61





 最後にもう一度だけ深く頭を下げたクオンがラウンジを出て行き、ドアがぱたりと静かに閉まる。ドアの横に立つゾロを一瞥もしないままぴんと背を伸ばした白い執事が甲板へ降りていくのを、丸窓越しにゾロは無言で眺めた。
 前方甲板へ足を進めるクオンのもとへ、女部屋から出てきたビビが駆け寄る。燕尾服に包まれた腕を掴み、何事か言葉を交わしているのが見えるが、当然その声はラウンジまでは届かない。

 ビビの腕がクオンに伸びた。クオンに抱きつくのはいつものことで、けれど爪先立ちをして被り物ごと頭を抱えて抱きしめる姿は、落ち込んだ子供を慰める母のようにも見える。問答無用で被り物を引っこ抜いて素顔を晒し、美しい顔に見惚れることなく真っ直ぐな瞳でクオンを射抜きながら血の気の失せた頬を両手で挟んだビビが何かを言って、顔を寄せる。
 影が重なるほど至近距離でビビと額を合わせたクオンがどんな表情をしているのか、ゾロには分からない。ビビは顔を離すとすぐに被り物を被せ、白い背を押して船首の方へ己の執事を追いやると、強い意志に煌めく瞳でラウンジを見やり─── 丸窓から覗くゾロと、目が合った。





† 執事の指針 5 †





 アラバスタへの“永久指針エターナルポース”をじっと見下ろしていたルフィは、誰かが階段を上る音を聞いて顔を上げ、次いでラウンジのドアを開けて入ってきたビビに「ナミは?」と問いかける。それに、ビビは表情を固くしてクオンの指示通りとりあえずの処置はしてきたと返す。
 ルフィ、ゾロ、サンジをぐるりとそれぞれ見て、ぎゅっと拳を握ったビビが顎を引いて真っ直ぐにルフィを見つめる。


「まずは、クオンが勝手なことをしてごめんなさい。私の従者がしたことの責任は、主である私にあるわ」

「別にいいよ。話はついてる」

「……ありがとう。ナミさんの部屋にあった新聞を読んだの。何日も前のもので……国王軍の兵士30万人が反乱軍に寝返ったという記事よ。元々は国王軍60万、反乱軍40万の鎮圧戦だったのだけど、記事が本当なら一気に形勢が変わる。きっとこのことを、クオンもナミさんも私に隠したかったんだと思う」

「なら、それでアラバスタの暴動は本格化するってことか。ルフィ、分かったか?」


 ビビの固い声で紡がれた事実にゾロが呟き、水を向けられたルフィは腕を組んで難しい顔をしながら、大変そうな印象を受けた、としかつめらしく返す。つまりはそういうことだ。
 頷き、ますます血の気を引かせた青白い顔でビビが言う。


「このままじゃ、じきに国中で大量の血が流れる戦争・・になる。それだけは阻止しなきゃ、アラバスタ王国はもう終わり…!クロコダイルに乗っ取られちゃう」


 これから起こるだろう事実を推測すれば、不安に胸が押し潰されそうになる。早く帰らないと、伝えないと、と気ばかりが逸って、けれど物理的にはどうしようもないのだ。いたずらに心を痛めさせることはないと口を噤んでいた2人を責める気にはならない。


「もう…無事に帰りつくだけじゃダメなの。一刻も早く帰らなきゃ、間に・・合わ・・なきゃ・・・、100万人の国民が無意味な殺し合いをすることになる」

「100万人もいんのか、人が…!」


 驚くルフィに何か返す余裕もなく、王女としてこの肩にのしかかる民の命を想う。
 一刻も早く帰らなければ。それはクオンもナミも分かっていて、けれど、事実としてクオンはそれに背いた。航海士の治療を優先させていることをビビはもう知っている。アラバスタまでナミがもたないと思っての行動だろう。言うなれば100万人のアラバスタの民よりも、たったひとり航海士の命を選んだ。
 しかし、ビビは。その選択を責めることはしない。問い質すつもりもない。むしろよかったとすら思った。私がこれから口に出す選択が、決して間違ってはいないと思えるから。


「みんなにお願いがあるの」


 冷静に努めて声を保つ。真っ直ぐに背を伸ばして、確固たる意志を宿した瞳でルフィを見つめる。俯きそうになる顔を上げて顎を引いた。有能過ぎる執事が整えてくれた道を、もう行くと決まっていることだけれど、主である自分が是としなければならなかった。背中に庇われてただ護られているだけの王女では、クオンの傍に相応しくはない。


「今、私の国は大変な事態に陥っていて、とにかく先を急ぎたい。一刻の猶予も許されない!だから…これからこの船を“最高速度”で、アラバスタ王国へ進めてほしいの」


 王女としての責務、乗り合わせた海賊船のクルーへの義理。そのさなかで真っ直ぐに立ち、震える拳を握り締めてビビは強い意志を宿す瞳を煌めかせた。


「そのために、医者のいる島へ。一刻も早くナミさんの病気を治して、そしてアラバスタへ!!それがこの船の“最高速度”でしょう?」


 言い切るビビを見つめ、嬉しそうにルフィがにっと笑う。


「そお───さっ!それ以上スピードは出ねぇ!!」


 朗らかに肯定されて、ほうと息をついたビビは肩の力を抜いた。強張った顔から緊張が抜ける。
 国を想うと不安で仕方がないだろうに、それでも逸る心を抑えて芯を強く持つ王女に、ゾロはいい度胸だと口の端を吊り上げた。あの有能過ぎる執事がビビを唯一の主と定めた理由が分かった気がする。


「あの、クオンを怒らないであげて。被り物をしているから分かりにくいけど、優しい人だからナミさんが苦しんでいるのを見てすごく心を痛めていたはずなの。ナミさんのために、きっと夜中にあちこち駆けずり回っていたはずだわ。クオンはその気になれば取り繕うのが上手だし、何も言わずに結果だけを伝えて過程を隠し通すことが多いんだけど…、どうか誤解はしないで」


 今は船首に立って向かうべき先を見据えているクオンを思い、ビビは言葉を重ねる。
 あの真っ白執事は、本当はとても優しい人なのだ。素直で正直者で節操無しの浮気者は、「良いもの」の輝きが損なわれることをひどく嫌がって、己のエゴを通そうとするけれど。そのために寄り添い、乞われれば惜しみなく心からの情を与える者を、優しいと言わずして何と言えばいいのか。


「大丈夫だ、クオンがいい奴なのは分かってる」

「……ありがとう、ルフィさん」


 唇をゆるめて微笑んだビビは、ラウンジを出て行くと船首へ向かって一目散に駆けていく。
 静かに前方甲板に佇んでいる執事の背に思い切り飛びつくビビを体を揺らすことなく受けとめる様子を見て、ゾロは丸窓から視線を外した。

 倒れたナミの様子が気になるのだろう、主従それぞれとの会話を終えたルフィは“永久指針エターナルポース”を手にしたままラウンジを飛び出していく。それを見送り、ビビが来たというのにいやに静かなままだったサンジをちらりと見れば、顔を手で覆って力なく項垂れる男がカウンターに凭れていた。


「おれは、……」


 小さくこぼしたきり何も言わない─── 言えないサンジに、ゾロも何も言葉を返さない。
 ただ、自分の味方やフォローを入れてくれるだろう人物をすべて追い出し、たったひとり残って言い訳ひとつしなかったクオンの覚悟と誠実さに今更気づいたサンジの後悔を察しながら、だがあれはクオンも悪ぃとゾロは眉を寄せる。
 あの真っ白執事は時々、変に偽悪的なところがある。あの愛嬌があるようで妙に間の抜けた被り物が声の抑揚と感情を削ぐことでそれを助長して、誤解を招くと分かっていながらも被り物を取りはしないし言い訳も訂正もしない。
 結果がすべて、とは言わないが、それでも過程を気にしなさすぎるきらいがあるとビビの言葉で確信した。最終的には自分で「何とかする」と思っているからだろうとは察せたが。

 気性が合わないコックをわざわざ慰める気になるはずもなく、ひとりにさせた方がいいだろうと、ゾロもまたナミの様子を見に行くためにラウンジを出て行った。










 ふ、と意識が持ち上がり、重い瞼をなんとかこじ開ければ、ぼんやりと霞む視界に麦わら帽子が映った。熱に侵された目がのろのろと動いてルフィへ向けられる。額にのせられたタオルは元々は冷たかったのだろうが、もう既にぬるかった。


「ルフィ……」

「お、ナミ起きたか」


 掠れた声で呼ぶナミにルフィが顔を向けて笑う。笑うだけでは何にも解決はしないのに、それでもほっと体の力が抜けて安心できる笑顔だ。
 ナミ起きたんだな、とルフィの横からひょっこりとウソップが顔を出す。額にのせられたタオルが取られ、水にひたして絞り、再びそっとのせられた。その冷たさが気持ちよくて目を細める。
 ここは、と問えば女部屋だと返され、クオンに眠らされて運ばれたことを悟ったナミは、瞬間がばりと体を起こした。起こした、つもりだったが、体は言うことを聞かずに僅かに背を浮かせただけで再びベッドに沈む。


「おわっ!ナミ、寝てろよ。お前すげぇ熱があるんだぞ」

クオンはわるくないの」


 慌てて制するウソップの言葉を遮るようにして、ベッド横に置いたイスに座るルフィへ震える手を伸ばし腕を掴んだナミが喉を振り絞る。
 体内を荒れ狂う熱は引かないし呼吸をするたびに喉と肺が痛むが、眠らされる寸前と比べて幾分か楽で、あのときひと言も発せなかった言葉を気力だけで紡いだ。じわりと目頭が熱くなって、視界が霞む。


クオンはわるくないの。わたしが、わたしがだまっててって、言ったから。くすりをちょうだいって、わたしが……」


 ともすれば支離滅裂な言葉を、ルフィもウソップも止めなかった。だからナミはひくひくと引き攣る唇を動かして何とか続ける。


「やくそくをしたから、クオンはそれをまもってくれただけ。クオンはわるくない、だから、だから……」

「ナミ」


 静かに名を呼ばれ、ナミはぴたりと口を閉ざした。思考は熱にけぶり、ルフィに向けられた目がゆらゆらと水分を含んで頼りなく揺れる。その目を正面から見返して、ナミの手を腕から外したルフィは笑ってみせた。


「分かってる」


 そのひと言に、深い安堵の息をついたナミはうんと幼げに頷いて枕に頭をうずめる。どっと疲れが熱と共に体を苛み、けれどクオンが誤解されていないのならそれでいいと思う。
 一気に力が抜けて瞼を閉ざしたナミは、クオンの美しい微笑みを思い浮かべ、あのとき、煌めく鈍色の瞳が一瞬だけ揺れたことを思い出して、意識をゆったりと闇に沈めていった。





  top