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「さて、ここはどこでしょうか」


 ひとり言じみた疑問を口にして立ち上がり、左肩に乗ったままのハリーを撫でて服についた雪を払う。
 ドルトンには申し訳ないが、借りた防寒着を掘り出す時間も惜しいからこのまま行こう。左手で首を撫で、ざくりと雪を踏みしめながらクオンが歩き出せば、ビビとウソップもそれについて歩き出した。
 雪は相変わらず止まずに振り続け、風も強い。お茶でも飲むかとふと思ったが、そういえばソリに置きっぱなしにしたため雪の下だ。自然災害に見舞われたのだからさすがに怒られはしないだろうが、一応こちらもあとでサンジに謝ることにしよう。





† ドラム島 9 †





 風の吹く方向と雪の絨毯に落ちる影の向きから方角を確認し、山を登っていったのだから下っていけばそのうち町に着くだろうと、とりあえず一旦人のいる場所へ向かうべく歩を進める。
 そうしてクオンを先頭に暫く歩いていた3人だったが、ふいに目の前の雪がぼこりと大きく盛り上がって驚きに足を止めた。


「うわっ!!何だぁ!!?」


 慌てて身を引いたウソップがクオンの背に隠れる。ビビも目を見開きクオンの背後に隠れ、もしやワポルの軍勢の誰かかと鈍色の瞳を鋭くして身構えたクオンはしかし、白い雪の合間から覗いた緑色に目を瞬かせて動きを止めた。


「ああー参った参った、この寒ぃのにいきなり雪崩とはついてねぇな。でもまあ、これもひとつの寒中水泳か」

「…………何をやっているのです、剣士殿」

「ん?……おう、クオンか」


 雪の下から現れたのは、現在メリー号で船番をしているはずのゾロだった。しかも上半身裸で。さらに足元を見てみればまさかの裸足。さすがのクオンも見ているだけで寒い。それと彼は何て言った?寒中水泳?
 クオンの目が思い切り呆れと怪訝に歪むのもさもありなん。確かに過負荷の筋トレは控えるように言ったが、誰が寒中水泳ならいいと言ったのか。いや、寒中水泳はダメだと言わなかったからやったのか。いやいやそもそもこの極寒の島でそんなことをやると誰が思うだろうか。


「あ、ビビ、ウソップ」


 クオンの内心など知る由もなく、そう呑気にクオンの背に隠れる2人の名を呼んだゾロに深いため息がこぼれる。


「お前ら何やってんだよこんなところで」

「「それはこっちの台詞だ!!!」」

「はぁ……」


 まるでこちらがおかしいと言わんばかりのゾロにツッコむ2人を背に、頭を抱えたクオンがもうひとつため息をついた。
 ルフィほどのトラブルメーカーとは言わないが、ゾロもゾロで目を離すと何をしでかすか分からない。短い付き合いでも分かるほどナミはルフィに振り回されてばかりいたが、この分ではクオンが見ていないところでゾロにも相当振り回されていただろう彼女の心労はいかばかりか、さすがに同情する。……いや待て、そういえばリトルガーデンでも結構な無茶をやってましたねそういえば、と己の足を斬って戦おうとした剣士のことを思い出して、成程そこから兆候はあったのですね成程納得、いや気づけるか!と内心でノリツッコミをした。被り物のお陰もあってまったく表には出なかったが。芋づる式に足の傷が塞がっていない状態でとんでもない鍛錬をしようとしたことも思い出して、クオンはもう考えないことにした。

 このままここで立ち話をしていても仕方がないと、クオンの背から出てきた2人と並び、4人は横一列になって歩き出す。
 で、何でお前はここにいるんだというウソップのもっともな問いに、寒中水泳してた、と寒さに震えながらゾロが返して幻聴じゃなかったんですねぇと遠い目をしたクオンは己の正常な耳を呪いたい気分になった。
 鼻の頭を真っ赤にして震えるゾロに自業自得だとは思いつつもジャケットの1枚くらいは貸してもいいが、体格差もあるからそれでは気休めにもならないだろう。腕組みをして身を縮こまらせ震えるゾロを見やり、仕方ありませんねと苦笑を落とす。


「寒中水泳!!?」

「ああ、それが川には魚がいたんだよ。こんな寒い村にもいるもんだなと思って追いかけてたら上がる岸を見失っちまって、歩いてたら森へ迷い込んで」

「お前バカだろ!!!」

「それよりウソップ、お前の上着をよこせよ」

「いやだね」


 小気味良くぽんぽんと弾むウソップとゾロの会話を流し聞きながら懐に手を入れたクオンはひとつの拳大の石を取り出した。縦に長い八角形のそれは短辺の真ん中に直径1cmほどの穴があいており、上下の穴を繋ぐように側面に細い筋が入っている。クオンが手に持つ石に気づいたビビが「あ」と声をこぼした。その小さな声を聞き逃さなかったゾロとウソップがビビを振り向き、その視線の先にあるクオンが何かの石を持っていることに気づく。


「何だそれ?」

「まあ、見ててください」


 首を傾げるウソップに短く言ったクオンの軽く上げられた指の間には、逆の手に持つ石の長辺より少し短い1本の真っ赤な針。しかしよくよく見ればゆらりと揺れる赤い光を放っていて、時折オレンジ色が混じるそれは、まるで細い針の中に炎が閉じ込められているようだった。その針を石の穴に差し込み軽く手をひねれば、筋に沿って半分に割れた石がひねられた方へ傾ぎ、パキ、と固いものが割れる音が響く。傾きを元に戻したクオンの手の中で石がほのかに赤く光り、じわじわとその色が石全体に広がっていく。まるで熱した石のようだ、と誰もが思ったそれをクオンがゾロに差し出す。


「どうぞ、剣士殿」

「あ?……ああ」


 渡された石を受け取ったゾロが驚きに目を見開いてあったけぇと呟く。クオンは軽く手の平で拳を作り、口元に当てる仕草をして言葉を続けた。


「石にあいた穴を口元に当てて、ゆっくりと呼吸をしてください。いいですね、10秒かけて息を吸い込むほどゆっくりです。吐くのは早くても構いませんが、息を吸うのが早すぎると…」

「早すぎると?」


 ウソップの鸚鵡返しに、クオンは真面目くさった声で答える。とはいえその声は、被り物によって低くくぐもったものだったが。


「肺が焼けて死にます」

「ンな怖ぇもん渡すなよ!!!」



 素早くツッコミを入れられ、はははと被り物越しに軽やかな笑みを返したクオンが呼吸にさえ気をつければ死にませんと言ってゾロの方を振り向けば、寒さに震える男は石を口元に当てて言われた通りにゆっくりと呼吸をしていた。疑う素振りのひとつもなくゆるやかに大傷が走る胸筋を膨らませ、「ってぇ!躊躇ゼロかよ!!」と騒ぐウソップを一瞥すらしない。「大丈夫よ、私も前に使ったことあるから」と慌ててビビに言われて、それならまぁとウソップが白いため息をついた。


「は……こりゃすげぇ」


 石を口元から外し、真っ白な息を吐いたゾロが口端を吊り上げて感嘆する。石の内部で燃える火は気道を通って肺を過ぎ、血液にのって全身を巡り末端にまで熱を伝える。瞬く間に寒さを吹き飛ばすそれは青褪めた体の血色を良くし、ゾロは強張った肩をほぐすようにぐっと背筋を伸ばした。


「本来は一時しのぎのものですからね、あまり持続時間は長くありません。早めに人のいる場所に着いて服を借りなければ」

「おー」


 自分のことだというのに軽い返事に肩をすくめたクオンを横目に見たゾロは熱を持つ石を見下ろし、少しだけ考えて、クオンの名を呼んだ。被り物をした顔がゾロを向く。


「お前があの3の野郎相手にも何とかするっつったのは、これがあったからか」


 クオンが見せた真っ赤な針は、おそらく火そのもの、あるいはそれに準ずる何かを封じ込めてある。普通に息を吸えば肺を焼くと言ったのは脅しでも何でもない、事実だと石から生み出される熱を吸ったゾロは理解した。
 あの針を投げて当たった場所には炎が上がるだろう。それがあれば熱に弱い蝋は溶けてしまう。成程、確かにクオンは何とかできる手段を持っていて、だからこそ捕まって絶体絶命の危機だというのに焦りが微塵もなかったわけだ。
 ゾロの言葉に、クオンを責めるような意図はない。ただクオンの手の内の一端を垣間見て、納得して、いまだ自身の悪魔の実の能力を秘匿する隠し事ばかりの執事と答え合わせをしたかった。違いますと返されたなら本当に違うのだろう、さあどうでしょうとはぐらかされたらゾロに対する信頼度が低いのだろう。そして、その通りですと肯定されたのなら。


「……剣士殿、ただの脳筋かと思いきやそうではなく、しかし少々頭が足りない部分もあり…賢いのかそうでないのかどうにも測りかねます」

「寒中水泳するくらいバカでアホだってはっきり言っていいんだぞクオン

「寒中水泳するくらいバカでアホなのに不意打ちで鋭いから驚きです」

「ありゃあもう、野生の獣の勘だぞクオン

「ウソップてめぇツラ貸せ」

「なんでおれだけ!?」

クオンの後ろに隠れてこそこそ言いやがるからだろうが!!!」


 眉を吊り上げて怒鳴るゾロに、ひぃと情けない声を上げたウソップが本当のことだろー!と反論しつつやはりクオンの後ろに隠れる。クオンは振り向かなかった。なぜか?ビビが瞳孔をかっ開いたものすごい目でクオンとウソップを見つめているからだ。仲良し?仲良しなの??私を差し置いてそんなに仲良しってどういうことなの???と無言で重い空気を放ちながら覗き込んでくるビビから被り物の下で必死に目を逸らす。
 ちょっとだけウソップから身を離せば、突然ゾロの方に寄ったクオンに目を瞬いたウソップがズモモモモ…と暗雲を背負って背後に迫るビビに気づいて情けない悲鳴を上げた。クオンの浮気相手…許さない…許せない……いっそ今ここで……とぶつぶつ言いながらウソップに迫る闇堕ちビビは一旦放置しておく。たぶん、おそらく、ドルトンに“浮気”した鬱憤もたまっているのだろうし、今は宥めるよりも怨嗟の念を吐き出させた方が効果がありそうだ。
 自分が原因であることをまるっと棚に上げてウソップを生贄に捧げることを秒で決めたクオンは、ウソップに掴みかかるビビを視界に入れないようにゾロの隣に立った。悪魔かお前は、と雄弁に語るゾロの目は無視する。


「先程の問いですが、答えはYesです」


 クオンは言いながらもう1本、赤い針を指に挟んで軽く掲げる。石にこもる熱をゆっくりと吸い込んで暖を取るゾロに針の腹を向け、針の内側でゆらゆらと揺れて燃える炎を見せた。


火針ひばりといいます。ハリーに作ってもらうのですが、材料がマグマなのでなかなか貴重なんですよ」

「……そういやあの島には火山があったな」

「ええ。お陰で心許なかった火針の数を増やせました」


 幸運でしたねハリー、と変わった固有の能力を持つ“偉大なる航路グランドライン”産ハリネズミの小さな手と自分の指を当ててタッチを交わす。材料を体内にストックし、それを元にクオンの望む針を生み出すハリネズミはえっへんと胸を張って大変に誇らしげだ。


「そんな貴重なもんを、よくおれに使ってよこしたな」


 言外にゾロの手の中にある石を示しながら言われ、クオンはきょとんと被り物の下で目を瞬かせた。


「あなただから使ったんですよ」


 ゾロが寒さに震えていた、だから使った。それ以外に理由はない。たとえ自業自得だとしてもそれが使わない理由にはなり得なかった。もっとも、クオンがもう1枚別に防寒着を着ていたならそれを渡して火針の石は使わなかったかもしれないが。
 クオンの言葉に目を瞠ったゾロが真っ白執事を見つめ、何かを言おうと開いた口から白い息がもれる。


「はいウソップさん、復唱して」

クオンハビビノモノ。ビビノ執事ダカラクオンハビビヲ一番ニスルベキ」

「おや、これは見事な洗脳」


 カタカタと操り人形のように虚ろに口を動かすウソップの目は死んでいた。この短い時間でよくもまあとビビの手腕に感嘆したクオンはゾロからビビとウソップへとすっかり意識を移し、ゆえに、緑髪の男がどんな顔をしているのかを目にしなかった。しかしクオンの肩に乗ったハリネズミはしっかりと見ていて、けれど鳴き声ひとつ上げず、いい加減わざと割って入られていることに気づきそうだなと小さく肩をすくめただけだった。





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