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「ああっ!!」

「な…何だあの変な生き物は!」


 ひとりの男と奇妙なトナカイとの静かな相対は、ドルトンを案じて共に来た男達の驚愕の声に打ち消された。
 二足歩行する青鼻のトナカイを目にした男達がどよめき戸惑い、それぞれ銃を持ってその先をトナカイに向ける。トナカイのようだが実際のトナカイとは違うその生き物に向かって、バケモノ、と言いかける男達を「おいよさないか!!」とドルトンが制そうとして、


「バケモノだ───!!!」


 ウソップがその場に響き渡るほどの大声で叫んだ。





† ドラム島 14 †





 ウソップにバケモノと呼ばれたトナカイはガガーン!!とショックを受け瞬時に身を翻して逃げ出していく。その逃げ足の速さにやはりトナカイだと妙なところに感心したクオンである。
 しかしウソップのひと声でトナカイに逃げられたルフィは怒り心頭といった様子でウソップを殴りつけた。


「バカ野郎!!おれが見つけた仲間ってあいつなんだぞ!!!」

「なにぃあれが!!?」

「ショック受けて逃げちまったじゃねぇか!!!」


 そういえば先程新しい仲間を見つけたと言っていたことを思い出したクオンが逃げていくトナカイを見やるが、その背は既に遠い。ウソップを続けて怒鳴るよりも後を追うことを選んだルフィが逃がさないとばかりに駆け出した。


「待てよ!!!バケモノォ!!!!」


 自分こそが、あのトナカイをそう呼んで。おい、と遠くなる背に飛んだウソップのツッコミももう聞こえていないだろう。
 クオンは賑やかに鬼ごっこを始めたふたりに被り物の下で笑みをこぼし、左手で首を撫でる。

 ─── 瞬間、轟く銃声。


「……!」


 反射的に能力を発動し、間一髪、胸元で止まった弾丸に息を呑む。殺気は感じなかった。敵意も。だというのに銃弾は確実にクオンを標的に放たれていて、鈍色の瞳を鋭くしたクオンが睨み据えた先、銃口を真っ白執事に向けて構えたひとりの老婆をその場にいる者達全員が振り返った。
 この極寒の中薄着のヘソ出しルックをキメる老婆が魔女と名高い医者だろう。御年140近いというのにしわの刻まれた肌は歳不相応に若々しく、けれどサングラスから覗く眼差しは射殺さんばかりに鋭かった。銃弾よりも余程貫通力に優れたその目に、銃弾をぶち込まれそうになったクオンは思わずぎくりと体を強張らせる。相変わらず殺気はない、が、殺気と呼んでもいいほどの怒気が、その痩躯から迸っている。


「避けるんじゃないよ死にかけのクソガキィ!!避けたら殺すよ!!」


 やはり歳の割に張りのある怒声を浴びせられ、いや避けなければ死ぬのでは!?あと避けたのではなく止めたのです、と真っ当なツッコミが出かかるがそれを言えば問答無用で本当に殺されそうなのでお口チャックしたクオンが戸惑いながらも迎え撃つために針を構えようとして、再び引き金に指をかけた医者は正確にクオンの容態を見抜く。


首の傷を・・・・完全に・・・開き・・たい・・のかい!!!そのまま治療しなけりゃ本当に死ぬよ!!!」


 憤然と断言する医者の言葉に、クオンは無意識に左手で首に触れた。そこにある見えない傷を隠すような動きが事実だと雄弁に語り、その場にいる全員の目に映る。
 銃を握る医者の指に力がこもるのが分かって、逃げるべきか、避けるべきか、それとも反論するべきか逡巡し、どれを選んだところで好転はしないと理解したがゆえに隙が生まれ、向き合う医者にばかり気を取られていたクオンは背後から近づく者の気配に気づかなかった。がしりと脇の下から生えた太い腕に羽交い絞めにされ、反射的に能力を発動して抜け出そうとするが拘束する力はあまりに強い。己の背後を取る人間に顔を向けたクオンが被り物の下で目を見開いた。


「剣士殿…!?」


 その無防備と言っていい大きな隙を見逃すほど医者は甘くなかった。容赦なく銃声と共にクオンの白い肢体へと弾丸が続けざまに撃ち込まれ、痛みはなく衝撃だけを感じたクオンは、次の瞬間には抵抗する間もなくぶつりと意識を途切れさせた。






 がくんと糸が切れた人形のように力なくくずおれた体の拘束を解き、完全に意識を失ったクオンを背負ったゾロが医者を見据えながら白い息を吐いて口を開く。


「─── で?こいつをどこに運べばいい」


 背負った体はひどく冷たい。厚い生地越しだからとか、極寒の風に晒されていたからという理由ではない。生きた人間としてのぬくもりがあるはずの肉体にはそれがなく、意識を落として重みを増したクオンはまるで人の形をした氷の塊のようだ。ト、とクオンの頭を置いた方とは逆の肩にハリーが飛び乗る。ただのハリネズミではないハリーは無機質に煌めくつぶらな瞳でじっと医者を見つめている。
 麻酔銃で強制的にクオンを眠らせた医者はふんと鼻を鳴らし、ぐるりと静まり返る男達を見回した。Dr.くれは、と誰かが彼女の名を呼ぶ。


「ハッピーかい?その怪我人を連れて病室へ入んな。ひとり残らずだ」

「は…はいっ!!」


 ドルトンを指して言葉を紡ぐ、有無を言わせぬ口調と先程真っ白執事に向けていた剣幕の余波に身を竦ませた男達が慌てて頷く。そのバカはこっちだ、と一瞥をもらったゾロはDr.くれは─── ドクトリーヌの後に続こうとして、ふと彼女が足を止めて壁の向こうに目をやったのにつられて見れば、何やらぼそぼそと小声でのやり取りが微かに耳朶を打つ。びき、と老医の額に青筋が浮かんだ。


「お前達も病室へ戻んな!!!」

「「ギャ───!!!」」

「……元気なばあさんだな」


 ボコン!!と石の壁を蹴り砕いた医者と、壁の向こうにいたナミとサンジを見てぼそりとこぼれた呟きは幸いか誰の耳にも入らなかったようだ。追い立てられるようにして城の中へ入っていく2人を見送ったゾロはふと、クオンが撃たれたというのに静かなままのビビを目だけで振り返り、俯いて固く両手を握り締める少女を見た。しかし何か言葉をかけるわけでもなく、のろのろと足を動かしてついてくるビビを二度は振り返らず先を行く医者について歩く。
 途中、ナミが自身の病室へと戻ってビビもナミについていき、どこか動きが鈍いサンジをひとつの部屋に突っ込んだ医者はその隣の部屋の扉を開けて迷うことなく入った。


「そいつをそこに置きな。その妙な被り物も邪魔だよ」


 元気な老医ことドクトリーヌの指示通りにゾロは背負っていたクオンを診察台に寝かせて被り物を外す。固い診察台に広がる雪色の髪は艶やかに煌めき、しかし血管を薄く透かす瞼を閉ざした秀麗な顔は血の気を失くして生気すら感じられない。光り輝く極上の陶器人形のようだが、青白い隈が浮かぶ目許がこれが人間なのだと教えるのは皮肉じみていた。形の良い唇もまた色を失くし、鼻に手を翳せばほんの微かな呼吸と湿り気が確認できたが、胸の上下は目視では確認できないし呼吸と呼ぶにはあまりに弱々しい。なめらかでつるつるでもちもち、といつだったかビビがそう評した肌に触れればひどく冷たく、けれど確かになめらかでつるつるでもちもちで、これほどまでに人間としてのぬくもりと精彩さを欠いているというのに乾きひとつない肉体のいびつさにぞっとする。


「深刻なのは首の傷だけじゃなくて低体温の方もさ。……26度。人間の限界をとっくに越えている。しかもこれは、無理やりに上げられた体温だ。少しずつ下がっていってるよ」


 まるでゾンビだ、とクオンの額に手を当てたドクトリーヌが顔を歪めて吐き捨てる。心臓の鼓動も弱まっている、ほぼ止まりかけだと続く言葉を聞きながらじっとクオンを見下ろし、クオンがよく触れる首の左側に指を這わせたゾロがおもむろに口を開いた。


「そういえばここ最近、針をよく首に刺してたな」


 元々首の傷を塞ぐために針を刺していたクオンだが、特にこの島で再会して以降はその頻度がぐんと上がり、何かと首に触れていた。針、針、ね、と小さく繰り返したドクトリーヌの目が他には?と問いかけてくる。それ以外に特に思い当たることはないので首を振れば、そうかとひとつ頷いた彼女はすっとドアを指差した。


「治療の邪魔だ。出て行きな」


 このあと金髪のガキ達の治療もあると言われれば従うしかない。そもそも医者に任せたら出て行くつもりだったのだ。
 眠るクオンの顔を見下ろし、無言で踵を返したゾロは病室を出て、この城にいる理由もないため外で待っているウソップと、そのうち戻ってくるだろうルフィを待つために外へ向かって歩き出した。
 城の中は寒く、あちこちが雪に覆われている。その雪の色が診察台に広がる髪を思い出させて、雪を踏みしめながらゾロはガリガリと頭を掻く。

 クオンの不調には、この島に降りる前、島の住民に撃たれて倒れた姿を見たときには気づいていた。実際に当たってはいなかったようだが、あのクオンがビビを庇うためとはいえ素人の銃撃を受けて体勢を崩し倒れるような真似をするとは思えず、抱いた違和感は見逃せなかった。
 次の違和感はこの島で再会して、ワポルの家来を相手に共闘したとき。クオンは偶然かまぐれか敵に針を弾かれたと思っていたようだが、一度相対したことのあるゾロにはその動きがほんの僅かに鈍くなっていることが分かり、さらに言えば針が宙を滑る速度も遅い。空気を切る音はよく聞こえて、避けることは難しくなかった。
 このふたつの点だけでクオンは調子が悪いと確信するには十分だった。クオンはなぜ気づいたのかと不思議そうだったが、加えて首に触れる頻度が多かったり、水面を駆けることができるクオンが戦闘時にブーツの底を雪に沈めているのを見れば分からないはずがない。


(低体温……ああ、その違和感もあったな)


 クオンと背中合わせになったとき、厚い生地越しに感じるクオンのぬくもりはなく、まるで氷の板を背にしているようだったことを思い出す。そのときは服装と極寒の風を浴びて冷えた燕尾服のせいかと流したが、あれこそがサインだったのだと今更気づいてしまった。
 火針ひばりの石はゾロではなく自分にこそ使うべきだったのではと思うが、おそらくそうしては不調をビビに悟られるからしなかったのだろう。石を使わずとも、もし火針の調整が可能であれば、その針を己に打ち込んで体内の熱を上げることくらいは造作なくあの執事ならできただろうし。
 ゾロがクオンを羽交い絞めにしたときも、執事の能力を使えば拘束は難なく解けたはずだ。いやそもそも、意図しなければ拘束されるようなへたは打たない。

 軽く思い起こせばあれもこれもと思い浮かぶ。ゾロの知らないところでも手掛かりはあったはずなのだ。だがルフィが「疲れてる」とクオンを見抜いたように不調の確信は抱けど、まさか死ぬ手前だとは誰も思っていなかった。「その気になれば取り繕うのが上手」とビビが言ったあの言葉をこんなところで実感しようとは。


(あの状態であいつ、自分が何とかするってのたまいやがったのか)


 そして実際に、もしルフィが戦えない状態にあれば言葉通り何とかするつもりだったのだろう。あの肉体で。ドクターストップがかかって強制入院になるほどの体で。ビビのためではなく、この国の次の王として推す男のために。


「………」


 なぜそこまであのドルトンとかいう男に肩入れするのか、ゾロには分からない。ドルトンが必死になって国のために戦い、終わらせようとしていたのは分かる。それをクオンは「良いもの」として気に入り、そのために力を尽くそうとした。
 ……止めて正解だった。内心呟き、クオンの氷のような肌に触れた指を固く握り締めて目を細めるゾロの横顔を、右肩に乗ったハリネズミが静かな瞳で見上げていた。





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