いもの」を捜してまどろみに揺れる瞳をさまよわせるクオンの耳を素通りしていく。働かない思考でも、まだ自分が城の中にいて、けれどいっそう冷え込む空気と城内に入り込んでくる風の流れに外が近いことが分かった。刺すような冷気に首をすくめてぺたりとあたたかい背中に貼りつけばルフィの声がまた聞こえて、そっと首を伸ばす。


「おい動くな、落とすぞ」

「せんちょうどの」

「ルフィならすぐそこにいんだろ」

「せんちょうどの」

「どうせ海賊になんてなりたくねぇあいつをしつこく誘ってんだ」

「せんちょうどの」

「あァクソ、揺れても文句言うなよ!」


 怒鳴るように言うが早いか、大股で歩き出したゾロの背中が少しだけ大きく揺れる。それに、随分と気を遣って歩いてくれていたようだと鈍い頭で悟るクオンを背負ったゾロは、少し前をサンジを引きずりながら歩いていたナミとビビを追い越して城の外へと出た。ざくざくと雪を踏み鳴らすゾロに気づいたウソップが「ゾロ…と、クオン。っておいクオン起きてるのかその顔」と2人に気づいて目を瞬かせ、普段と違いぽやぽやうとうとくったりしている様子のクオンに目を眇める。


「あ、トナカイ!!!」


 先程よりはっきりとルフィの声が聞こえて、足を止めたゾロに背負われながらクオンは重い瞼を押し開けて緩慢に視線をめぐらせた。
 ルフィはすぐに視界に入った。そして、離れたところに立つピンク色の帽子を被った、二本の足で立つ青鼻のトナカイに目を輝かせた様子のルフィが両手を上げて喜色の声を上げる。


「おいお前、一緒に海賊やろう!!」


 ルフィの全力の誘いに、しかしトナカイの顔は暗い。無理だよ、と明らかな拒絶をにじませたトナカイの返事に、「無理じゃねぇさ!!楽しいのに!!!」とルフィが拳をつくって力説する。理論のりの字もない説得をするルフィに意味分かんねぇから、とウソップが呆れてツッコんだ。クオンは静かに、ゾロの背中に頬をつけて眺める。


「おれは…お前達に…感謝してるんだ」


 トナカイはルフィから目を逸らして俯き、ぽつぽつと言葉を落とす。ゾロに遅れてサンジを引きずり城門をくぐって出てきたナミとビビがトナカイに気づき、ナミがトナカイの名前を呼ぶ。チョッパーというらしい小さなトナカイは、ぐっと息を吸うと僅かに顔を上げ、それでもルフィと目を合わせないまま俯いて叫ぶ。


「だっておれは……トナカイだ!!!角だって…蹄だってあるし…!!青っ鼻だし……!!!そりゃ…海賊にはなりたいけどさ…!!おれは“人間”の仲間でもないんだぞ!!バケモノだし…!おれなんかお前らの仲間にはなれねぇよ!!!」


 無理だと叫ぶトナカイは、けれどひと言も「嫌だ」とは言わなかった。海賊にはなりたいと言い、きっと海にも出てみたいのだ。けれどただ一点、己は人間の仲間ではない、だから行けないと言う。だからお礼を言いにきたんだ、と勢いのまま叫ぶトナカイの声は、なんだか泣きたいのを必死に我慢する子供のようにも聞こえた。勝手に聞き分けがいい子供を演じた、伸ばした手を忌避の目で振り払われるのを恐れる、意地っ張りで臆病な、小さな子供。


「誘ってくれて、ありがとう…おれはここに残るけど、いつかまたさ…気が向いたらここへ」

「うるせぇ!!!いこう!!!!」


 トナカイの言葉を遮り、または切り捨ててルフィは叫ぶ。気遣うでもなく、いたわるでもなく、同情もなく、遠慮もなく、己の心のままに、バケモノと呼ばれたお前といきたいから、いこうと言う。
 クオンは唇に笑みを描いた。鈍色の瞳がやわらかくほころび、優しくあたたかな微笑みが白い吐息に彩られる。うるせぇって勧誘があるかよ、と呆れたように言うゾロの声が、どこか遠く、耳朶を震わせて。
 お゛お゛!!!と歓喜に濁った男の頷きが涙に濡れていたことには、気づかないふりをした。






 滲んだ涙を拭い、ドクトリーヌに挨拶をしに行ってくる、と言って城内へと駆け出していったトナカイことトニートニー・チョッパーを見送った一同は彼が戻ってくるのを待つことにして、各々好きに腰を据えた。
 ゾロはいつの間にかぴくりとも動かなくなった背中の執事を首だけで振り返り、雪色の髪と同色の睫毛に縁どられた瞼が下りているのを認めてため息をつく。耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな寝息がしんしんと降りしきる雪に溶けていた。
 起こさないようゆっくりと腰を下ろし、クオンの足を支えていた腕を離す。全身をすっぽりと覆う厚手のコートに包まれたクオンを己の背中に凭れさせてようやくゾロは深い息を吐き出した。ひょいとウソップがクオンの顔を覗き込む。


「おお、クオン寝てんのか」

「起こすなよ。面倒なんだ寝ぼけたこいつは」

クオンの寝顔なんて初めて見たわね」


 素顔自体食事時にしかあらわにしない執事の珍しい寝顔にどれどれと気を失ったままのサンジ以外の全員が集まってくる。そういえば男部屋で寝起きしているクオンはいつも被り物をして顔を隠していたことをゾロは思い出し、「おれも初めて見た」「おれも」と顔を見合わせるルフィとウソップに「おれもだ」と続く。おそらくサンジも見たことがない希少な寝顔をじっと見つめるビビの手にはクオンの病室から持ち出した被り物が抱えられているが、それを被せる気配はない。
 珍しい秀麗な寝顔は見ていて飽きないが、気配に敏いクオンが起きても面倒なのでゾロは手を振って仲間を散らした。ルフィとウソップは素直に離れていったが、クオンの傍に膝をついたビビの隣で唇をとがらせたナミは規則正しい呼吸を繰り返すクオンをじとりと見下ろす。


クオン、ちゃんと起きたら徹底的に問い詰めてやるんだから覚悟しなさいよね」


 首に癒えないままの傷を抱え、あのドクトリーヌがひどく顔色を変えるほどの無茶をした執事の美しい顔は少し青白いが安らかだ。
 包帯が巻かれた首に手を伸ばし、けれど触れはせずきゅっと手を握りこんだナミは、真っ白執事の真っ当なようで振り切れた危うさに唇を噛む。これほどまでの傷を抱えた体を無理やりに動かし、高熱に倒れたナミを昼夜問わず気遣い、この島へと運んできた事実は文字通りクオンの命を削ってもたらされた。そんな無茶をさせたくてクオンと約束を交わしたわけではないのに。

 ナミの容態を黙っていたことと船の進路を勝手に変えたことに対する罰を求めるクオンへの処遇はルフィからナミに一任された。
 治療を受けて目を覚まし、改めてクオンは悪くないのだと言い募ったナミにルフィもまたナミが倒れたあとのことを話してクオンのことは任せたと投げられたのだから誰もが納得する形で示さなければならない。けれどクオンをこれ以上痛めつけるつもりも負担をかけさせるつもりもないナミは、怒りに燃えていたドクトリーヌを思い出してきゅっと眉を寄せる。この、暇があれば雑用でも何でもしてくるくると動き回る執事に対する罰など、考えるまでもない。


「はりゃりゃ」

「ハリー。お前どこ行ってたんだ?」

「きゅーぅいはりり」

「いや何言ってんのか分かんねぇよ」


 ふと聞き慣れた鳴き声が聞こえて、クオンの頬にかかる髪を優しく払うナミから三段雪だるま制作に取りかかっていたウソップの方へ視線を滑らせたゾロはウソップの足元に佇む小さなハリネズミを見た。ハリーはその身に微かな雪をまとい、つぶらな瞳でウソップを見上げている。
 そういえばこのハリネズミ、クオンを医者に預けて何とか城の外に出たゾロの肩から飛び降りるとそれきり雪に紛れて姿を消していたのだった。クオンの相棒なのだからまさかクオンを置いて山を勝手に下りたりはしないし、下りたとしても戻って来れるだろうと放置していたが、どこで何をやってきたのか─── どうせあの巨人達のいた島の火山の一部を食べていたように、ハリネズミが作った針を武器にする相棒のためにこの雪に覆われた島の何かを食べてきたのだろうとゾロは思う。愛らしい無害な外見にそぐわず、クオンの相棒を務めるだけのことはあるのだ。

 ハリーはウソップから己の相棒のもとへとやってきて、コートの上にでも乗るのかと思いきや、予想に反してゾロの防寒着を駆け上がって肩の上におさまった。ゾロの背中に凭れて眠るクオンの方を向いているから、月光に照らされた針をきらきらと光らせる小さな背中が横目に映る。ハリーは無言のまま相棒を見下ろし、きゅぅぃ、と小さく鳴くと肩の力を抜いたように見えた。


(そういやこいつ、クオンの左肩の上にずっといたな)


 いつもは右肩が定位置なのに、この島で再会して以降はずっと左肩にいた。今なら、クオンの首の傷を隠したがったのだろうとは想像がつく。小さなハリネズミに医療の心得があるはずもなく、そしてクオンの相棒だからこそ周りの人間に不調を知らせることもできず、もどかしい思いをしていたに違いない。こいつもこいつでクオンに思うことのひとつやふたつはあるはずだ。そう思ったから、ゾロは黙って右肩を貸してやることにした。

 そうしてチョッパーの帰りを待っているとおれ達も別れの挨拶をしに行こうと唐突にルフィが言い出し、「バカね、チョッパーひとりにしてあげなさいよ」とナミが即座に返す。きっと涙のお別れになるんだからさと続けたナミの声音は優しかった。

 挨拶を終えたチョッパーが来たら山を下りてすぐアラバスタへ出航すると言うナミが「ビビもこれで納得でしょ」と笑ってみせると、クオンの傍を離れずにいるビビはひとつ頷いて医者がついてきてくれるのならと微笑む。
 へぇ、あいつ医者なのか、とゾロは小さなトナカイを思い出して内心で呟いた。ならばナミはもちろん、クオンも完治まで診てもらえる。医者がいるのならばクオンお得意の誤魔化しも通らないだろう。

 眠り続けるクオンの背中越しに伝わる低い体温に意識を向ければ厚手のコートに覆われた体がもそりと身じろぎ、僅かに背中からずり下がっていく。湿布が貼られた右頬に手を当てて黙り込んでいたビビがはっとして手を伸ばすより先にゾロは後ろ手に伸ばした手でクオンを持ち上げて凭れかけさせ、肩に頭を置く。起きるかと思われたがクオンは変わらず瞼を下ろしたままで、耳を澄ませば寝息を立てていた。ビビの行き場を失った手が宙を泳ぎ、力なく下ろされる。


「ロープウェイの準備をしとこう、ルフィ手伝えよ」

「ロープウェイがあったとはな~~~、すげーなー」


 チョッパーが戻ってきたらそのまま行けるようにウソップが言い出して昇降口に向かい、暇そうに遊んでいるルフィに声をかける。ルフィは感心しきりの様子で素直についていった。
 賑やかな2人が昇降口からロープウェイの発着場へと下りていき、場には沈黙が満ちる。煌々と輝く見事な満月を見上げたゾロは酒が飲みてぇなと思い、そういえばウイスキーピークでは戦闘後の月見酒を邪魔されたことを思い出す。あのときから首に傷を抱えていた真っ白執事に目を細めて無意識に右腰に手をやり、空を掻いた。そうだ、寒中水泳をするときに刀は船に置いてきたんだった。

 クオンとの勝敗は決していない。ビビともどもバロックワークスを抜けたためにクオンと戦う理由はなくなったが、互いの命を取り合わない、手合わせという形でなら再戦は可能だ。
 怪我が完治して万全の状態になったら持ち掛けるか、次はおれが勝つ。
 静かに闘志を燃やすゾロの背中で、当のクオンはすよすよと無防備な寝顔をさらしていた。





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