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 ナミを女部屋のベッドに寝かせて、クオンの指示通りに処置をしたあと。
 たったひとりでルフィ達のもとに残ったクオンが心配で甲板に出たビビは、ちょうどラウンジ前の階段を降りてきたクオンと鉢合わせ、その腕を引いた。はっとしたようにクオンが被り物を被った顔を向けてきて、他人の気配に敏いクオンがビビに気づいていなかった様子にその消沈具合を察した。


「姫様…」

「許すわ。ナミさんの病気を黙ってたことも、船を勝手に動かしてたことも、ナミさんのために駆けずり回ってたことも、クオンの勝手全部、私は許すわ」

「……何でもお見通しですか。なのに許すとは、姫様はどうにも私に甘い」

「バカね。愛するクオンのことだもの、甘くなるに決まってるじゃない」


 被り物ごと頭を抱えれば、微かに被り物を頭にすりつけられる。そうしたクオンのささやかな甘えが嬉しくて、その顔が見たくて被り物を取って晒された素顔を両手で包み込んだ。冷えだけのせいではない血の気が引いた顔は、氷のように冷たい。


「船長殿に、舵を任されました」

「流石クオンね、頼りにしてるわ。私もルフィさんにお願いしてくる。この船の“最高速度”を、出してほしいって。アラバスタのことは心配で、一刻も早く帰らなきゃいけないけど……この船の航海士さんがいなくちゃ、“最高速度”なんて出やしないもの。そうでしょ?クオン


 額を合わせて微笑めば、クオンもゆるりと唇をゆるめた。秀麗な顔に浮かぶ微笑みはこの世のものとは思えないほどに美しく、それだけで力強くビビの背を押してくれる。
 クオンの顔から手を離して被り物を被せたビビは、白い背を押して船首に追いやり、己の従者の無礼に対する詫びと、この船の航海士を救うための直談判と、そしてクオンをどうか、あの心優しい執事に向けられた厳しい眼差しを少しでも和らげるために、瞳に力を入れてラウンジを見上げれば─── 丸窓からこちらを見ている剣士と、目が合った。





† 執事の指針 6 †





 クオンの指示通りに舵を取って暫く。
 気温はがくんと落ち、風に吹かれて雪が舞い、被り物越しに吐いた息が白く染まるのを見て予定通り冬島の気候に入ったことをクオンは察した。“偉大なる航路グランドライン”に絶対はないので口に出して断定はできないが、内心では確信をしている。これが航海士殿でしたらきっとはっきり言えるのでしょうね、と思うから、やはりナミは医者に診せるべきなのだ。

 クオンは船首に立って進路を確認し、ハリーは定位置の肩の上、そしていつもなら傍にいるビビにナミの看病を任せている。サンジもナミが心配でならないようでビビと共についているが、熱が一向に引く気配のないナミに慌てて右往左往していそうだと何となく思った。


「おいクオン、寒くなったから、ほら」


 突然大雪が降ってきたことで、気を利かせたウソップが男部屋から毛布を引っ張り出してきてクオンに差し出す。顔だけ振り返ればウソップもきっちり毛布を被っていた。ウソップ越しに、同じく毛布を受け取ったゾロが見張り台に登る様子が見える。船長殿はと視線を滑らせると、いつもの格好のままで見ているだけで寒かった。
 被り物の角度からルフィを見ていることが分かったのだろう、クオンの視線を辿った先にいるルフィを見たウソップが「ルフィはいらねぇって」と呟いた。風邪すらひいたことがないと言うから、まったく頑丈なことである。雪が降っていることに目を輝かせてテンションを上げているようだからそれどころではないのかもしれないが。


「……ありがとうございます」


 差し出されたままだった毛布を受け取り、クオンは肩に巻いて前を合わせた。吹く風に煽られて内にこめられた熱はすぐに冷めていくが、ないよりはましだろう。
 すぐにクオンの傍から離れると思っていたウソップは、きっちりと毛布を体に巻いたクオンをじいと見上げ、少し首を傾げて、またじいと見て、そしてにっと笑った。


「安心しろよ。おれ達はクオンに怒ってねぇし、ナミだって大丈夫だ」


 唐突にそんなことを言われて、前を向きかけたクオンは思わずウソップを振り返った。ウソップはばしばしとクオンの背中を叩いてさらに笑う。


クオン、分かりやすいよなー。ナミが倒れてからおれ達と距離取ってよ。本当なら、これ用意しておれ達に渡すのお前だろ?」


 今度はぽすぽすと毛布を示すように優しく叩きながら言われ、クオンは無言を返した。何も返す言葉がなかったのだ。その通りだったから。
 クオンは自分で麦わらの一味の信頼を壊したと思っているし、そうなっても仕方がないと納得した上での行動で、ルフィに許されはしたが、感情は別だろうとも思っている。客観的に見れば、クオンはナミをただ苦しませていただけなのだ。不信の種が植えられた事実は覆せない。
 だからナミが倒れるまでの気安い対応はすべきではないと思っていて、気を利かせて厚着をするよう進言することもせず、毛布をそれぞれに配ったりもせず、ただ真っ直ぐ行くべき航路を見据えていた。簡単に気取られるほど今までが馴れ馴れしかったのか、それともウソップが敏いのか。どっちでしょうか、とクオンが判断しかねてウソップを見つめる。


「船長であるルフィが手打ちにしたんだ、それで終わり。気にすることはねぇ。だからそんな落ち込むなよ」

「……落ち込んでいるように見えましたか」

「おー。なんだ、色々黙ってたからおれ達に嫌われるとでも思ったか?残念だったな、嫌うどころかもっと好きになるぜ」


 少なくともナミは絶対にそうだ、と言い切ってにやりと笑うウソップに、被り物の下で大きく目を見開く。
 落ち込んでいたことは否定できない。「良いもの」に嫌われたかもしれないと思えばどうしたって気分は落ち込むものだろう。ビビに慰められて幾分か感情は落ち着いて平然とした態度を取れていたと思っていたのだが、大した会話もしたことがないウソップにそう言い切られてしまえば、クオンが分かりやすいと言うよりは、それよりもずっとウソップの方が敏いのだとクオンは判じた。
 ウソップは嘘つきだが、嘘で慰めの言葉を吐くことはない。虚勢を張るための嘘はいくらでもつくが、人を傷つけるような嘘はつかない。それくらいは分かる。だからきっと、この嘘つきの少年の言葉は本当で、きっと事実なのだとすんなり受け入れられた。


「言っとくけどな、おれ達を避けるのは無理だぜ。そのうちルフィが一番に騒ぎ立てて引っ張り込んで、結局いつも通りだ」


 そうでしょうねぇと何となく未来が見えたクオンは少しの間黙り込み、すすすとおもむろにウソップに寄ると被り物をした顔を寄せた。驚いたようにウソップがぱちりと瞬く。


「狙撃手殿は、私のことを、嫌いではない?」


 そっとかけられた問いかけに目を見開いたウソップは、瞬間どっと大口を開けて笑った。ばしばしと背中を思い切り叩かれるが別に痛くはないのでされるがまま受けとめ、クオンは何だ何だと上と後ろから向けられるふたつの視線を今は気にしないことにしてウソップの答えを待った。


「おっまえ!可愛いとこあるんだな!安心しろよ、おれはクオンのことが嫌いじゃねぇし、ちゃんと好きだぜ!」

「……そうですか」

「ウソップだけずりぃぞ!おれだってクオンが好きだ!」

「いや何がずるいんだよ」


 びょんと腕が伸びてきたと思ったら本体が勢いよく飛んできて被り物を抱えるように抱きつかれ、負けじと告白するルフィにウソップがツッコむ。本当に何がずるいのだろう、とクオンは思ったが特に考えることはしなかった。ルフィは思うがままを口にしたのだろうが、だとしても意味が分からないので考えるだけ無駄である。悪い気はしないからそれでいい。


「ひっ!なんだか悪寒が」

「姫様の怨念でしょうかねぇ」


 ぞわりと背筋を震わせて自分を抱きしめるようにするウソップの耳には「ずるいわずるいわ何だかとってもずるい気配がするわ」と地獄の底を這うようなおどろおどろしい幻聴が届き、よじよじと体勢を変えたルフィを肩車のように肩にのせて被り物に顎をのせられたクオンは、被り物の上で「はりゃりゃ!」「いいじゃねぇか別に減るもんでもねぇしよ!」「はりーぃ!!」「じゃあおれの頭の上に乗ればいいだろ?」「りーぃ、きゅあっ!」「あいた!なんで刺すんだよ!!」とハリネズミと対等にケンカする船長を気にしないことにして、「浮気?クオン浮気???この大変なときに浮気するだなんて本当節操無しなんだから……」と耳の奥に広がる怨嗟じみたビビの声に「いえちょっとした気の迷い、いやでも確かに狙撃手殿もまた良し…」などと言い訳どころか肯定をしていた。するといっそうウソップの悪寒がひどくなるのでまったくもって悪循環である。


クオン!?クオンお前、まさかおれにも浮気する気か!?」

「おや、やはり狙撃手殿は敏い方だ」

「笑ってるだろ!被り物してるから分かりにくいけどお前絶対笑ってるだろ!!やめろおれはまだ呪い殺されたくない!!!」

「失礼な。姫様はそのようなことは致しません」

「現在進行形で悪寒がすごいんですが!?」


 真っ青な顔で腕をさするウソップが面白くて被り物の下で笑うクオンが「おやおや風邪でしょうか」なんて嘯き、病気ひとつかかったことのない長鼻の健康優良児はクオンの纏う空気が軽く明るいものになって内心でほっと息をついた。
 被り物をしているせいで分かりにくい執事は、けれどよくよく観察してみれば割と分かりやすい。そしてルフィくらい素直だし正直だ。うまく取り繕うことはできるだろうが、被り物をしていればバレないと思っている節もあった。けれど被り物で言動は隠せないし、少なくとも「良いもの」としているルフィをそれなりに好いていると分かるから、ウソップからすれば分からいでか、というものだ。
 まさかあまり会話をしていなかったはずの自分まで嫌われたくない対象だとは、さすがに考えていなかったが。そして明言した好意ひと言でビビ曰く“浮気”をしそうになるなど、この執事、実はちょろいのだろうかと少しだけ不安になったし事ある毎にクオンに詰め寄るビビの必死な顔を思い出して同情しそうになる。

 ウソップの予想に反し、別に好意を示されただけで“浮気”をするわけではないクオンは被り物の下でやわらかく目を細めた。第六感でクオンの浮気の気配を察知したビビからの妬み嫉みに怯えるウソップがクオンを盾にそっと隠れるように身を縮こまらせる。それ逆効果では?と思ったが言わなかった。被り物の上で騒いでいたルフィとハリーはとりあえず停戦して被り物の左右半分をそれぞれの領地としたようで、人の頭の上で何をしているんだろう、と思いはするがツッコむのが面倒なのでしない。

 つまりは無言でなされるがままのクオンだったが、2人と1匹にまとわりつかれながら肩の力を抜いて楽しんでいる様子を、双眼鏡片手に見張り台に立つゾロは微かに笑みを浮かべて見下ろしていた。





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