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 双子岬でクロッカスからもらった海図と、彼が雑談の合間に少しだけ話してくれた“偉大なる航路グランドライン”の情報を思い出して繋ぎ合わせていく。
 “偉大なる航路”の前半、それのさらに手前側。確か南の方だった。寒冷な気候、つまりは冬島。サイクロンに襲われた際に船の進路は南へ切られ、そのあと元の航路へ戻ろうかとしたタイミングでクオンはナミからアラバスタへの“永久指針エターナルポース”を預かった。

 誰もが寝静まった深夜。月明かりの下、ひとり海面を駆けていたクオンは空気がひやりと変わったことに気づいて足をゆるめた。音もなく海面が波紋を広げ、やがて凪ぐ。星が瞬く空を見上げて深呼吸をすれば、メリー号がある場所よりも冷えた空気が肺を満たした。


(冬島が近い)


 左手で首を撫で、懐から取り出した海図を広げてペンで印をつけていく。ナミと約束を交わした夜から始めた単独探索が実を結びそうだと小さく安堵の息をついた。
 海図を手にしたまま再度懐に手を入れ、今度は“永久指針”を取り出して眺める。その指針が指し示す方向とは離れた場所をゆったりと進むメリー号の船首が向く先は、これをクオンが受け取ったときから重なっていない。
 クオンが目的としている場所は、ただひとつ。


(医学の進んだ国、医療大国……名を、ドラム王国)





† 執事の指針 4 †





 その日もいつも通りの一日になるはずだった。メリー号はアラバスタへ向けて全速前進、何も心配はないのだとクオン以外の全員が思い込み、時折海は荒れるが乗り切ってみせている中での、穏やかな時間。
 ラウンジに全員が集まり、クオンはビビの髪を結っていて、ルフィとウソップとビビは談笑、サンジは夕食の仕込みを、ゾロは隅の方で壁に背を預けて目を閉じ、ナミは新聞を手に俯き何か考え事をしているようだった。


「そういや、今日の朝はだいぶ冷えたよな」


 そう言い出したのはウソップで、そうねと頷いたのはビビだ。クオンは冬島の海域に入ったのでしょうかと話題に加わり、冬島の海域?と首を傾げるウソップに、“偉大なる航路グランドライン”にある島々は4種類に分類されるのだと教えた。春島、夏島、秋島、冬島。それらの島には大体の四季があり、つまりは16段階の季節を越えなければならない。もちろん例外や未知の気候もたくさんある、と。


「基本知識ですから、覚えておいてくださいね。まだ朝の冷えを見る限りは断定はできませんが、これからますます冷え込めば間違いないでしょう」

「じゃあ、またおもしれー島があるのか!?」

「船長殿が満足できる島だといいのですがね」


 目を輝かせる冒険好きのルフィに被り物の下で苦笑したクオンは、視線を滑らせてナミを一瞥した。


「冬島ならちょうどいいかも。さっきから暑くて仕方がないし」


 新聞から顔を上げたナミが手で風を送りながら言い、それを聞いたウソップが訝しげに眉を寄せる。そうだろうとも、冬島の海域に近づいている今、気温は少し低めだ。空には雲が多少あるものの、陽が長く遮られるほどではない。


「ナミ、何言ってんだ?寒いってほどじゃねぇが、ビビが上着着るくらいだぞ?」


 ウソップの指摘に、一瞬身を固くしたナミは長袖の上着を着ているビビを見て、半袖を着たままの自分に笑みを描いた口元を引き攣らせた。手に持っていた新聞を閉じてテーブルに置く。


「そ、そうね。……ちょっと疲れてるのかしら。部屋に戻るわ。まだやらなきゃいけないこと思い出しちゃった」

「けど、ナミさん。顔色が悪いし、無理しない方が」

「大丈夫よ、何でもないから」


 慌てたように立ち上がり、心配そうに見てくるサンジの言葉を遮るようにしてにっこりと笑ったナミがテーブルを回り、ラウンジの扉に足を向けたところで、ふいにその体が力を失くしたように傾いだ。
 ガタタ、とナミの体が当たったイスが音を立てる。テーブルに手をついて体を支えようとしたナミだったが、その手からも力が抜けたか、がくんと膝を折って床に手をついた。


「ナミさん!?」


 突然床にへたり込んだナミに慌ててサンジが駆け寄る。ナミは呆然と自分の足を見て、さらに手が小刻みに震えていることに気づいて顔色を変えた。ざっと血の気が引く。気力だけで抑え込んでいた熱が暴走したように体内で荒れ狂い、は、は、と乱れた呼吸はひとつ重ねるたびに熱くなった。ドミノが崩れるように悪化していく己の体に気づいたが、脳へなだれ込んできた熱が意識を霞ませてどう取り繕えばいいかが分からなくなる。

 ナミ、と口々に自分を呼ぶ仲間の声が遠い。先程まで寝ていたはずのゾロまでが起きていることに気づいて、はっとしたように真っ白執事の姿を捜した。
 心配げに顔を覗き込んでくるビビ越しに、佇む白があった。クオンの被り物が自分を向いている。表情は見えない。コツ、と一歩踏み出された白い足に、目を見開いたナミは反射的に叫んだ。


待って!!クオン、待ってよ!まだ大丈夫よ、ちょっとこけちゃっただけ、何でもない、何でもないったら!」


 言いながら立ち上がろうとするも、全身に痛みと熱が暴れ回り、震える足に力は入らなかった。コツ、コツ、といやに静かな足音がナミの耳朶を刺す。
 ナミがクオンを凝視して叫び、逃げるように身を引こうとする様子にただならぬ何かを全員が感じるが、ここでナミとクオンの間に割り込んでいいものか悩むサンジが答えを出すより先に、クオンがナミの前で片膝を折って身を屈めた。白手袋に覆われた手がナミの額に触れる。


クオン…」

「熱がありますね。私が持っていた薬では、これ以上あなたの病状を抑えることはできません。一刻も早く医者にかかる必要があります」

「は!?どういうことだクオン!」


 よく分からないが、聞き捨てならないことを口にした執事に食ってかかるサンジを無視するクオンの腕に手をかけたナミが首を横に振る。


「違う、違うわ。これはただの風邪で」

「航海士殿。この船がアラバスタへ向かっていないことに気づけないほど、あなたは限界なのですよ。航海士としてまともな判断もできなくなっている。この船の進むべき方向…“永久指針エターナルポース”を─── その指針だけは、あなたは手放してはならなかった」


 クオンは懐から出したアラバスタへの“永久指針”を床へ置く。それは誰が見ても、船の進路と指針の指し示す先が大きくずれていることは明らかだった。
 ナミは大きく首を振る。開いた口からは荒い呼吸しか漏れ出ないことに歯噛みして顔を歪めた。言いたいことがあるのに、喉が引き攣って声が出ない。


「もう十分でしょう」


 被り物をしているせいで紡がれる声は低くくぐもり、そこには何の感情の欠片も認められない。冷たい声音としてナミの耳朶を打ちつけるけれど、素の声はそうじゃないことくらいは分かる。

 このままではいけない、きっとルフィ達に誤解を与える。なのに、クオンは悪くないと言いたい言葉が喉の奥に絡まって出てこなかった。
 クオンに体調を黙っておくように頼んだのも、苦痛が長引くと分かっていて薬をねだったのも、“永久指針”を預けたのも、すべて自己責任だと分かった上で選んだことだ。クオンはただ口を噤み、約束を守ろうとしてくれただけ。進路を違えたのも、約束通り自分を医者に診せるためだと、熱に侵された頭でもナミには分かった。そういう人間なのだと、晒した素顔で安心させるように美しく微笑んだクオンをもう疑えない。

 はくはくと唇を開閉させたナミは掠れた声で何度かクオンの名を呼び─── けれど、首筋にちくりとした痛みが走ったと同時、突き落とされたように意識がふつりと途絶えた。






 解熱剤入り睡眠薬の針を打ったことで意識を失くしくずおれた体を支え、クオンはウソップとビビを被り物の顔で交互に見やった。


「狙撃手殿、航海士殿を部屋へ運んでください。姫様、ベッドに寝かせて処置を。方法は分かりますね?水も氷も、バーカウンターの裏に用意してあります。ハリーが待機していますので、彼から針を受け取ってください。対応は風邪をひいたときと同じで構いません。どうせ何をしても焼け石に水でしょうから」


 それでも、気休め程度にはなるでしょう。つらつらと淀みなく紡がれる声音は淡々としていて、低くくぐもった声を聞く者に何の感情も窺わせない。名指しされたウソップもビビも眉を寄せて物言いたげに唇を動かしたが、クオンが「さぁ、これ以上航海士殿を悪化させたくはないでしょう」と促せば何も言えず、ウソップがナミを受け取り背負ってラウンジを出て行き、それに続こうとして、静かに立ち上がる己の執事をじっと見上げたビビは唇を引き結んで開かれたままのドアから出て行った。
 3人がいなくなったラウンジは不自然に静まり返り、顔を隠す被り物をルフィへ向けたクオンに、横から感情を無理やりに抑え込んだ低い声がかかる。


「……どういうことだ、てめぇ。ナミさんが具合悪くしてることに気づいてておれ達に黙ってたのか」

「ええ、2日ほど前から。私の手持ちの薬でどうにか誤魔化していましたが、限界がきたようですね」


 あっさりと頷いた執事の声音はやはり淡々としているように聞こえて、ナミが倒れることを予測しあらかじめ準備を整え、慌てることなく指示を出した執事の冷静さにサンジの頭にカッと血が昇る。大きく足を踏み出し、手を伸ばしてクオンの胸倉を掴んだ。乱暴に引き寄せられるまま体を傾がせたクオンの被り物が、今だけはいやに気に障る。できることならその頭を蹴り飛ばしてやりたかった。


「ふざけんな!!ナミさんのことだけじゃねぇ、この船まで勝手に動かしやがって何考えてやがる!!!それも2日だ!?2日もナミさんをあんなふうに苦しめて平気そうなツラしてたのかてめぇは!!!」


 クオンは食事の際には必ず被り物を取る。目にするたびに見惚れているわけではないと言い聞かせる必要があるほどに美しい顔は、ひとつとして変わりなかった。いつも通りにビビの迸る愛を受け流し、時に応え、笑ってさえいた。ナミを気遣う素振りなどひとつもなく、それは食事外の時間も同じだった。少なくともサンジはその認識で、けれど冷静に思い返せばクオンとナミが2人きりになる時間はあったのだとは、今は気づけない。


「ビビちゃん以外はどうでもいいってのか、執事野郎!!!」


 怒りに沸騰した頭は、船の進路がずれていることが己が吐いた罵倒の反論になると分からない。
 胸倉を掴まれたクオンは気道を絞められて息を詰めながら、それでも苦悶の声ひとつ上げなかった。サンジの憤激に燃える目にも、ルフィとゾロの静かな眼差しにもひるむ気配はなく、けれどサンジの言葉にまとう空気を変えた。
 揺らぎひとつなかったクオンから、ちりりと肌を刺すような気迫が漏れる。
 自分に向かって放たれたそれにはっとしたサンジが息を呑むと同時、胸倉を掴む右手の手首が掴まれる。白手袋をはめた手に力がこもり、みしりと骨が軋んで痛みを覚えた。


「私が…私が本当に、航海士殿が苦しむさまを見て、平然としていたと。真実この船の誰がどうなってもいいと思っていると。そう、思いますか」


 被り物で削がれただけではない、常よりもさらに低くくぐもった声はところどころ区切られ、身の内を駆け巡る激情を抑え込むような響きがあった。被り物にぽつんとある2つの黒い目から、雄弁に煌めく鈍色の瞳が見えた気がした。

 クオンはサンジの手首を掴む手から意識して力を抜く。呆然と目を見開くサンジの手からも力が抜け、胸倉を掴む手をやや乱暴に外したクオンはゆっくりと息を深く吸う。騒ぐ心を無理やりに抑えつけた。
 ナミを救うためには平静を取り繕わなければならない。何とかすると約束した。何とかできる目途は立っている。そのためには、苦しみに喘ぐ女を前にしても取り乱すわけにはいかなかった。
 だがサンジの気持ちも分かるのだ。当然だとも思っている。だから、燻る激情の一端を彼にぶつけるのは八つ当たりにすぎない。

 クオンは努めて冷静さを保ち、軽く乱れた胸元を整えると黙然と構えるルフィへ向き直った。静かな黒曜石の目が真っ直ぐに注がれ、クオンもそれを見返して姿勢を正し被り物に手をかけて外す。
 恐ろしいほどに整った秀麗な顔は固く血の気が引いていて、クオンは一度ルフィと真正面から目を合わせると深く、深く頭を下げた。直角になるまで腰を曲げて深い謝意を示すクオンの視界の端に雪色の髪が映る。


「船長の許可もなく、勝手な真似をしました。言い訳はしません。どんな罰も受ける所存です。けれどどうか、どうか、お願い申し上げます。航海士殿を医者に診せたあとに、姫様をアラバスタへ」


 今すぐ船から叩き出されたとしてもクオンに文句はなかった。斬り捨てられたとしても甘んじて受けただろう。その覚悟を持った上でナミと約束を交わし、船の進路を勝手に変えた。
 バロックワークスの追手を懸念する必要がない今、ビビをアラバスタへ連れて行くという話を反故にされても仕方のないことだと分かっていて、あまりに図々しいと自覚しているからクオンは深くこうべを垂れる。まるでこの首を差し出すように、無防備に。クオンが今示せる誠意など、それくらいしかないのだから。


「なぁクオン、今この船はどこに向かってんだ?」

「医者がいる島へ。あと2日もすれば着くかと」

「そっか。ならいいや」


 あっさりとしたルフィの声に、思わずクオンは顔を上げた。固いままの表情が少しだけ怪訝の色を乗せる。


「信じるのですか?」

「なんだよ、嘘なのか?」

「……いいえ。ですが私は、あなた方を欺きました」

「そうだな、それはダメだ。だから今度はちゃんと言えよ」


 あくまで黙って事を進めていたことを窘め真顔で諭すように言うルフィに、クオンは柳眉を寄せ口の端を引き攣らせて歪めると鈍色の瞳を揺らした。震えた瞳が僅かに水分を増す。けれど瞬きひとつで呑み下し、俯いて一度固く目を閉じて表情を消した。再び時間をかけて瞼を開き、ルフィを見つめ、白皙の美貌をゆるゆるとほころばせる。


「ナミは医者に診せるし、ビビもアラバスタにちゃんと連れてく。んで、クオンは降ろさねぇぞ」

「しかし、ケジメとして罰のひとつでも与えられねば私が納得しかねます」

「じゃあナミに任せる」

「……それでは、何としても航海士殿には治っていただかねばなりませんね」


 ほのかに微笑むクオンに、おうとルフィが応えた。やわらかく目を細め、床に置いたままにしていた“永久指針エターナルポース”を拾い上げたクオンがルフィに渡して被り物を被る。


「船の進路はこのままで。必ず島へ辿り着かせます。……信じて、いただけるのでしょう?」

「ああ。頼んだ、クオン


 にっかりと歯を見せて笑うルフィに、その光に灼かれた胸が詰まってあたたかくなる。
 被り物の下にほうと小さなため息をとかしたクオンは、許されたことを喜び、寄せられた信頼に応えるべく力強く頷いた。





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