「鷹の目」こと、世界最強の剣士、王下七武海のジュラキュール・ミホークをクオンは当然知っている。“偉大なる航路グランドライン”の海を往く海賊の中でその名を知らぬ者はいないと言っていいだろう。
 世界最強の椅子に腰を据えて幾年月、不動のまま現在に至っているミホークにこの緑髪の剣士は挑み、そして敗けた。しかし彼は死ななかった。


(あの鷹の目が、剣士殿を生かした)


 つい最近こさえたばかりだろう大仰な傷はあまりに深く、傷を縫ったとしても完治にはほど遠い。傷口が塞がっても体内にまで響いたそれは数年は癒えないままなのは医者でなくとも分かる。何なら即死していたっておかしくはない。
 それだけの傷を受けて、生きている。生かされている。生かすだけの価値があり、つまりは再び刃を交わす気があるとミホークが体現したものがこの男だ。

 なぜ、と思う。ロロノア・ゾロの剣の腕はクオンも軽く見知ってはいる。しかしミホークが目をかけるほどかと問われれば頷けない。だが否定もできなかった。クオンはあまりにゾロのことを知らなさすぎている。
 だから軽率に言葉を発することもできずに黙り込んだまま被り物越しにゾロを見据えていたクオンは、背中の傷は剣士の恥だと強く言い切った男の鋭く揺るがない瞳を見て、先程見た大傷を思い出し、無抵抗に両腕を広げて真っ向からミホークの刃を受けたこの男の姿を、まるで己が目で見てきたかのような鮮烈さをもって脳裏に描いた。





† 双子岬 1 †





「不思議山が見えたぞ!!!」


 ふいにルフィの興奮混じりの声が聞こえて、はっと我に返ったクオンはゾロに据えていた視線を顔ごと船の進行方向へと向けた。すると確かにルフィ曰く不思議山─── リヴァース・マウンテンが見えていて、海流に乗ったのか、ぐんと船の速度が上がったことを感じる。
 床に置いていたアタッシュケースを手にしてゆっくりと前方甲板へと歩き出せば、視界の端で同じくゾロも前方甲板へと歩いて行く。しかしお互い顔を見合わせることもなければ、何か言葉を交わすこともない。

 ルフィをはじめとした彼の仲間が集まる輪の少し外でクオンは足を止めた。ルフィの言う“不思議山”を見上げ、後ろの影は何だ!?と叫んだウソップにクオンが答える。


「あれが“赤い土の大陸レッドライン”。世界を分断する大陸です。─── さて、船長殿」

「ん?」

「この向こう・・・に到達したときが、あなたが目指す海賊王になるときです。しかしそこに至るまでに数多の苦難が待ち受けていることでしょう。その夢を笑われることもありましょう。夢ごと命を叩き潰されるような目に遭うことも、仲間を失うことだってあるかもしれません。それでもあなたは、往きますか」


 クオンの問いに、ルフィの静かな瞳が返る。清冽な、決して揺るがない黒曜の瞳が、ルフィがにっと笑みを浮かべると同時に煌めいた。


「当然だろ。おれは海賊王になるために海に出たんだ」


 麦わら帽子に手を添え笑って言い切るルフィに、クオンも被り物の下で笑みを浮かべた。

 ああやはり、この男はとても「良いもの」だ。

 そうでなければこの船にお邪魔しようとは思わなかった。
 それが間違いではなかったと知れて、クオンは自分の機嫌が上向くのを自覚する。ぱしん、と両手を合わせて発した声は、被り物越しでも判るほどに弾んでいた。


「よろしい!では皆様、よくよくご覧くださいませ。そして、まずは舵にご注意を。志と覚悟は立派でも、いとも簡単に砕かれるのが海の常というもの。油断ひとつですぐに死にますよ」

「ああ!─── 吸い込まれるぞ!!舵しっかり取れ!!!」


 ルフィが仲間に号令をかけ、ラウンジに備えられたホイップスタッフに手をかけたサンジとウソップが任せろと応える。ナミが船首の先を見て「すごい」とこぼし、双眼鏡を手にして運河の入口を見たゾロが嘘みてぇだ、と唖然としていた。


「本当に海が山を登ってやがる…」


 ゾロの言葉の通りに、海流は導くように勢いよくリヴァース・マウンテンを登っていく。
 海流に乗ってスピードを上げた船が運河の入口を目指し、だが少しばかり軌道がずれていた。


「ずれてるぞ!もうちょっと右!!右!!!」


 慌てたルフィが舵を握るサンジとウソップに声をかける。面舵いっぱい、しかしこのままでは間に合いませんねぇ早速海の藻屑でしょうか、とクオンは冷静に見ていた。ところでそんなに男2人が力をこめると壊れそうなのですが、とさらに思ったところで、予想通りホイップスタッフが根元近くからボキリと折れた。
 あーあ、と胸中で呟いたクオン以外が顔色を変える。ナミなど舵が利かなくなったことに絶望して涙を浮かべていた。


「ぶつかる───っ!!!」


 誰もが叫んだ通り、運河の入口に建つ柱へ一直線に船は向かう。
 そういえばこの船の名前は何でしたっけ、と思いながら船首の羊の首を一瞥したクオンはやはり冷静なままルフィへ顔を向けた。


「何とかしてあげましょうか?船長殿」

「いらねぇ!!クオンは見てろ!!」


 言うが早いか、ルフィが麦わら帽子をゾロへ投げ渡して船の外へ飛び出す。
 見てろと言われた通りその場に佇むクオンは、息を大きく吸い込んで体を丸く膨らませたルフィを見て被り物の下で面白げに目を細めたが、当然誰からも見られることはなく。


「ゴムゴムの……風船っ!!!


 柱と船の間にルフィの体が挟まる。まさしくゴムのように膨らんだ体がクッションとなって船は柱への衝突をまぬがれ、そのままルフィの体に弾かれ軌道を修正された。お見事、とクオンが拍手をし、ナミが助かったと安堵の息を吐いた。
 後は運河の入口に取り残されたルフィだったが、それも海に沈む前に勢いよく飛んできた手をがっしりとゾロが掴み、力いっぱい引き寄せたことで事なきを得る。こちらへ戻ってきたルフィの体が勢いあまって床に叩きつけられたが、本人にダメージはまったくなさそうだ。すぐに起き上がってゾロから麦わら帽子を受け取ると目を輝かせた。


「入ったぁ───っ!!!」


 無事運河へと入り、全員が喜びから笑みを浮かべる。クオンはやはり静かに沸き立つ面々をそれぞれ見て、肩に乗ったハリネズミを指で撫でた。

 船はあっという間にリヴァース・マウンテンの頂上につき、一度大きく船体を跳ねさせて着水し、今度は下へ。
 ルフィが羊の頭の形をした船首へよじのぼって「おお」と感嘆の声を上げる。同じく前方甲板に立って笑みを浮かべるゾロも、このときばかりは完全にクオンを警戒することを忘れているようだった。クオンクオンで、知識では知りつつもこうやってリヴァース・マウンテンから“偉大なる航路グランドライン”へ入ることは初めてであるため、ルフィ達につられるように胸の内は沸き立っていた。


「ここが世界で一番、偉大な海……!!」


 輝く瞳を真っ直ぐに前へ向け、噛みしめるように笑いながらルフィが言う。
 運河の先は雲に覆われていて判然としないが、登るのが早ければ下るのも早い。雲を抜けるまでにそう時間はかからず、雲が薄くなりつつある頃、ふいに腹の奥に響くような音が被り物越しに耳朶を打ってクオンは目をしばたたかせた。


「おい何だ、何か聞こえたか?」

「知るか───!行け────!!!」

「風の音じゃない?変わった地形が多いのよ、きっと」


 ゾロ、ルフィ、ナミの話す声を聞きながら、いえ、とクオンはナミの言葉を内心で否定する。この先は双子岬があるだけで、目視できる範囲は一面海だけだ。
 はてとクオンが首を傾け、肩の上のハリーもつられて体を傾ける。と、再び先程聞いたものと同じ音がして、それを聞いてようやく思い出した。同時に、おい何だありゃ、とゴーグルで先を見たウソップが呟き、前方に山が見えるとメインマストのヤードに座りながら前を指差したサンジがナミに言った。


「山?そんなはずないわよ!この先の“双子岬”を越えたら海だらけよ」


 ナミの言う通りだ。クオンも双子岬を知っているからこそ同意する。だからこの絶え間なく続く音の主は、おそらく。


「ん? ─── 山じゃねぇ!!クジラだぁ!!!」

「やはり、ラブーン」

「知ってるのクオン!?」

「ええまあ、それなりに。ああ、戦おうなどとは思わないでください。彼は手を出しさえしなければこちらに危害を加えることはありません」


 そもそも戦えるレベルの大きさではないのだが。
 運河を下り、クジラに近づくにつれその巨体がよく分かる。額にできた凄まじい傷はその身を抉るようで、真新しい傷ができていることに気づいたクオンは被り物の下で小さく眉をひそめた。

 クジラはまだこちらには気づいていないようで、ただ進路を塞ぐように水面に顔を出しているだけだ。
 しかし、このままでは船がクジラにぶつかってしまう。それは大変にまずい。同じ危機感を抱いたゾロがクジラの左へ抜けられると指を差す。細い道だが、そこを何とかして通るしかないだろう。
 だが、舵は先程運河を登る際に壊してしまった。絶望するウソップに「何とかしろよ!おれも手伝う!!」とゾロが前方甲板を飛び降りてラウンジへと駆け出し、ウソップとサンジも合流して3人で折れたホイップスタッフの根元に手をかける。


「……まぁ、仕方がありませんね」


 何とか舵を切ろうとするが、船は曲がらないし止まりもしない。クオンは見てろと言われたから今までただ見ていたが、さすがにここは手を出すべきかと言葉を落とすと同時、「そうだいいこと考えた!!」とルフィが前方甲板を飛び降りてその下にある船室へ入っていった。
 ナミが何すんのルフィ!?と慌てて声をかけ、クオンはルフィが動くのであればと再び傍観の姿勢に戻る。

 ─── このとき、ルフィが入っていった部屋が砲列甲板であると知っていれば、クオンは全力でルフィを止めただろう。
 しかし変に警戒させる必要もないとこの船に乗り込んでから暫く後部甲板にのみ留まり、また船の構造を聞くことも当然しなかったクオンはそのことを知らず、知らなかったがゆえに、ルフィの行動を止められなかったし予想もできなかった。

 まさか─── あのクジラに大砲をぶっ放すなんて、微塵も考えはしなかったのだ。


 ドゥン!!!


「…………は?」


 唐突に響いた低い爆音に、さすがのクオンも被り物の下でぽかんと口を開けて固まった。
 大砲…と誰かが、もしかしたら全員が唖然と呻く声が聞こえた気がして、えっ、と素で驚く。
 大砲?を、ぶっ放した?クジラに向かって?え?……は?


「………………やりますねえ」


 クオンは考えることをやめた。現実逃避とも言う。
 まあ、最悪自分だけ逃げればいいだけの話なのである。そしてそれは不可能ではない。そう思えば、なんだか笑えてくるのだから不思議なものだ。クルーは絶望しているだろうが。温度差ここに極まれり。

 ルフィが大砲を撃ったことで多少船は減速したものの当然止まることはできず、クジラにぶつかった船首の首がバキッと折れて中央甲板にまで飛んでいった。ナミが頭を抱えて蹲っている。
 ハリー、どうしましょうかこれ。きゅぁー。やばいですよねえ。はりゃー。そう、呑気に会話をする1人と1匹にツッコミを入れる者は、誰もいなかった。






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