大砲をぶち込まれたはずのクジラは静かなもので、微動だにしない様子を見たゾロが「逃げろ今のうちだァ!!!」と叫んだことで止まっていた船の時間が動き出した。
 慌てて大きなオールを手にした男達が漕ぎ始める。同時にまたクジラが大きく鳴いて、近くで聞くと耳が潰れそうなほどだった。


「ラブーン、落ち着きなさい、ラブーン。私の声が聞こえますか」


 隙間を縫って船を動かし、右手側に見ることができた大きなクジラのこれまた大きな目に向かって、無駄かもしれないと思いながらもクオンは声をかける。
 現実逃避じみた笑いが引っ込めば、さすがにこの船とクルー達を見捨ててひとり逃げるのは寝覚めが悪かった。最悪そうするつもりはあるが、本当に最悪の事態に陥ったときの選択で今はまだそうでもないのだ。
 さすがにこれ以上状況が悪化することはないだろうという希望的観測は、前方甲板へ上がってきたルフィの次の行動に打ち捨てられることになることを、このときのクオンはまだ知らない。





† 双子岬 2 †





「お前いったい、おれの特等席に……何してくれてんだァ!!!


 と、怒声と共に思い切り腕を伸ばして拳をクジラの目に叩きつけたルフィに、この船に乗ったことを少しだけ後悔してしまったクオンである。
 「アホ───っ!!!」と揃った4つの怒声に救われるような心地を覚えた。被り物の額を押さえるクオンの肩の上でハリネズミが呆然としている。

 ぎょろりとクジラの大きな目がこちらを向いて「こっち見たぁ~~~っ!!」と悲鳴が上がる。好戦的に拳を構えて「かかってこいコノヤロォ!!」と叫ぶルフィの後頭部に「てめぇもう黙れ!!!」とゾロとウソップの飛び蹴りが入り、それを視界の端に入れながら再び考えることをやめたクオンはのんびりと空を見上げた。今日も大変良い天気である。おそらきれい。

 ぐら、とふいに船が揺れる。気づけばクジラはその体躯に見合った大きな口を開けており、あ、と思った瞬間には勢いよくクジラの口へ船ごと呑み込まれていた。
 今からオールで漕いで逃げようにも無理だ。ひとりなら今からでも逃げられるが─── まぁいいか、とクオンはその場に留まることを選んだ。


クオン!ねぇクオン!あんたこれ何とかならないの!?」

「さすがに無理ですね」


 泣きつくナミに被り物越しでも判るほど軽快にあっはっはと笑って言えば「笑い事じゃないわよ!!」と怒鳴られて、どうやら大変精神が不安定な様子だ。それも、クジラに呑み込まれつつある今は仕方のないことではあるが。


「まぁ、そう慌てることでもありませんよ」

「はぁ!?」

「クジラに呑まれただけでは死にはしません」

「いや死ぬだろ!?」


 泣きながらツッコむウソップをさらりと流し、腕を組んで小さく首を傾けたクオンは何てことないように続ける。


「クジラに呑み込まれるなんて貴重な体験ですよ。楽しんでみてはいかがです?」

「「「「楽しめるかァ!!!!」」」」


 ナミ、ウソップ、ゾロ、サンジに声を揃えて怒鳴られたクオンはふと、この場にひとり足りないことに気づいて軽く視線をめぐらせ、やらかしてくれた張本人たる船長が見当たらないことを悟り、さてさて、彼はこの状況でどうするでしょうかと被り物の下で小さな笑みを刷く。


「そういえば航海士殿、この船の名前は何というのです?」

「今聞くことなのそれ!?」


 どんどんクジラの口の奥へ吸い込まれながらどこかのんびりと問うクオンに怒鳴るようにツッコんだナミは、それでも「ゴーイングメリー号よ!」と律儀に答えてくれたので、クオンはひとつ頷き礼を言う。
 しかしそれで何か状況が変わるわけでもなく、羊の頭がもげたメリー号はそのままクジラに呑み込まれていった。






 クジラに呑み込まれ、“偉大なる航路グランドライン”に入った瞬間すわ一味壊滅かと思われたが、しかし。
 メリー号はクジラの食道を通って胃へと流され、そこで一同は奇妙な光景を目にすることになる。

 青い空、白い雲。カモメも飛んでいて、目の前には一軒の家とヤシの木が生えた小島。
 クジラに呑み込まれた先にあったその光景はあまりに現実離れしていて、ウソップが「どう思う?」と呆然と訊くのはさもありなん。


「どう思うって…」

「どう思えばいいんだよ…おれはてっきりクジラに呑み込まれたつもりでいたが」


 ゾロとサンジがひとり言のように落とす言葉を聞きながらクオンは小島を軽く見渡した。脳裏に描いた人間の姿はないが、家の向こう側に小舟が泊まっているのと、干されている洗濯物が見えたから家の中にいるのだろう。


「こりゃあ夢か…!?」

「…ああ、たぶん夢だ…」

「─── で?あの島と家は何なの?」

「……幻だろ」


 うまく状況が把握できずどこかふわふわした会話する一同に、現実ですよしっかりしてくださいねとクオンが声をかけようとしたそのとき、水面からざばりと巨大なイカが飛び出してきた。じゃあこれは?とメリー号の数倍は大きいイカを見上げてナミが問い、一拍置いて「大王イカだ!!」と叫ぶとウソップと共にその場から逃げ出す。

 大王イカを前にゾロが刀を構え、サンジが睨むように見上げた。クオンは刺身もいいが焼きイカもいい、たこ焼きならぬいか焼きも捨てがたい…と食材を前に背筋を伸ばしたまま姿勢を崩さず、ぐぅ、と肩の上のハリネズミが大王イカを見上げながら小さく腹を鳴らした。先程乾パンを食べたばかりのハリネズミは、燃費が少々悪いところも愛嬌のうちである。

 大王イカに向かってゾロが鯉口を切り、サンジが脚に力をこめて身構えると同時、唐突に大王イカはその身に巨大な銛を背後から突き立てられて再び水しぶきを上げて水面へと沈んでいった。
 そうして、その銛が目の前にある島に建つ家から飛び出してきたことを悟った2人が油断なく窺いながら言葉を交わす。


「人はいるみてぇだな」

だといいな」


 ゾロとサンジの後ろに佇み、やはり思った人物の在宅・・クオンは確信する。
 ウソップがルフィはどこに行ったのかと泣く横で、次から次へと起こる異常事態にもういや、帰りたいと涙を浮かべるナミの泣き言を聞いた。

 一同の視線の先で、おもむろに誰か─── まるで花のように広がる不思議な髪形をした、眼鏡をかけたひとりの老人が家を出てくる。彼はここに一隻の船があることに気づいてこちらを見、大王イカを貫いた銛と繋がるロープを引いて回収すると、ふいに船の上に立つクオンに気づいて眼鏡の奥で軽く目を瞠った。


「何だクオン。なぜお前がここにいる」

「まぁ色々とありまして、先程ラブーンに呑み込まれたのですよ」


 あっさりと知己同士の軽い言葉のやり取りを交わす2人に全員の目が向く。知り合いなの!?とナミに訊かれて、ええとクオンは首肯した。


「彼の名はクロッカス。双子岬の灯台守です。歳は71、結構なお年ですね。あとお医者様でもあります」

「べらべらとひとの素性を話すなクオン


 クロッカスに睨まれたクオンは小さく肩をすくめる。どうせ黙っていたとしても自分で話しただろうに。
 大王イカを回収し、新聞を手にクロッカスは島に置かれたビーチチェアに腰を据えて新聞を広げる。特に話を盛り上げるつもりはないようで、クオンもそれに倣いそれ以上は彼について口にせず一同を振り返った。


「さあ、消化される前に早くここから出ましょう」

「やっぱりクジラに食われてたのかおれ達!?」

クオン、あんた簡単に言うけどどうやって出るっていうのよ!!?」

「出口ならあそこだ」

「「「出られんのかよっ!!!」」」


 クオンに言われて状況を把握した、というかようやく現実を見たウソップが叫び、ナミがクオンに詰め寄り、クオンが答えるより先にクロッカスが扉になっている壁の一部を指差してナミ、ウソップ、サンジがツッコむ。
 だから出ましょうと言ったのに、とは口にしなかったクオンをじろりとゾロが睨む。


「てめぇ、知ってたな」

「船長殿が『見てろ』と仰ったので」


 巨大なクジラが双子岬にいることもクジラに呑まれたとしても大した問題ではないことも知っていて黙っていたクオンは否定せずさらりと返し、チッと舌打ちするゾロに被り物の下で笑みを浮かべる。

 彼らのなかなか愉快な反応は終始クオンの表情をゆるめっぱなしだったが、表情と感情を隠す被り物をしているせいで相棒のハリネズミ以外の誰にも伝わっていない。伝えようとも思わないので、周囲に広がる空や雲が絵だと気づいて驚くウソップに「遊び心だ」と真面目くさった顔で言うクロッカスと「てめぇいったい何やってんだよここで!!」とツッコミを入れてしまうウソップのコントのようなやり取りを無言で眺めるだけだった。

 クロッカスの目的をもちろんクオンは知っているが、そこまで彼らに説明する必要はないだろうと口を開くことはない。そんなクオンを一瞥だけしてクロッカスは鼻を鳴らした。
 ─── と、ふいにくぐもった大きな音がして船が揺れる。おや、とクオンが被り物の下で目を瞬いた。


「始めたか…」


 クロッカスの呟きは大きくなかったが、揺れる波音に紛れずこちらに届く。
 水面がまた大きく揺れ、小島もまた揺れて水面につかっていた部分をあらわにした。鈍く光る鉄が波間に覗く。
 小島を模した船の上でビーチチェアから立ち上がったクロッカスに、何を始めたのかとウソップが説明を求めた。クオンはそれに答えず、問われたクロッカスが答える。


この・・クジラが、“赤い土の大陸レッドライン”に頭をぶつけ・・・・・はじめたのだ」

「……ドクター」

「分かっている。おれは行く、お前は落ち着いたらこいつらを外に出してやれ」


 簡単な言葉を交わし、クロッカスはクオン達に背を向けた。クオンはひとつ頷いてゾロ達を振り返った。


「さて、私達は外へ出る準備を。まずはあの扉へ。外に出る方法は私が知っています」


 クオンの言葉に真っ先に頷いたのはゾロだ。謎の老人と得体の知れない執事を信じるしかない状況だが、ボヤボヤしていると木造船のメリー号の方が先に溶けてしまう。

 クジラが壁に頭をぶつけている、と聞いて外で見たクジラの様子を思い出したナミに「ねぇクオン」と声をかけられ、振り返ったクオンは「このクジラ、苦しんでいるのよね」と問われてその通りだったから是と返す。あの傷だらけの額は壁に打ちつけてついたものだ。
 そうか、と2人の会話を聞いたウソップがはっと目を見開いた。


「それが狙いかあのジジイ!!体の中からこのクジラを殺す気なんだ」

「違います」


 確信すら持った言葉を即座に否定され、えっ、と驚いたウソップはクオンを振り返った。
 妙に愛嬌のあるようで間の抜けた猫を模した被り物がこちらを見ている。そこから聞こえた声は低くくぐもって感情が読み取りにくくなっていたが、それでもこちらを突き刺すような響きの声が、僅かばかり非難の色をにじませていることにウソップは気づいた。


「ドクターはそんなこと、絶対に致しません」


 そうは言うが詳細を語ることもなく、クオンはウソップの言葉の否定を終えると再び前を向く。
 クオンとウソップの短い会話を聞いたサンジにとにかく早く脱出しようと促され、被り物を被った白い執事は無言で頷いた。






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