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クオン、これ取るぞ」


 ナミを医者に診せるべくダッシュで女部屋へ駆けていったサンジを見送り、先程能力を使って止めた銃弾をこっそり海に投げ捨てたクオンは、「もう治った」とゾロに軽く上げられた足を向けられて目を瞬かせた。包帯を巻かれた傷はそんな数日で治るようなものではなかったのだが、クオンが言った通り傷が塞がるまで律儀に鍛錬を加減してくれたゾロにこれ以上待てをさせるのも酷かと頷く。


「抜糸はまだですよ」

「分かってる。動きにくいんだよ、これがあると」

「動かさないための包帯なのですけれどね」


 被り物の下で苦笑し、いきなり過負荷の鍛錬は控えるように、とだけ言い置いたクオンはナミを背負って甲板に出てきたサンジへと意識を向けた。「クオン、行くぞー!」とルフィに呼ばれて踵を返す。


「それでは行って参ります。船番よろしくお願いしますね」

「ああ、行ってこい」


 何のてらいもなく自然に返されたその言葉に、クオンは無意識に笑みを浮かべていた。





† ドラム島 3 †





 しんしんと雪が降り積もる中、先導する男に従ってクオン達は雪道を歩く。真っ白な雪に覆われた道は林立する木がないだけの道なき道だが、こうも深い雪に覆われているとそれも仕方ない。男を先頭にルフィ、クオン、ビビ、ナミを背負ったサンジ、ウソップが歩き、後ろにはそれぞれ得物を担いだ島の住民達が続く。
 何かあれば後ろからずどんだが、向けられる警戒心は薄かった。それよりもちらちら、じいっとクオンの被り物に─── 正確に言えばその下にある美貌見たさに向けられる視線の方が多く、それから庇うようにクオンの右腕にビビが抱きついている。クオンは無言でビビの防寒着のフードを整えてぽんぽんと撫でるように頭を優しく叩いた。

 しかし、さて。この国はドラム王国、優秀な医師を多く抱える医療大国と聞いていたが、現在この国にいる医者が魔女と呼ばれる人物ひとりというのはどういうことだろう。
 気にはなるが、踏み込んで訊くにもまずは腰を落ち着けてからだと雪を踏みしめ歩いていると、そういえばなんて国なんだとサンジが問い、白い息を吐きながら男が答える。


「この国に、名前はまだない」

「……?」

「名前のない国?そんなことってあるんですか?」


 ビビの疑問ももっともだ。武装した男達の様子を見るに築かれた文明は短くない。だというのに名前がないとは。それに、ここはドラム王国という名ではなかったのか。疑問に思いながらも口を閉ざすクオンの目が、ふと前方から静かに歩いてくる熊を認めて瞬く。もこもことした冬毛に覆われた巨体に相応しい大きさのピッケルを杖がわりにつきながら歩く熊は一見して奇妙だが、人を襲うような獰猛さは感じられなかった。


「ぎゃあああ!!!熊だあああっ!!!みんな死んだふりをしろぉおお!!!」


 熊に気づいたウソップが叫んで雪に覆われた地面に倒れ込んで死んだふりをするも、先導する男は近づいてくる熊を気にしたふうもなく教える。


「ハイキングベアだ。危険はない。登山マナーの一礼を忘れるな」


 言いながらすれ違う熊に頭を下げる男に倣ってクオン達も頭を下げる。クオンの肩に乗ったハリーもきちんと頭を下げた。するとハイキングベアもこちらを向いて一礼を返してくれて、見目の割に礼儀正しく穏やかな様子にクオンの目がハイキングベアの背中を追う。


「もこもこ…」

「待っててクオン、今からありったけのもこもこを着込んでくるから」

「私は着膨れしたあなたより今のあなたの方が抱きしめやすくていいのですが」

「やめるわ」

「そうしてください」


 真顔で手の平を返すビビを慣れた様子であしらうクオンの腕に抱きつきながら、ビビはふと首を傾げた。


「ねぇクオン、やっぱり何か着ない?随分と冷えてる」


 いつもなら感じられる体温が低く、眉を寄せて言うとそうですねと軽く返される。クオンが寒さに耐性があって大した寒さを感じないことは知っているが、それでも氷のように冷たい腕に心配になった。特にこの地は極寒で、しっかり防寒をしないと風邪をひくどころか凍死してしまう。
 体温を分け与えるように身を寄せるビビを見下ろして、左手で首を撫でたクオンは「歩いていればあたたまりますよ」と微笑んだ。

 そうして戯れているうち、一同はとある村に辿り着いた。円錐形の屋根が特徴的な煉瓦造りの家が立ち並ぶその村は、ビッグホーンというらしい。


「ここが、我々の村だ」


 村の中では人々が穏やかな日常を営んでいる様子が窺えた。独特の発展を遂げた動物や毛深いカバのような生き物もいて、なかなかに興味深い。
 歩いたお陰か、クオンの腕から伝わるじんわりとした体温にほっと息をついたビビが体を離す。
 被り物越しに白い息を吐きながら、クオンはサンジに背負われたナミの様子を窺う。意識はほとんどないし呼吸も荒い。白手袋に覆われた手で額ににじんだ汗を拭う。早く医者に診せなければ。


「じゃあみんなご苦労さん。見張り以外は仕事に戻ってくれ」

「ひとりで平気かい、ドルトンさん。海賊だぞ」

「彼らにおそらく害はないよ。長年の勘だ、信じてくれていい…」


 ドルトンさんがそう言うなら、と頷いた彼らが後は頼んだよ、何かあればまた呼んでくれと口々に声をかけて解散していく。随分と慕われている、と銘々持ち場に戻っていく様子をクオンが眺め、ビビは驚いたように見回して「国の守備隊ではなかったんですね」と声をかけた。民間人だ、と手短に答えた男はひとまずウチに来たまえと踵を返す。
 クオンもそれに続こうとして、ルフィとウソップが何かに一礼しているのが見えて動きを止めた。それはそこら辺の男よりも大柄な女性で、雪を踏みしめながら近づいてくる。


「あらドルトンさん、海賊が来たと聞いたわ。大丈夫なの?」

「ええ、異常ありません。ご心配なく」


 まさかそこで女性をハイキングベアと勘違いして一礼しているのが例の海賊だとは思ってもいないようで、声をかけられた男も苦笑じみた雰囲気で返す。すると今度はまた別の老人に声をかけられた。


「やあドルトン君、2日後の選挙は楽しみだな。みんな君に投票すると言っとるよ」

「と…とんでもないっ!!私などっ!私は罪深い男です…!!」


 慌てて体の前に掲げた両手を振る男を、難しい顔をしてじっとビビが見つめていることに気づいたクオンはもう一度男の方に顔を向けた。
 ドラム王国と呼ばれていたはずのこの国に何かしらの事情があることは察する。選挙とは、おそらく国の代表を決めるためのものだろう。本人にはその気があまりないようだが、軽く見た程度の慕われぶりを目にすれば誰もが彼をと推しているのは分かる。


「……そういえばこの国には、王はいないのですね」


 それは、ふとした呟きだった。ドラム王国という名を冠していた以上、この国には代表である王がいるはずで、けれど「この国に名前はまだない」と言い切り、警備隊に民間人を起用していること、また選挙を控えている今、おそらく王は存在しないとみていい。
 王が何らかの事情で亡くなり、世継ぎもいなかったため王制が廃れたのか、それとも。そんな単純な理由ではない気がしますがと思考をめぐらせていたクオンは、足を止めた男の強張った顔を見て目をしばたたかせた。ぎりりと握り締められた拳に力が入って軋む音がする。


「ここはドラム島。国に名前はまだなく、王もまた、いない」


 吐き捨てるような声だった。唾棄すべき何かを思い描いてきつく眉を寄せた男の絞り出した言葉に、そうですかと淡々と返したクオンはそれ以上何も言わず口を閉ざした。
 腰を据えたら色々と訊こうと思ったのだが、この分ではやめておいた方がよさそうだ。こちらに何らかの益があるわけでもないのに、言いたくないことを無理やりに聞き出すような趣味はない。かつて医療大国と呼ばれたドラム王国に何かが起こり、終わり、そして始まろうとしているこの国に、目を開ければそこにある平穏な日常がもたらされればそれでいいのだ。
 最優先すべきはナミを医者に診せて治療してもらうこと。それだけを考えればいい。
 再び歩みを再開した男について行きながら、クオンは白い息を吐き出した。










 案内された一軒の家は周囲のものと変わらない大きさだった。ドアを開けて家に入ると「そこのベッドを使ってくれ」と指で示され、クオンが手早く布団をめくり、サンジが背負っていたナミを優しく下ろす。布団をかけ直してナミの額に触れればひどい熱を持っているのが分かった。解熱針を打ちたいが、これから医者に診せるのであれば余計なことはしない方がいいだろう。今部屋を暖める、と言って暖炉に火を入れた男に礼を言う。


「申し遅れたが、私の名はドルトン。この島の護衛をしている。我々の手荒な歓迎を許してくれ」

「こちらこそ、突然の来訪に驚かれたでしょう。我々は海賊、あなた方の警戒は当然かと」

「そう言ってくれると助かる」


 背負った武器を下ろしたドルトンは、ふとクオンからビビへと視線を滑らせて「ひとつ聞いていいかね」と問いかけた。振り返り目が合ったビビが首を傾げる。


「どうも私は、君をどこかで見たような気がする…」


 じっと顔を見つめてくるドルトンに、どきりと心臓を跳ねさせたビビが慌てて顔を背けながら「き、気のせいです」と声を上擦らせる。
 クオンは内心で首を傾げた。はて、この男はビビの─── アラバスタ王女の顔を知っているのか。アラバスタ国民が王女の顔を知っているのは何もおかしくはないが、隣国でもないまったく別の国の人間であるドルトンが知っているというのはどういうことだろう。疑問に思いながらも口にはせず、クオンはさりげなくビビの傍に寄ってドルトンの視界からビビを隠した。


「それより、“魔女”とは?この国の唯一の医者ということですが」

「さっきナミさんの体温を計ったら、42度もあったんです!」

「体温が…42度!?」


 クオンが話題を変え、ビビが乗っかってナミの状態を口にすれば、さすがにそこまでの高熱だとは思っていなかったのだろう、ドルトンの顔色が変わった。


「昨日倒れてから熱は上がる一方で…」

「これ以上 上がると死んでしまうぞ」

「ええ。病気の原因はおそらく何らかの虫による感染症だと推測されます。ですが船に医者はおらず、対処法も分かりません。できることといえば、私の手持ちの薬で熱を抑える程度。それも、今ではほとんど焼け石に水ですが」

「何でもいいから医者がいるんだ。その魔女ってのはどこにいんだよ!!」


 身を乗り出して問うサンジに、ナミを見下ろしていたドルトンが屈めていた腰を伸ばして答える。


「魔女か……窓の外に、山が見えるだろう?」


 促され、一同は窓の外を見ようとして、窓越しに山─── ではなく、どんと立ちはだかる大きな雪だるまを見た。あのやけに高い、と言いかけたサンジがそれに気づいて言葉を止める。


「“ハイパー雪だるさん”だ!!!」

「雪の怪物“シロラー”だ!!!」

「てめぇらぶっ飛ばすぞ!!!」


 実に楽しそうなルフィとウソップの声が外から聞こえ、ふたつ並んだ傑作にそれぞれ乗ってハイタッチを交わす2人をサンジが怒鳴りつける。クオンは窓を覗き込んで2人を見て、ルフィの麦わら帽子に己の相棒が乗っているのを認めるといつの間に外にいたのかと目を瞬かせる。どうやらルフィの雪だるまづくりを一緒に楽しんでいたようで、ハリーも手伝ったのだろう彼らの作品に微笑ましげな笑みが浮かぶ。


「どちらも素晴らしい雪像ですね」

「……!見ててクオン、私にかかればあれくらい…!!」

「張り合わない張り合わない」


 今にも外に飛び出していきそうなビビを見ることもなく止め、足取り荒く外へ出て行くサンジを見送ったクオンは、このあと数秒もせず壊されることになる雪像を眺め、サンジの鋭い蹴りが入って折れた恐竜を模した“シロラー”の首からドルトンへと振り向いた。


「あたたかいお茶をふたつ、ご用意願えますか。あの腕白な少年達に」

「……ふ…、ああ、お安い御用だ」





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