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 サンジに叱られて家に入ってきたルフィとウソップにあたたかいお茶をふるまい、雪像が壊されて何も阻むものはない窓の外から遠くに聳え立つ山々を見ながら厳かにドルトンが口を開く。


「あの山々の名はドラムロッキー。真ん中の一番高い山の頂上に城が見えるか?今や…王のいない城だ…」

「ああ…確かに見える」


 無言で窓の外を見つめるクオンの目にも、確かに山の頂上に建てられた城が見えた。目算でも大きな城だと判るそれに、予想していた通り王はいないらしい。
 あのお城に何か…?とビビが問い、ドルトンはすぐに答えた。


「人々が“魔女”と呼ぶ、この国の唯一の医者─── “Dr.くれは”があの城に住んでいる」





† ドラム島 4 †





 煙突のような絶壁の山の上に建てられた城。“魔女”と呼ばれる医者がそこに住んでいると聞かされ、サンジは眉を寄せて遠目に見える城を睨んだ。


「よりによって何であんな遠いとこに…じゃあ、すぐに呼んでくれ!急患なんだ」

「そうしたくとも通信手段がない」

「あァ!?それでも医者かよ!?いったいどんな奴だ!!」


 一見してナミが危うい状態だというのは分かる。それでもあっさりと首を横に振るドルトンにサンジは焦燥をにじませ、問われたドルトンは腕を組んで答える。


「医者としての腕は確かなんだが、少々変わり者のバアさんでね…もう140近い高齢だ」

「ひゃ…140!!?そっちが大丈夫か!?」

「あと…そうだな…うめぼしが好きだ」


 最後の情報はいるのでしょうか、と思いながらハリーを肩に乗せたクオンは呼吸を荒く繰り返すナミを見下ろした。
 140歳近い老婆が医者とは、どれだけ長生きなのだろう。頭の中に腰が曲がって会話もままならないしわくちゃの老婆が思い浮かぶ。ナミを預けて大丈夫なのかと思うが、今はその“魔女”に縋るしかナミを救う手段はない。ドルトンが腕は確かだと言うのだからそれを信じよう。
 ビビがドルトンにさらに訊く。


「この国の人達は、病気や怪我をどうしてるの?」

「彼女は気まぐれに山を下りてくる。そして患者を捜し、処置を施しては報酬にその家の欲しいものをありったけ奪って帰っていく」

「そりゃたちの悪いババアだな」

「おいおい、まるで海賊だな!」


 ウソップに続いてルフィが的確な表現をして、同意するようにクオンは深く頷いた。


「その魔女殿は、どうやってあの山から下りてくるのです?」


 あれだけの絶壁の上にある城と村とを行き来しているのなら、そこを通って訪ねていけばいい。医者である老婆が山を下りてくるのを待つ暇はなかった。


「妙な噂なんだが…月夜の晩に、彼女がソリに乗って空を駆け下りてくるところを数名が目撃したという話だ」


 それが魔女と呼ばれる由縁だと話すドルトンはさらに続けた。


「それに…見たこともない奇妙な生き物と一緒にいたという者もいる」

「ぐあっ!やっぱりか!!出た!ほらみろ!!雪男だ!!!雪山だもんなー!!いると思ったんだ、魔女に雪男だと!!?ああ、どうか出くわしませんように!!!」


 頭を抱えて叫ぶウソップは今のところ無視しておくことにして、先程聞いた話を反芻する。ソリに乗って空を駆け下りるということなら、ソリを引くものが必ずいる。それが動物なのか、ドルトン曰く「見たこともない奇妙な生き物」なのかは判然としないが。
 しかし、空を駆け下りる、とはどういうことだろう。魔女と呼ばれる医者が空を飛べるすべを持っているのであれば、ただの人間はあの絶壁を登るしかない。


「確かに唯一の医者ではあるが、あまり関わりになりたくないバアさんだ。次に山を下りて来る日をここで待つしかないな」


 淡々とした冷たい物言いだが、通信手段がないとなればそれも仕方がない。さらに一度診てもらえば多額の報酬を支払わねばならぬときたら誰も積極的に診てもらおうとは思わないだろう。そんな、と声を漏らすビビの肩をクオンは優しく叩き、熱に魘されるナミを見て、左手で首を撫でた。


「大体よ、国中で医者がひとりなんておかしすぎるぜ!」


 サンジの言葉もさもありなん。だがそこに文句を言っていても仕方がない。ないものはないのである。ならば、あるものでどうにかするしかない。クオンは窓の外を見やって山を見つめ、ふ、と細い息を吐いた。


「それでは、私があの城へ行きましょう」

クオン?」

「私ひとりならあの山を登ることは難しくありません。魔女殿に航海士殿の病状を伝え、急ぎこちらに来ていただきます」


 己の能力を用いれば、あの絶壁だろうと登りきれる。ナミを背負っていくことも考えたが、それではどれだけ気をつけてもナミに負担が必ずかかる。行くよりは来てもらった方がいい。
 どうやって山を登るのかは分からないが、クオンがそう言うのならできるのだろうと、一番手っ取り早く確実な方法を提示するクオンに、それなら、という空気がその場に流れた。
 ─── しかし。


「ダメだ」


 切り捨てるように却下され、クオンはルフィに顔を向けた。なぜ、と不可解げに被り物の下で眉を寄せる。真っ直ぐにクオンを見据えるルフィの眼差しは静けさを湛え、ほんの僅か、見透かすように細められた。


クオンお前、疲れてるだろ。だからダメだ」

「────」


 思わず息を詰めたクオンを、驚愕に目を見開いたビビが見つめる。クオンは違います、と否定するために口を開き、だがルフィの強い眼差しに射抜かれてはくりと空気を噛んだだけで。ビビの問うような視線には気づかないふりをした。


「……多少の疲れは、認めます。ですが私が魔女殿のところへ行った方が早いし確実なのです、船長殿。分かってください」

「いいや、ダメだ。そしたらお前が倒れるだろ」


 言い募るクオンを、やはりルフィはすっぱり切り捨てた。さらにもう一発的確な爆弾を投げられて今度こそ閉口する。
 一度言葉に詰まった以上ルフィの言葉は否定しないが、ナミの命がかかっているのにはいそうですかと簡単に引くわけにもいかない。
 被り物の下で眉をひそめ、ひとりで勝手に行くかと決めかけたクオンの行動を見抜いたようにルフィがにっと笑う。


「大丈夫だって。おれが何とか・・・する・・から」


 クオンの口癖じみた言葉を真似るルフィに、もはや言うべき言葉は何もない。ここで無理やり我を通す方が悪者になるような気がして、ひとつ深いため息をついたクオンは無言で両手を上げて降参を示した。ししし、と笑うルフィに、ではどうするのですかとクオンが問いかけ、ルフィは問いに答えずクオンからベッドに横たわるナミを振り返って彼女に近づく。いったい何をするつもりなのかと行動を目で追えば、


「おいナミ!ナミ!!聞こえるか?」


 ぺちぺちとナミの頬を叩いて起こすルフィにさすがに目を瞠る。
 「お前は何をやってんだ───!!!」とビビとサンジとウソップが当然の声を上げる。意識を保つことも難しい病人を無理やり起こすなどぶん殴ってでも止めるべきことだが、掠れた声を上げてゆるゆると目を開くナミと「お!起きた」とナミを見下ろすルフィの間に入り込むことができずにクオンは成り行きを見守った。何の考えもなくルフィがナミを起こすわけではないと分かっているからだ。
 目を開けたものの、熱で意識を朦朧とし、ぼうと視線をさまよわせるナミの顔をルフィが覗き込んだ。


「あのな、山登んねぇと医者いねぇんだ。山登るぞ」


 やはりか、とクオンは思った。いつ山を下りるかも分からない医者を待つなど、ルフィならしない。かと言ってクオンに山を登って医者を呼んでもらうことは許さない。だからその選択をするだろうと半ば確信していた通りの言葉を紡いだルフィを黙って見つめるクオンとは違い、声を荒げたサンジがルフィに詰め寄った。


「無茶言うなお前、ナミさんに何さす気だァ!!」

「いいよ、おぶってくから」


 簡単に言うルフィに、それでも悪化するに決まってるわとビビも声を荒げた。


「何だよ、早く診せた方がいいだろ」

「それはそうだけど無理よっ!あの絶壁と高度を見て!!」

「いけるよ」


 無謀とも言える山登りを止めようと必死に言葉を重ねるビビに、それでもルフィは構わない。クオンだって行こうとしてただろ、と言ってクオンとあなたじゃ違うのよ!とビビが叫ぶ。
 サンジもてめぇが行けてもナミさんへの負担は半端じゃねぇぞと言い、もし落っこちても下は雪だしよとルフィが返して、あの山から転落したら健康な人でも即死よ!とビビが声を荒げ、常人より6度も熱が上がった病人だぞ!?とウソップが言い募る。それならまだクオンに医者を呼んできてもらった方がマシだと言うサンジに、ルフィはそれは絶対ダメだと頷かなかった。ルフィがダメだと言うならクオンもその手段が使えず、軽く肩をすくめる。
 ルフィに詰め寄る3人の声を聞きながら、ナミの顔を覗き込んだクオンは額ににじむ汗を優しく拭い、そっと声をかけた。


「船長殿があのような無茶を仰ってますが。どうされますか、航海士殿」


 被り物のせいで低くくぐもった声に乗る感情は削がれるが、それでもいたわりのにじむ優しさは削ぎ落としきれず、ナミが無理だと首を振るなら何としてでも止めようかとクオンは思って、ゆらゆらと揺れる瞳をルフィに向けるナミが唇をゆるませたのを見て彼女の選択と覚悟を悟った。
 ふふ、と掠れた微かな笑声を聞きとめたサンジ達がはっとしてナミを見つめる。ナミは苦しそうに呼吸をしながら、それでも笑ってルフィに向かい軽く手を掲げた。


「……よろしくっ」

「そうこなきゃな!任しとけ!!」


 ナミとルフィが手を叩き合い、ぱしんっと小気味いい音が鳴る。ナミがそう言ってルフィが請け負ったからには他に選択肢はなく、これからの行動が決まった。
 船長が船長なら航海士も航海士だとウソップが呆れ、自分の体調分かってんのか!?ナミさん!!とナミを止めようとするサンジを一瞥し、クオンは再び力なく目を閉じたナミを見下ろした。


「……私があなたを医者に診せると約束したのに、果たすことができず」

クオン、ナミと約束してたのか?分かった、おれがお前の分も持ってく」


 当然のように笑って言い切ったルフィに、被り物の下で目を細めてクオンは微笑んだ。
 あの絶壁を能力者といえどルフィが登りきることは簡単にはいかないだろう。それでも彼がそう言うのであれば、きっと己の言葉を違えるようなことはしないのだ。「良いもの」を前に、この胸を灼いた光がいっそう輝きを増す。


「どうか、航海士殿をお願いします。……私が言えた義理ではありませんが」

クオン、そういうのやめろよ」

「は…?」

「お前がこの島までナミを運んできたんだ。それに、ナミが一番苦しいときに傍にいたのもクオンなんだろ?だったらあるじゃねぇか、お前の言う義理ってやつ」


 憶測を、さも当然の事実を述べたにすぎないと言わんばかりの声音で紡がれ、返す言葉をなくしたクオンは大きく鈍色の瞳を揺らした。被り物をした頭を俯かせて視線をさまよわせ、ゆるりとナミに固定して見下ろす。
 そうだろうか。ナミと約束していたからとみんなに黙って、薬を与えて苦しみを長引かせて、勝手に船の進路を変えて。それなのに─── それでも。事実の中にある真実を汲み取って、他の何者でもないお前が、ナミをルフィに託してもいいと言う。仲間ですらない、同乗者に過ぎないはずなのに。

 ぐっと胸が詰まる。被り物をしていてよかったと心底思う。ひどく情けない顔をしている自覚があった。
 クオンは固く瞼を閉じ、ゆっくりと開いて、顔を上げてルフィを見つめた。被り物越しだというのに、その夜を切り取ったような深い黒と目が合う。


「航海士殿をお願いします。頼みましたよ、船長殿」


 被り物によって感情を削がれた声はにじむ震えすら掻き消して、けれど、たとえ素の声を知らずとしても伝わっただろうと、鮮やかな笑みを浮かべるルフィを疑うことはなかった。





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