71





 白い息を吐きながらゆっくりと水筒のフタに注いだ特製ホットドリンクを啜るクオンは、頭から防寒着を被らされた執事を己の体の陰に隠すようにして雪に覆われた地面に改めて座り込むドルトンをちらと見上げた。ルフィ達が駆けていった先を見やるドルトンの目は、どこかへ思いを馳せるように遠い。


「…昔はね…ちゃんといたんだよ」


 ぽつり、こぼれた言葉にビビとウソップが「え?」と声を揃える。医者さ、と続けたドルトンの声が、わけあって全員いなくなってしまったんだと続き、表情を固くした彼は深いしわを眉間に刻んで顔を俯けた。





† ドラム島 6 †





 1年にも満たない数ヶ月前、この国は一度滅びている、とドルトンは語った。
 この国を滅ぼしたのは海賊であり、ゆえに、海賊であるルフィ達が現れたときにひどく警戒し過敏になっていた。みんな海賊という言葉にはまだどうもね、とドルトンはこぼすが、それも仕方のないこと。

 ビビとウソップがドルトンに体を向け、まだ話が続きそうだと察したクオンもフタ1杯分のドリンクを飲み終えると聞く姿勢を取った。ぽすりと被り物を被って借りていた防寒着をふたつとも返そうとすれば、そのまま着ていなさいと頭に被っていた防寒着を肩にかけられてしまう。随分と世話焼きなひとだなと思いながら、ルフィに指摘された通り疲れているのも事実であるし突き返す理由もないのでそのまま借りることにする。
 主であるビビを立たせたまま執事の自分が座るとは、と思いはするが、気づけば肩に乗っていたはずのハリーは立てた膝に寝そべって動く気配はなく、ビビも「クオンはそこで休んでて」と言うので今更立ち上がれない。


「…たった5人の海賊団だった。船長は“黒ひげ”と名乗り…我らにとって絶望的な力でこの国を瞬く間に滅ぼした」

「たった5人の海賊に…!?嘘でしょう……!?」


 記憶を手繰りながら話すドルトンにビビが驚愕して呻く。クオンも被り物の下で目許に険を宿した。
 極寒に覆われたこの国の国力は、決して小さくはない。国である以上軍隊、もしくはそれと同等のものはあるはずで、攻め込んできた海賊が5人だけというのなら多少の抵抗はできたはずだ。そして、滅ぼされるまでは医療大国の名を馳せていたのであれば、海軍に通報し助力を請う手段も時間もあったはず。しかしドルトンの口振りからその様子は窺えない。なぜ、どういうことだ。


「だが…この国にとってはそれでよかったと言う者もいる」

「国が潰れて……いいわけないじゃない!!」

「そうだ、そんなバカな話があるか……!!」


 努めて淡々と言うドルトンにビビとウソップが言い募る中、脳裏によぎった可能性を、クオンは無意識に口に出した。


「─── この国は、滅びるべきだった?」


 ドルトンの目がこちらを向く。否定はなかった。クオンに真っ直ぐに向けられる瞳は揺れず、けれど複雑な色をにじませている。
 言葉なき肯定をして、再び前を向いたドルトンが口を開く。


「それまでのこの国の王政が、国民にとって悲惨なものだったからだ。…元あったこの国の名は『ドラム王国』…王の名は『ワポル』!最低の・・・国王・・だった……!!」


 苦しげに絞り出すドルトンの声は悔恨に染まり、握り締められた拳が鈍い音を立てる。
 クオンは昨日遭遇した海賊・・を思い出す。ドラム王国の“永久指針エターナルポース”を求め、滅びた国跡が残るこの島を探していた男を。ワポルと呼ばれていたあれが、この滅ぼされた国の、かつての王だという。
 あれが王だとして、なぜ今海へ出ており、そして海賊を名乗っているのか。良い理由であるはずがないことを直感的に悟ったクオンの眉間にしわが寄る。

 そんなクオンをよそに、聞いたことのある名前を聞いたウソップがメリー号を食われたことを思い出して「ワポルゥ!!?」と嫌そうな顔をし、ビビはそれとは別の何かを思い出したようで目を見開き「そうだあの男…!思い出した!!」と叫んだ。
 その、どうにもワポルという男に心当たりがある2人の様子にドルトンが驚く。


「君達…!ワポルを知っているのか!?」

「知ってるも何も、おれ達の船を襲ってきやがった海賊の名だ。まーおれが追い払ってやったが…今思い出してみりゃ、確かにドラム王国がどうとか…」

「ええ…間違いないわ、はっきりと思い出した。私、子供の頃に父に連れられて行った王達の会議で一度彼と会っているもの」

王達の会議・・・・・…!?君はいったい…」


 ウソップに続いて話すビビが口を滑らせ、聞き逃せなかったドルトンが詰め寄ろうとするが、失言に気づいてはっとしたビビが慌てて「あ、いえ、その…とにかく……!会いましたワポルに!!」と強引に誤魔化して流そうとする。視線をうろつかせたビビの口が、だって、そんなことよりも…と小さく動いたのをクオンは確かに見て、ちらりとこちらを見たビビと被り物越しに目が合うとぱっと逸らされた。そうして再びドルトンへと視線が戻る。


「昨日のことです。ここへ来る途中に…」

「それは本当かね……!」


 ビビの言葉に驚き、言葉も出ない様子のドルトンがさらに眉間に深いしわを刻む。その顔は決して喜んでいるものではなく、苦々しいものだ。


「じゃあ、いったいどういうこと?この国は滅んだのに“王”は健在で、しかも海賊になっているなんて!!」

「海賊など一時のカモフラージュだろう。ワポルはこの島へ帰ろうとして海をさまよっているにすぎない」

「…だったら、あの船に乗ってた人達はこの国を襲った海賊に敵わず…島を追い出された兵達なのね…」


 ビビの疑問に答えたドルトンは、次いで発された言葉に顔を歪めた。唇を噛み、膝に置いた手が拳を握って震える。


敵わず・・・…!?違う!!!…あのとき、国王ワポルの軍勢は…戦おう・・・とすら・・・しな・・かった・・・…!!!」


 ぴくり、クオンの指が微かに跳ねる。被り物の下にある秀麗な顔からは感情が失せ、鈍色の瞳は剣呑でありながら波ひとつ立たず凪ぎ、異様な光を宿す。隣で静かに座る執事のまとう雰囲気が凍りついていくことに、思い出すたびに腹の奥底から湧き上がる怒りに震えるドルトンは気づかない。眉間に刻んだしわが激情に深まり、俯き噛み締めた歯を軋ませて唸る。


「こともあろうに…海賊達の強さを知った途端に…あっさりと国を捨て!!誰よりも・・・・早く・・国王ワポルは海へ逃げ出したのだ!!!あれには国中が失望した…!これが一国の…」

「─── それが一国の王のやることなの!!?」


 ドルトンの言葉を継ぐように、ビビが絶叫する。王女としての誇りと重い責任を誰よりも強く自覚し、自国の民を誰よりも深く想う彼女に被り物の下で笑みを描いたクオンは、しかしその不穏に凪いだ瞳を細めてどこか虚ろに胸中で囁く。


(いらないな)


 悪政を敷き民を苦しめ続けた王は、今まさに襲われている己の国を、民を見捨てて真っ先に逃げ出した。たとえ敵わないとしても、抗う力くらいはあったはずなのに。それをすべて自分のためだけに使った。自分さえ助かればよしとして。
 成程、確かにこの国は滅んでよかったと思う者がいてもおかしくはない。十分に納得できる。たとえ国が滅びても、そこに生きていた人はまだ生きている。これからまた始められる。身も心もひどく傷ついた彼らが抱いているのは絶望ではない、希望なのだ。
 それほどまでに強い民を持っていたはずのかつての王─── ワポルは、王が国民を見捨てるなんてと唸るビビとは正反対だ。たとえ脆弱な身だとしても、国のために強大な力に立ち向かおうとしている、僅か16歳の少女とどうしてこれほどまでに違うのか。
 だが、分かりやすくていい。これほどまでに格が違うのであれば、迷う必要も、考える余地もない。


それ・・いらない・・・・でしょう・・・・


 低くくぐもった、抑揚のない透明な声音が被り物越しに彼らの耳朶を叩く。はっとしたようにドルトンとビビが振り向いて、クオン?とウソップが突然声を上げたクオンに首を傾げる。クオンは被り物越しに虚ろに煌めく瞳でじいとドルトンを見上げた。
 クオンの胸は、瞳同様凪いでいた。ただひどく冷えている。ドルトンやビビが抱いた深い憤りなどなく、見た目からして痛んでいそうなリンゴを切ってみればやはり腐っていた、とても食えたものではない、だからゴミ箱に捨てる─── そんな、何の感慨もなく機械的な判断を下すようにいらないから殺すかとクオンは決め、あのときルフィがぶっ飛ばすのを止めてでも殺しておけばよかったと少しだけ後悔した。


「いいや。……確かに、あの王はこの国に不要だ。だが、君は何もしなくていい」


 しかし、ドルトンは首を横に振った。クオンに体ごと向かい合い、被り物を通しているから目が合うことはないが、それでも真っ直ぐに見つめて逸らさない。クオンは僅かに首を傾けた。純粋な疑問を投げかけるような仕草はどこか子供じみている。


「いらないのに?」

「もうワポルの悪政は終わった。この島はもう残った国民達のものだ。町村の復興も順調に進んでいるし、今団結して新しい国を作ろうとしている」


 クオンが「いらない」と断じる王は、もはやこの国の王ではない。この国は一度滅び、名を失くし、まったく別の新しい国となる。
 

「しかし、あれは帰って来ようとしています」

「そうだな。だから我々が一番恐れているのはワポルの帰還、王政の復古だ。人々が不安定な今、それだけは避けねばならん。この国に、新しく平和な国を築くために」

「だから」

「この国を護るのは、この国の人間がなすべきことだ」


 言い募ろうとするクオンを遮ってドルトンが言い、被り物に手を伸ばしてぼすりと叩いた。ほとんど力の入っていない、いきり立つ子供を宥めるようなその手に押されてクオンの頭が僅かに下がる。
 被り物の下で唇をとがらせたクオンは薄く苦笑するドルトンを見てため息をついた。この様子では絶対に譲らないだろう。それに、ドルトンの言葉に納得してしまった自分もいた。
 ワポルが目の前にいるわけでもないし、ここでこれ以上言葉を重ねる意味もないかとクオンが僅かに身を引けば、ドルトンも手を離して膝の上に戻した。そうして、じっとクオンを見下ろした彼はふと微かな笑みを浮かべる。


「君はまだ・・、私の言葉を聞いてくれるのだな」

「……?」


 ドルトンの言葉を聞き流そうとして、けれどふとした違和感を覚えてしまったからには気のせいにはできなかった。
 まだ、とはどういうことか。クオンとドルトンが出会ったのは今日、ほんの数時間前のこと。しかも初対面だ。交わした言葉は少なく、だというのにまるでクオンのことを知っているかのような口振りに軽く訝り、けれどそこを突っ込んで訊くことはせず揃えて立てた膝に顎を置いたクオンは横目にドルトンを見やる。


「あなたがこの国の王になればいいのに」


 少なく交わした言葉からも、ドルトンがこの国を、残された民を強く想っていることは窺い知れる。きっとこの国を襲った海賊達にも抵抗をし、王に見捨てられた民を最後まで護ろうとしたのだろう。傷ついた町村の復興も先頭に立って進めてここまできて、何より住民達に慕われていて、今度の選挙ではこの男を推す票が多く集まるのは想像に難くなかった。
 話していて裏のないさっぱりした男だとも判る。見目からして硬そうな男で、確かに堅物なところはあるが人々への対応はやわらかく、必死になっている海賊を受け入れる柔軟さも持ち合わせている。生まれながらのリーダー気質とは少し違うが、先頭に立つことを厭わず背に庇う者達を思いやるその心根が、端的に言ってクオンの好むタイプの男だった。つまりは、クオンの思う「良いもの」だ。

 肩に乗ったハリーを撫でながらつらつらと真顔で考えるクオンがこぼした呟きに目を見開いて驚いた男は、眉を寄せてどこか苦しそうに、それでも笑みを浮かべて震える声を唇にのせる。


「……光栄なことだ。しかし私は罪深く、その資格がない」





  top