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 クオンは多少の航海術は持つが、本職の航海士には劣る。ナミが臥している今、日が暮れてからの航海はできないとして早々に錨を下ろすことになった。
 また先程のような海賊連中が現れないとも限らないため、クオンは日が暮れたあと、クルーが食事を終えるまでの見張りを買って出た。他の面々はラウンジで済ませ、ナミ用に作った病人食をビビが運ぶ。
 見張り交代のために食事を終えて甲板に出てきたウソップが「キノコシチューだった……」と眉間にしわを寄せて不満げに言い、それはとてもおいしそうですねと見張り台から飛び降りたクオンが思っていれば、どうやらキノコが嫌いらしく少しだけ愚痴られた。


クオンの分はあっためて置いてるから、冷める前に食べろよ」


 特にこの気温だと、暖房設備もほとんどないラウンジは冷えている。ウソップのあとはサンジが替わってくれるようで、ではそのあとはまた私が、と言いかければ、サンジの次はゾロと決まっているとのこと。ゾロに替われば朝になるまで交替はないと続けられ、どうやら今夜はゆっくりできそうだ。





† 執事の指針 9 †





 夕食のキノコシチューは絶品だった。添えられたスパイス入りの特製ホットドリンクはリンゴがベースなのだろう、甘酸っぱい爽やかな甘みの中に加えられたみかんの味わいが飽きさせない。ポットからテーブルに用意されていた少し大きいカップに注ぎ、湯気を立てるそれを嚥下すれば、胃の中からじんわりと染み渡るようにあたたかさが広がった。
 小食のクオンにしてはキノコシチューを完食した上にカップ1杯分をするりと飲み切り、さらにもう1杯おかわりまでして、ほうと息をつけば吐いた息が白く染まる。手袋越しにカップに触れた手があたたまっていく様子に、どうやら随分と体を冷やしていたことを自覚した。

 手早く食事を終え、食器はシンクに置いておけとメモが残っていたのでその通りにして、食事中外していた被り物を被ったクオンもまたナミを看るために女部屋へ向かった。

 できることはないと分かっていながらナミの様子が気になるようで、ルフィやウソップはもちろん、ゾロまで女部屋へやってきた。高熱に魘されて汗をかいた体を拭くときはさすがに追い出したしもちろんクオンも一旦部屋の外に出てビビに任せたが、それが終われば全員で戻り、病人の部屋に大勢が詰めるのはと思いながらもクオンは何も言わなかった。純粋に仲間を心配している彼らの気持ちは分かるし、ナミも目を覚ましたときに仲間がいた方が安心できるだろう。

 そうこうしているうちに夜も更け、ひとり、またひとりと眠りにつく中で、最後までナミを看ていたビビの首がかくりと折れてベッドに沈み、すうすうと寝息を立てていることを確認したクオンはそっと毛布をかけた。
 日付が変わると同時に絞られていたランプの火を完全に落とす。時計を見れば2時を過ぎていた。今見張り台に立っているサンジとゾロが交代するまであと2時間。

 男達のいびきが響く女部屋をぐるりと見回す。床に横になるカルーにゾロが凭れて眠り、ウソップが机に寄りかかって寝ていて、その体勢では明日つらくなるだろうとあとで横たえることにして、視線を下にずらせば床に大の字で眠るルフィがいた。先程毛布をかけたはずなのだが体の横に放られている。こちらもあとでかけ直すとして、しかしたぶん意味がなさそうなのでかけ直すのは一度にしよう。
 床に座り込んでベッドに凭れ、毛布を膝にかけたクオンはちらりと荒い呼吸を繰り返すナミを顔だけで振り返った。


(明日には着くはず……あとは上陸さえできれば)


 自分自身は違うとはいえ、この船が海賊船であることは間違いない。喜んで迎えられると思えるほど楽観的でもなかった。特に観光地でもない医療の国が、海賊を迎え入れる理由は薄い。だからひと悶着はあるかもしれないと思いながら、それでもナミを救うためならいくらでも頭を下げるつもりだ。クオンはただ、この船の航海士を救いたいと思っている。
 ナミの枕元で眠るハリネズミがぷすすと気の抜ける寝息を立てる。それに少しだけ被り物の下で微笑み、ハリーを優しく撫でると、そのまま腕を伸ばしてナミのこめかみから流れる汗を拭い取った。










 空気が変わったことに気づいて意識が浮上し、いつの間にかまどろんでいたことに気づいたクオンはしかし瞼を開くことなくじっとしていた。被り物が取られ、下を向いた素顔があらわになる。煌めく鈍色の瞳は白い瞼に覆い隠され、頬にかかる雪色の髪が微かに揺れた。
 目を閉じたまま気配を探れば、ルフィ達のいびきが耳朶を叩く。隣にあるビビが寝息を立てているのが聞こえて、ベッドの上で上体を起こしたナミの気配を感じ取った。
 ベッドに凭れるクオンの被り物を取ったナミがそろそろと手を伸ばして雪色の髪に触れる。冷気に染められその色に相応しいほど冷たい髪を数度梳いて、意を決したように形の良い頭をゆっくりと撫でた。


「……ありがとう」


 ひそやかな、部屋に響くいびきに掻き消されてしまうほど小さな声は、クオンの耳に確かに届いた。熱を帯びた手が離れたと思えばこつりと後頭部に何かが当たり、それがナミの額だと分かって一瞬だけ呼吸が途切れる。しかしナミには気づかれず、ふうと熱い息を吐き出した彼女は数秒そのままでいて、ゆっくりと離れると外されていた被り物を被らされた。
 再びナミがベッドに横たわって布団を被る音まで聞き、そこでようやくクオンは被り物の下で瞼を開いた。凪いだ鈍色の瞳があらわになる。


(礼など、まだ早いでしょうに)


 そも、何に対する礼だろうか。ナミとの約束を通したことか。しかし、それならばまだ半ばだ。クオンはナミを医者に診せると言った。それはまだ果たせていない。だから、ナミからの礼を受け取ることはできない。
 ─── ああ。だからか、とクオンは思う。今礼を言ったところでクオンが決して受け取らないと分かっているから、クオンが眠っているときにこぼしたのか。


(それとも)


 クオンがこうして、彼女の傍にいることに対する礼なのだろうかと、一瞬そう思って、クオンはそれ以上考えることをやめた。それは何だか、自意識過剰な気がしたからだ。
 正確な意図が分からない上に、ナミはクオンが眠っていると思ってこぼしたのだから本人に伝えるつもりもなかったのだと判断して、考えることをやめたクオンは再び瞼を閉ざした。しかしそれでも、確かに胸に宿ったあたたかさを気にしないことには、できそうにない。










 静かに朝がきて、不寝番を務めたゾロが眠り、後部甲板から朝焼けを眺めていたクオンが見張りを代わってその間に全員が食事をとる。入れ替わりでクオンが食事を終えた頃にゾロが起き出して挨拶を交わし、サンジが用意した朝食の前に座るのを背に甲板に出た。

 島が近づいているのだろう、雪は止んだが昨日よりも冷え込んでさすがに全員きっちり防寒具を着込んでいる。ルフィだけは寒さを感じないのかいつもの格好で見ているだけで寒いが、彼は今女部屋でビビと共にナミを見ているから目にすることはなかった。
 サンジが見張りに、ウソップは既に道具を手にしていて、カルーも手伝ってくれるのか甲板に積んである板の前にいた。


「お待たせしました」


 肩にハリーを乗せながらひと声かけ、ワポルに食われて横っ腹があいたメリー号へ目を向ける。船大工がいないのでうまい修繕の方法など分かるはずもなく、とりあえず板で塞いでいくしかないだろう。


「しかし、このまま塞ぐとしても、板をそのまま使うには長すぎる部分がありますし直線のみだとどうにも不格好になりそうですね」

「確かにそうだな。いくらかノコギリで切るか?」


 それは良い案だが、ノコギリで切るにしても切断面が粗くなるし時間もかかる、曲線に切るのも素人では難しい。突然何が起こるか分からない“偉大なる航路グランドライン”、天候が安定しているからとのんびり時間をかけることはできなかった。ふむ、と思案するクオンの肩からハリーが降りて積まれた板の上に乗る。


「少々お待ちください、すぐに戻ります」

クオン?」


 ウソップに声をかけ、甲板に出てきたばかりのクオンは身を翻すとラウンジへと戻った。中には食事をしているゾロがいて、戻ってきたクオンを訝しげに振り向く。


「剣士殿、刀を一本お貸し願えますか」

「何に使う気だ」

「板を斬るのに少々。できれば斬れ味鋭いその妖刀を」


 ゾロの顔が思い切り呆れに染まる。それはそうだ、ノコギリ代わりに使おうと言うのだから。それも、普通なら一番避けるべきだろう妖刀を所望するとは。
 妖刀の斬れ味はウイスキーピークでゾロの戦いを見ていたから知っている。特に力をこめずともスパスパ斬ってくれるだろう。扱いは難しそうだが、クオンにノコギリの代わりになってほしいと願われた妖刀は沈黙しているのだからたぶん大丈夫、と根拠のない自信を抱く。あとは持ち主の許可だけで、これで断られれば素直にノコギリを使おう。

 そう考えていると、ゾロが無言で腰に差した刀を一本引き抜いてクオンに差し出す。反射的に受け取ったそれはクオンが願った通りの妖刀で、被り物の下で意外そうに目を瞬かせた。
 刀は剣士の命であり誇りだ。断られても仕方がないと思っていたのだが、まさかあっさり貸してくれるとは思わなかった。クオンの手の中で、妖刀が音なき笑い声をクオンに届ける。


「ありがとうございます。お礼は後日」

「別にいい……いや、そうだな。貸しにしとく」


 にやりと口端を吊り上げて笑うゾロに頷きを返し、用件を済ませたためラウンジを出ようとしたクオンは、ふと手の中の妖刀を見下ろして疑問を口にした。


「そういえば、この妖刀の名は?」

「鬼徹だ。三代鬼徹」

「鬼徹…良い名です。本来の用途とは違いますが、少々お付き合いくださいね」


 朱塗りの鞘を優しく撫でれば、応えるようにキィンとクオンにだけ聞こえる“声”で鳴いた。きっとその“声”を一番に届かせたいのは持ち主であるゾロなのだろうが、彼は妖刀の気配は何となく感知できるが、まだクオンのように“声”を聞くことはかなわない。しかしそれも時間の問題だろうとクオンは考えるし、鬼徹も特に焦っている様子はなさそうなのでわざわざ話題にすることはなかった。


「それでは、食事中失礼しました」


 ん、と食事の手を再開させたゾロの短い返事を聞いてラウンジを出る。中央甲板に降りれば、クオンの手に刀が握られているのを見てウソップが目をしばたたかせた。


「それ、ゾロのじゃねぇか」

「ええ。借りました」

「ノコギリ代わりに?」

「ノコギリ代わりに」

クオン、お前すげぇな」


 心底感心して白い息を吐きながらウソップが言い、クオンは首を傾げる。確かに存外あっさりと貸してくれたが、そこまで感心されるほどのものだろうか。まあでも、確かに仲間でもない人間に貸してくれるとは随分と懐が深いとは思う。


「何はともあれ、まずは板を斬りましょう。さあ、頼みますよ鬼徹」

「そういやお前、刀使ったことあんのか?」


 燕尾服を着込んだ執事の戦闘スタイルは針だ。あと体術。刀どころか銃すら使っているところをウソップは見たことがない。
 だというのにどこか自信満々に、かつての持ち主を破滅に追いやり血を啜ってきた触れるもの皆斬り捨てる妖刀の鞘を抜いて丁寧に床に置き、刀を垂直に構えたクオンは何を言っているのだと言わんばかりに被り物の下で鈍色の瞳を瞬かせた。


「初めて触りました」


 言い終わると同時に勢いよく振り下ろし、見事板を斬った鬼徹は、そのままメリー号の無理やり引きちぎられて荒れた断面をもすっぱりと斬り落として、ウソップの長く甲高い悲鳴を生んだ。



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