クジラが暴れているため胃の中も大きく荒れ、風ありきの帆船はなかなか前に進めない。
 クオンはクロッカスが胃液の海へと飛び込むのを見送ってゾロ達を振り返ると、オールで漕いだ方がいいでしょうと進言した。すぐさま胃液に溶かされるということはないが、それでものんびりしている暇もない。船底に穴があけば沈んでしまう。

 ルフィは胃袋ここには来ておらず、どうやら口の外へ弾き出されたのをウソップが見ていたようだ。悪魔の実の能力者だ、海に落ちないよう逃れて岬に取り残されているのかもしれない。またクジラに攻撃を仕掛けるような真似をされないためにも、早めの脱出が望ましかった。


「─── ん?」


 ふと、お前も手伝えとゾロに差し出されたオールを受け取ろうとしてクオンは顔を上げた。
 気配が3つ、近くにある。つられてか、ゾロもクオンの視線の先を追った。
 クジラの胃袋に作られた大きな扉。その右脇にある人間サイズの扉が唐突に開かれて、3人の人間が飛び出してきたことにゾロはぎょっと目を見開いた。その隣でクオンもまた、被り物の下で大きく目を瞠る。あれは─── なぜ、ここに。

 飛び出してきた3人。全員クオンが見知った人間で、その中のひとりに視線を据える。
 鮮やかな水色の髪が見えた。幼さを残した綺麗な顔を見間違えるはずもない。その気配も。だが彼女はここにいるはずがなくて、けれど確かにそこにいる己の主に、被り物の下でクオンの目が静かに眇められた。





† 双子岬 3 †





 ゾロもいきなり飛び出してきた3人に己が船長が含まれていることに驚き、そして何やってんだあいつと呆れた。
 みんな無事だったのかと嬉しそうに喜びつつとりあえず助けてくれと言うルフィが胃酸の海へと真っ逆さまへ落ちていく。

 と、ふいに隣で白が動いて視線を滑らせると、妙に愛嬌があるようで間の抜けた猫を模した被り物を被った全身真っ白執事は、その手袋に覆われた右手をひらめかせて指の間に2本、手首から中指の先まであるような長く細い針を挟んでいた。
 思わず刀に手を伸ばしたゾロを気にも留めず、クオンは右手を振って針を飛ばす。針は水面より少し上の胃袋の壁に突き刺さり、同時に真っ白執事の身が翻って船から飛び出した。空中でルフィ以外の2人へと手を伸ばす。


「まずいぞミス・ウェンズデー!下は胃酸の海だ!!」

「イヤ───っ!!クオン助けてぇ!!!」

「そのクオンは今いないだろう!!! ぉぐえっ!?

「いやぁ~~~!クオン───!!! はっ!?


 落ちながら叫ぶ2人に名前を呼ばれた真っ白執事は右手で王冠を被った男の首根っこを引っ掴み、水色の髪を高く結い上げた女の尻と膝裏を左の腕で支えて胃の壁に刺した針の上に静かに足をつけた。首が締まって呻いた男と違い丁重に抱えられた女は、自分を支えるあたたかな腕と視界いっぱいを白に埋め尽くされて目を見開く。


「「クオン!!?」」

「……なぜお嬢様がこんなところにいるのです」


 器用にも2本の針を足場に背筋を伸ばして立つ執事が、被り物によって削りきれなかった呆れをにじませながら問う。視界の端でルフィが胃酸の海に落ちたが、まぁ彼の仲間がいるから大丈夫でしょうとすぐさま意識の外に追いやって腕の中の主へと半眼を向けた。
 クオンが問いに続いて再び口を開こうとすれば、まさか本当にこの場にいて助けてくれるとは思っていなかった己の執事を見て女が目に涙を浮かべ、かじりつくように飛びついて首へ回した腕に力をこめた。突然体重をかけられたが予想していたことなので姿勢を崩さずに受け止める。


クオンクオンクオン!!!あなたどこまで行ってたのよ、1週間って約束したじゃない!!!」

「私は必ずあなたのもとへ戻ると約束したのです。期間については特に言及はしなかったはずですが?」

「寂しかった!!!」

「左様ですか」


 問答する間も惜しいと素直に気持ちを吐いて首に縋りつき額をすりつけてくる主の後頭部に手を伸ばそうとして、右手が男で埋まっていることに気づいたクオンは躊躇うことなくぺっと男を胃酸の海へ放り出した。
 いらぬ荷物を捨て、「人でなし───!!!」と叫ぶ男の声を無視して宥めるように主の頭を撫でてやる。海へ人間が落ちる音がしたが、主従は一切気にも留めない。抱きつきながらすんすんすんすんと鼻息荒く匂いを嗅いでくる主の後頭部をぺしりと軽く叩いて僅かに体を離した。


「それで、なぜここに?決してあの町を出ないよう、日頃きつく言い聞かせていたはずですが」

「それは……」


 クオンの問いに顔をくもらせて言い淀む主に事情を察する。任務ですね、と小さく訊けば目で頷かれた。思わずため息をつくとそろそろと窺うように見上げられて、不安に彩られた瞳を静かに見下ろしたクオンは、大丈夫ですよ、と被り物越しでも通じるように優しい声音を落とす。


「私が何とかしますから」

「……うん」

「ですが、このクジラには一切手出しをしてはいけません。分かりますね?」

「うん、分かったわ」


 素直にこくこくと頷く主にクオンも頷きを返し、足下で「助けてくれクオン~~~!!」と叫ぶ男にようやく意識を向けた。


「うるさいですよ、ご自分で何とかなさい」

「お前本当おれとミス・ウェンズデーと扱いの差がひどいぞ!?」

「なぜ同じに扱われると思っているのか…」


 軽く首を傾げて当然のことを言えば男が元気にぎゃんと叫ぶ。クオンは右腕に主を抱え直すと左手を伸ばして胃酸の海につかる男の首根っこを掴んだ。
 器用に針2本の足場だけで2人を抱え、おもむろに左腕を振りかぶったクオンは、そのまま船首のもげたメリー号へと男を投げ飛ばした。おぅわああぁ!?と情けない悲鳴と共に男が飛んでいく。それを見送ることもせず、掴まっていてくださいと主に言って苦しいくらいしがみつかれたクオンは何も言わずに壁に刺さる針からメリー号へと大きく跳んだ。
 胃酸の海を眼下に通り過ぎ、トン、と軽い音を立てて前方甲板へ降り立つ。先程投げ捨てられて床に沈んだ男の近くに、無事仲間に引き揚げてもらったらしいルフィがいて被り物をした顔を向けた。


「船長殿、ご無事で何よりです」

「ああ、クオンもな!で、そいつらは何だ?知り合いか?」


 腕に抱えた主を優しく下ろし、にかりと笑って首を傾げるルフィに「私の主と、その同僚です」と簡単に答える。
 クオンの主である女は可愛らしい幼さを残しているが美女と呼ぶに相応しく、女好きのサンジがでれっと眦を下げたと思えば、右腕にしがみつかれているクオンを見ると悔しげに歯軋りをして睨んだ。どうやら大変羨ましいらしい。


クオン、この人達、海賊…?」

「ええ。“東の海イーストブルー”からここまでお世話になった方々です。海賊ですが決して悪い人達ではないので、失礼をしてはなりませんよ」

「え?浮気?」

「いきなり何言っているんです?」



 真顔で見上げてくる女に向ける声に被り物越しでも呆れがにじむのを聞いたルフィをはじめとした面々は、クオンが己の主に心から気を許していることを悟った。自分達にはあまり感情の色を見せなかったくせに、主を前にした全身真っ白執事は随分と分かりやすくて人間くさい。


クオンはそいつのことが好きなんだな!」

「もちろん。好きでなければ執事などしていませんよ」

「私も好きよ!!ううん大好きよ!!」

「知ってます」


 ルフィににかりと笑って言われて即答すれば女が顔を赤らめて叫び、クオンが慣れた様子で軽くいなしたところで、床に這いつくばっていた男が目を覚ましてクオンに眦を吊り上げた。


「おおい!!いきなり何するんだクオン!」

「お礼は?」

「ありがとうございました」


 音もなく眉間に長い針を突きつけられた男が顔を真っ青にして尻もちをついたままクオンを見上げる。よろしい、お礼は大事ですよ、と言いながらクオンは針をおさめた。
 愉快犯のはあるがいつだって穏やかだったはずの全身真っ白執事の思わぬ一面にウソップが震え、一連のことで垣間見えたクオンの力量にゾロが眼光を鋭くする。

 ゾロは、クオンが見えなかった。針を投げてからこの怪しい男女を抱え、胃の壁に刺さった針の上に立つまでが、何も。
 針を投げて突然姿が消えたかと思えば次の瞬間には既に遠くにいて、さらにあんな細い針の上に2人を抱えた人間が立てるとは到底思えない。
 女を抱えてこの船へ戻ってくるときは普通に目で追えたが、一足跳びで船に移ってくるには距離がありすぎる。なのにこの執事は、それを軽々とこなした。何者だ、という疑問と共に忘れていた警戒が再び顔を出す。

 じりじりと突き刺さるゾロの視線を感じながら気づかないふりをして、敵意に近いものを敏感に感じ取った女がクオンの腕に縋る手に力をこめる。それを宥めるように女の手を軽く叩き、その手を腕から離して代わりにハリネズミをのせた。女が抱きついている間は器用に被り物の上に移動していたハリネズミは、こしょこしょと撫でてくる女の指に甘えて喉を鳴らす。


クオン、もしかしてそいつらが前に言っていたお前の主か」


 ふいにクロッカスの声が聞こえ、振り返るといつの間にか戻ってきていた彼が人間サイズの扉から胡乱げな目をしてこちらを見ている。


「ええ。ですが私の主はこちらだけです」

「どっちでもいい。最近このクジラの周りをうろついていたゴロツキ共だが、まさかお前の主人だとはな」

「……へぇ…」


 被り物越しに低くくぐもった声が聞こえ、女と男は顔色を変えると揃ってびくりと肩を揺らした。あーあ、と言わんばかりにハリネズミが肩をすくめて女の手から飛び降りる。

 ぐるりと首を回して己の主とその同僚を振り返ったクオンから2人が一歩後退るが、それよりもクオンが距離を詰める方が速かった。
 被り物の頭を容赦なく男の額にごす、ごす、とぶつけてゆっくりと口を開く。大して痛みは感じてないが、首を絞められるような威圧感を覚えて男は頬を引き攣らせた。


「衝動的に、このクジラを狙ったのだとしたら、百歩譲って、見逃さないことも、ありませんでした、が、計画的に、狙っていたと、聞けば、到底、見逃せるものでは、ありません」

「だだだだってよ!」

「お黙りなさい」


 がすっ、と痛そうな音を立てて被り物が男の頭にぶつかる。
 額を赤くして床に膝をつく男から己の主へと顔を向け、もう一度男に戻して、首を伸ばして被り物をした頭を戻したクオンは切り捨てるような響きをもって宣言する。


「決めました。あなたは町へ帰ったら千本ノック。お嬢様は1週間私の素顔を見ることを禁じます」

「「ごめんなさい!!!!!!!」」

「許しません」


 きれいな土下座を決める2人を前に腕を組んで仁王立ちし、クオンは被り物をした顔をつんとそっぽ向けた。





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