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「ヒッヒッヒ、やっぱり悪化してたよ。無理するからさ」


 クオンの治療を終え、次にドルトンを、そして最後にサンジを遠慮容赦なく治療したドクトリーヌは、酒瓶を呷りながらナミとドルトンの病室へと戻ってきた。到底手術の音とは思えない機械音とサンジの野太い悲鳴にすっかり怯えきった麓の町の男達がびくりと大きく肩を震わせて身を竦める。
 ナミが横たわるベッドの横に置いたイスに座っていたビビがドクトリーヌを振り返って口を開くより先に、とても139歳の老婆とは思えない眼光で老医はビビとナミを睨み据えた。


「それで─── あの真っ白執事の主ってのは、いったい誰だい」





† ドラム島 15 †





 執事がいるならその主がいるもんだろう、と続けた老医の鋭利に研がれたメスよりも尚鋭く剣呑な詰問に、息を呑んだナミの視線がビビへと向けられる。ビビは顔を強張らせながらもイスから立ち上がって向き直った。


「私です」

「そうか。あいつはあんたの奴隷かい?それとも、さぞかし使い勝手のいい道具か」

「な…!? 違うわ、私はクオンをそんなふうに思ったことなんてない!!」


 努めて淡々と言葉を紡ぐドクトリーヌのあまりの言いようにビビが声を荒げる。キッと強い目でドクトリーヌを睨み返すが、それすら打ち砕くほどの燃え盛る目で射抜きすぐにビビと距離を詰めると左手を振りかぶった。


「ふざけんじゃないよ!!」


 パァン!と鋭い音が鳴る。頬を張り飛ばされたビビはバランスを崩して倒れ、けたたましい音を立ててイスを薙ぎ倒した。ナミがビビ!と彼女の名を呼び、石造りの床にへたり込んだビビがのろのろと顔を上げれば、右頬が真っ赤に腫れ上がっていた。ビビの震える手が頬を押さえる。呆然と見上げてくる、死にかけの執事の主である水色の髪をした少女をドクトリーヌは凍えるような眼差しで見下ろした。


「素人目には見えなかっただろうけどね、あの執事の首の傷は致命傷だ。死んでてもおかしくない、むしろ生きている方がおかしな傷さ。恐ろしいほどきれいに斬られているが傷はまったく塞がっちゃいないし、あの執事が使う妙な針で縫いとめていたんだろうけど何度も開いた痕があった。傷だけじゃない、切れた神経すらも針で無理やり繋いでたのさ、あのバカは。神経の方はだいぶ治っていたが……斬られてすぐ、自分で針を刺したときは気が狂うほどの想像を絶する痛みに苛まれていたはずだよ。短く見積もって、1週間はまともに動けなかっただろうね」


 神経にじかに針を突き立て、死んだ方がマシだと思うほどの痛みを己の手で自身に与えていたのだ。発狂していたとしてもなんらおかしくない。それでも狂うことすら自身に許さず無理やりに針を刺し続け、執事は平然とした顔で戻ってきた。
 ビビは息を呑んだ。あの、クオンが“出稼ぎ”に出てから再会するまでの11日間。1週間で帰ってこなかったクオンを、まったく事情を知らずに責め立てた自分。必ずあなたのもとへ戻りますと約束をしたクオンは、そのために癒えない傷を抱えたままだったというのに。


「加えてひどい低体温だ。到底人間が活動できる体温じゃなかった。原因は傷から血が出ないよう血流を鈍くするために服薬していた薬のせいさ。いや……用法をわざと誤っていたから、毒と言っていい。その毒を飲んだ上で、低くなりすぎた体温を上げるための針を打って無理やりに体を動かしていたんだ」


 とんだ大バカ者だ、とドクトリーヌは吐き捨てる。首に大量の針を刺し、それが体内に溶けきらないうちにまた新しく針をどんどんと刺して、白い首から取り出した針の量は背筋が震えるほどだった。長く医者を務め様々な患者を診てきたドクトリーヌでさえ絶句し、これは人の形をした別の何か─── それこそ化け物と呼ぶべきだと思うほど。首には神経に絡みついたままの針も残されていて、会話食事その他の生活動作、そのすべてに苦痛を覚えていたはずだ。戦闘など言うまでもなく、常人ならとっくに気が触れていてもおかしくはない。


「奴隷ではなく道具でもなく、ひとりの人間としてあれを傍に置くのなら。……もっとよく見ておきな。それが主の務めってやつだろう」


 静かな、大きな間違いを犯した子供を叱り諭すような声音に、ビビは顔を歪めて唇を噛んだ。腫れた右頬がジンジンと痛む。震える瞳に涙がにじんで、上着の袖で拭い取った、その時だ。


「─── 随分と、勝手なことを」


 唐突に低い声が割って入り、それが聞き慣れたものであると認識する前に声がした方を振り向いたビビはドクトリーヌの後ろ、部屋の出入口を見て、そこにぐったりと凭れるようにして立つ白い人間を認めた。
 は、は、と短く繰り返される荒い呼吸は白く色をつけてすぐに溶け消え、いつもの燕尾服ではなく全身をすっぽりと包む厚手のコートに覆われた肩が呼吸のたびに跳ねて短い雪色の髪が揺れる。浮かぶ脂汗と冷や汗が混ざって頬を滑り落ち、生気すらなくしていた秀麗な白い面差しにはほんの僅かに赤みが戻っていた。しかし涼やかな目許に刷かれた隈はそのままで、ギラギラと不機嫌に光る鈍色の瞳が己の主治医を睨む。そして首にしっかりと巻かれた包帯が、確かにそこにクオンの命を斬り飛ばすほどの傷があるのだと見る者に教えていた。


「彼女に何の非があったというのです。どんな手段を用いようと気取られないよう隠し通すと決めて実行していたのは私です。すべては私の独断であり、我が主は真実常に私を思ってくださっている。彼女が責められるいわれなど、どこにもありはしないでしょうに」

クオン……」


 薬を抜かれ、平熱に戻ろうとする肉体は低体温に慣れたクオンの思惟を揺らしている。そのせいでいつもなら抑えられる、感じることすらない苛立ちと主を傷つけた主治医に対する敵愾心を剥き出しにしたクオンはまさしく手負いの獣だ。麻酔を撃ち込まれたにもかかわらず主が傷ついたことを敏感に察知しベッドから飛び起きこの部屋へやって来た、今にもドクトリーヌに噛みつかんとしている雪色の美しい獣は、ふとビビを視界に入れてきれいに微笑んだ。


「大丈夫ですよ、何も案じることなどありません。少々無茶をした自覚はありますが、この程度……」

「誰が起きていいと言ったんだい!!!大人しく寝てなァ!!!」

「ぁぐっ!!!」



 クオンの言葉を遮って怒声と同時に薙ぎ払うように叩き込まれた爪先は的確にクオンの鳩尾を抉り、勢いのまま受け身も取れず白い肢体が吹っ飛んでいく。己が横たわるベッドへ飛んできたクオンを慌てて起き上がり受けとめたドルトンが顔色を変えた。


「Dr.くれは!この方に乱暴なことは…!」

「うるさいよ!!こうでもしなきゃこいつは止まらないんだ!……まったく、本当なら面会謝絶の絶対安静、最低2週間はベッドに縛りつけておかなきゃならないってのに…あたしの蹴りを躱すこともできない奴が、よく噛みついてこれたもんだ」


 怒りよりも濃い呆れをあらわにドクトリーヌが見下ろせば、微動だにしない執事はぐったりと力なく瞼を閉じて気を失っている。深いため息をつき、クオンのためにベッドを譲ろうとするドルトンを押し留めたドクトリーヌはクオンを肩に抱え上げた。
 そのままナミ達の病室を出てクオンの病室へ向かい、抜け出して来たまま乱れたベッドに放り投げ、しっかりと布団を被せる。ついでにロープで縛りつけておこうかと半ば本気で考えたドクトリーヌだったが、もう暫くは目を覚まさないだろうからいいかと考え直して踵を返した。必要ならクオンを容易く拘束したあの緑髪の男を呼んでストッパーにすればいい。

 途中薬品棚から取り出した湿布を手に持ってナミとドルトンの病室に戻り、倒したイスを起こして座り直したビビに湿布を投げ渡した。ぱちりと目を瞬かせたビビが礼を言って湿布を腫れた右頬に貼る。これで今日中には赤みも取れるだろう。
 右手に持ったままだった梅酒の酒瓶をひと口含み、本命の用件を済ませるためにドクトリーヌは大人しくベッドに横たわるドルトンを見下ろした。










 ゆらゆらと体が小さく揺れる感覚に、沈んでいた意識を浮上させたクオンは瞼を震わせて目を開けた。
 何だろう、ひどく、あたたかい気がする。ぼんやりとそう思い、視界を染める黒い何かに数度目を瞬かせ僅かに首を持ち上げると、鮮やかな緑が目に飛び込んできた。


「……?」

「起きたか」

「え、クオン起きたの?さっき気絶させられたばっかりなのに」

「大丈夫、クオン。痛むところはない?」


 低い男の声と高い女の声がふたつ、ただの音として耳を素通りしていく。何か訊かれたような気がするが音を言葉に変換できない頭では応えることができず、首を持ち上げているのも億劫ですぐに頭を黒い何かに埋めたクオンはじんわりと染み入るようなぬくもりの心地良さに深く長い息を吐いた。くったりと完全に全身の力を抜いて微かに揺れる何かに身を預け、揺れているというのにしっかりとした安定感をどこか遠くで不思議に思いながら顔の下にある黒いものに頬を押しつけて目を細める。少し固いが、冷えた体に伝わるあたたかさは小さな不満も溶かしていく。


「あ、これまだ寝てるわね」


 笑みを含んだ女の声がした方へ半分も開いていないまどろんだ目を向けたクオンは、頬に落ちる髪を優しく耳にかけられてまたひとつ瞬いた。眠気にけぶる視界がようやく焦点を結びはじめる。散漫とした意識はいまだはっきりとしないが、目の前の黒い何かが防寒着の生地で、自分が誰かに背負われていることにようやく気がついた。広い背中に頬をつけたまま顎を上げると、鮮やかな緑の髪が再び目に飛び込んでくる。


「……?……、……みどり……………、…剣士殿……?」

「ああ」

「…………なぜ……?」


 自分を背負う誰かがゾロであると認識し、小さな疑問をきっかけに散らばる意識が寄り集められる。重い瞼をこじ開けてぱしぱしとまといつく眠気を払うように瞬きを繰り返し、投げ出されていた手を持ち上げて身を起こそうとすれば鈍い痛みが鳩尾に走って息を呑んだ。


「……っ、……」

クオン、大丈夫?Dr.くれはに蹴られたところが痛むの?」

「姫様……ああ……うん…思い出してきました…」


 鳩尾を押さえるクオンの顔を覗き込んできたビビに、気絶する前の記憶がじわじわと甦ってくる。そうだ、確か病室を抜け出してドクトリーヌに叩かれたビビのもとへ駆けつけ、余裕なく喧嘩腰になってしまったのだ。ドクトリーヌは医者として、肉体の限界を超えるほどの無茶をしたクオンを思って執事の主であるビビに怒ってくれたのだというのに、あの態度はよくなかった、彼女には悪いことをしてしまった。


「ドクターに謝らなければ……」


 ぽつりとひとりごち、微かに身じろいだクオンはため息をついてゾロの肩口に額を押しつけた。目を覚ましたのなら降りて自分の足で歩いてもいいが、中途半端に目覚めて重い疲労がのしかかる体は誤魔化す気力もなくもう指一本動かすのも億劫なほどで、何よりこのぬくもりは離れがたい。降りろと言われないのをいいことに、クオンは頭を僅かに転がしてもふりと頬をうずめた。


「……それで……みなさまどちらに向かって……航海士殿は退院をゆるされたのですか……?」


 小さな振動がクオンの意識をゆらゆらとまどろませていく。背中から伝わるぬくもりもあって、再び重くなる瞼を何とかこじ開けながらクオンはどこかふわふわとした声音で問いをふんわりと投げた。ナミはすっかり体調が良さそうだが、つい半日前まで高熱に苦しんでいたのだ、完治したとはまだ言えないだろう。視界の外でナミが苦笑した気配がする。


「ドクトリーヌと交渉したのよ。城の武器庫の鍵を欲しがってたから、ワポルからスったのを渡す代わりに治療費タダにするのと私達をすぐ退院させてくれって」


 流石ですねぇと返そうとした唇は重く閉ざされ、ゆっくりと瞬いて相槌を打ったクオンの頬をそっと伸びてきたビビの指がつつく。むに、と指の形にやわらかな頬がへこみ、さらにむにむにむにむにとつつかれてもなされるがままの執事に「無抵抗…こんなクオン初めて…かわよ……」と感極まるビビをクオンはぼんやりと眺めていた。
 せっかく寄り集めた意識がまた散り散りになっていくのを自覚して、得意げに続くナミの話を聞きながらおぼつかない思考を鈍く動かす。


「医者として退院は許可できないって言ったけど、席を外している間に逃げ出せって。サンジ君とクオンの治療は終わってるって言ってたわ。クオンは絶対安静らしいけど」


 おそらくドクトリーヌに撃ち込まれたのは麻酔弾。中途半端に覚醒したことで体は言うことを聞かず再び眠りに落ちようとしているが、ここまで全身に力がまったく入らないのはそれだけではなさそうだ。治療中にでも筋弛緩剤か、あるいは強めの鎮静剤でも打たれたのかもしれない。


「サンジ君だけなら私とビビで引きずって行けばいいけど、クオンはさすがにね……だからビビにゾロを呼んできてもらったのよ」


 ぬくぬく、ふわふわ、ゆらゆら。全身があたたかなお湯に包まれているような心地だ。けれど自分は悪魔の実の能力者で、能力者は海水ではなくとも水につかれば力が抜けて溺れてしまう……あれ……では…全身に力が入らないということは…あたたかいお湯に……溺れて…?
 かくん、と首が傾いではっとする。一瞬意識が飛んだが、はて、何を考えていたのだったか。一度はっきりとした意識はしかしまたとろとろと溶けて、億劫げに重い瞼を開いてゆっくりと瞬けば、呆れた顔をしたナミがひょいと覗き込んできた。


「あんた今寝てたでしょ」

「……寝てません……べつに溺れるのはこわくないですし……」

「寝ぼけてるわね。とにかく、今は外に向かってるの。ルフィがチョッパーを仲間にしたがってたから出航はそれ次第だけど」

「こんなにあったかいお風呂なら……わるくない……」

「会話になってないわよ、いつものしゃっきりしたさかしげなあんたはどこにいったの。IQ5くらいよ今のクオン

「くっ、なんで今私に録画する手段が何もないのよ…!?こんな貴重なクオン、観賞用・保存用・布教用に分けて末代まで家宝にしておくべきでしょう…!あっ、いやダメだわ布教なんてしたらまたクオンに群がる虫が増えちゃう布教するにしても身内に留めておくべきね」

「おいお前ら歩きにくいからあんま近づくな」


 ついでにナミとビビが引きずるサンジも足元にまとわりついて邪魔だ、と面倒そうに眉を寄せるゾロの背中をベッドにしながら、驚きの安定感抜群安心安全一家に一台……とやはり思考がふわふわととっ散らかるクオンはふと視界に金色が掠めて僅かに首を伸ばし、足を掴まれてずるずると雪の上を引きずられる金髪の男を認めて虚ろに呟いた。


「コック殿は……一本釣りがいい……」

「お前もう寝てろ」





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