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 甲板に響く賑やかな声をBGMに、クオンは白手袋に包まれた右手を差し出した。そこにつやつやとしたみかんがのせられ、甘そうに熟れたそれを抱えたカゴに入れる。
 みかんの葉を検分し、傷んでいる場所がないかを見ながら、ぱちりぱちりと淀みなくハサミが動かされる音を聞いていたクオンはちらりと視線を滑らせた。
 小さな脚立に立って上の方のみかんに手を伸ばすナミが、バカをやってどっと沸き立つ甲板を見て呆れたような顔をしたあとにやわらかな笑みを浮かべる。
 その顔色は平時とまったく変わらない。薬を与えたのは2時間ほど前で、薬が効いているとはいえ、その身の内にくすぶる熱は相当なもののはずだ。強い薬である分副作用で体の怠さも無視できないはずなのに、それでも平然とした顔で動き回れる精神力にクオンは舌を巻く。

 ナミと約束を交わしてから、2日が経っていた。





† 執事の指針 3 †





 クオンの見立てでは、1日も経たずに発覚すると思っていた。
 決してナミを軽く見たわけではない。むしろ彼女の心が強いことは分かっていて、それでもすぐに音を上げるだろうと思ったのだ。
 病魔に侵された人間はどうしたって心も弱くなるものだ。病状は時が過ぎるほどに悪化し、それが薬によって一時的に抑えられれば、ぶり返したときの苦しみは比べものにならないもので、楽になるためにさらに薬を求めるのも仕方がないこと。それの歯止めが利かなくなることが依存症というもので、ナミもそうなるだろうと、それが人間として当然だとすら思っていた。
 クオンはナミが苦しむ時間が長くなると分かっていて、決められた時間以外に薬を与えることはなかった。そうすればいずれ誰かの前で倒れて事が露見し、大儀名分を得たクオンはさっさと医者捜しの方へ舵を切るつもりだった。

 の、だが。

 想定外なことに、ナミの精神は頑強だった。時々気を抜いたように顔色を悪くして深く荒い呼吸を繰り返したが、それはクオンがいる場でだけ。何かと理由をつけて傍に呼んではクオンに凭れて呼吸を整え、海図だ航海日誌だ読書だと女部屋に引きこもってはクオンにお茶を所望しついでの短いお茶会でクオンの素顔を見て気分を誤魔化す。
 同情を誘って薬を求めているのかと思えばそうではなく、催促することも物欲しそうな言動の欠片ひとつもなく時間きっかりに受け取った薬を飲み、ありがとう、と礼を言った。

 その強さに、クオンの心がまったく揺れないはずはなく。
 ビビの傍にいながらナミの様子を逐一窺い、どうせやることも特になく暇だからと船の雑用を請け負って時折ナミに呼ばれて様子を見るクオンは、上がる熱に苦しげな呼吸を繰り返すナミに乞われるまま己の手を貸し与えるくらいのことは躊躇わなかった。
 クオンの体温が元々低いわけではないから、平時に触れたならばそれなりのぬくもりがある手を額に当ててナミがほうと熱い息を吐く。冷やした水を絞った布の方がいいのではとクオンは思ったしさりげなく勧めたが、本人がこっちがいいと言うのだから仕方がない。


「ねぇクオン、ビビ、眠らせてよかったの?」


 今もまた自分の額に寄せられたクオンの手に触れながら、ふいにナミが問う。昼にみかん畑の収穫を終え、日もとうに暮れて夜を迎えている。それでも眠りにつくには少し早い時分。
 ちらと床に敷いたマットと布団で眠るビビを見下ろし、眠る前の一杯と用意した紅茶に軽い睡眠薬を仕込んで主を眠らせた執事は「気疲れで肌つやも悪くなっていましたし、これで少しはましになっていただければよいのですが」と善良な従者の顔で嘯いた。


クオン、私が早く倒れればいいのにって思ってたんじゃないの」


 くすくすと熱に浮かされた顔で笑い、ベッドに横になっていたナミはゆるりと目を細める。クオンは答えなかった。ただ被り物の下で唇をとがらせ、視線だけをそっぽ向ける。


「……あなたが想定外に強く、そして“永久指針エターナルポース”を私に預けるから、少しだけ方針を変えました」


 被り物越しにナミへ伝えられた声は低くくぐもり、感情を窺わせない。それでもその声の奥にある、不承不承とした響きを逃さなかったナミが笑う。そんなことで、クオンは何よりも大事で大切な主に睡眠薬を盛ってまでナミに意地を張らせてくれている。そろそろ同室のビビを誤魔化すのも危ういと思っていたところだったから、実はとても助かったのだ。


「ふふ、ビビは寝てて、起きてるのは私とクオンだけ……ねぇ、こうやってると、本当に“浮気”してるみたいね」


 クオンがクルーの誰かと楽しげに話していればすぐに割って入って浮気だ何だと騒ぐビビは、他ならぬ愛するクオンの手によって眠らされている。
 額に触れる手は冷たい。それだけ自分が熱いのか。今日はもう薬は与えられず、朝になるまではダメだと言われていた。だったら私にも睡眠薬、と言えば、飲み合わせがだとか体に負担がとか何とか言って首を横に振られて、なら手を貸して、とナミは白手袋を外したクオンの真っ白な手を所望した。
 手に触れられれば、それだけクオンは自分の近くにいる。ビビの傍ではなく、自分の傍に。ナミは熱でぼうとする頭でクオンを見上げた。


「お眠りなさい、航海士殿。熱があるからろくなことを言わないのです」


 男にしては綺麗でなめらかな手の平がぺしりと額を優しく叩く。被り物越しの声は低くくぐもっていて、素の声は頭に思い描けるけれど、そのやわらかさまでは再現できなかった。これだけ優しくしてくれている今、あの声はどれだけやわらかくなっているのだろう。


「航海士殿、間違えてはなりません。私はあまり優しくはないのですよ」

「……?変なの」


 あれだけビビに優しい執事は、確かに厳しいところもあるけれど、ビビのことを思っているからこそだと分かる。
 ビビ以外には、という意味だろうか。それならば分かる気もするが、こうして熱に侵されたナミが縋ることを許しているのだから、やっぱり優しいと思うのだが。

 首を傾け、はぁと熱い息を吐く。呼吸が段々荒くなっていくのが分かって、ぐるぐると体内に渦巻く熱がくすぶって痛みとなり、心臓を焼くようだった。
 眠らなければ。どうせ眠りは浅く夜中に何度も起きてしまうが、みんなに心配かけないように平静を保つために体力をできるだけ回復させなければならない。
 クオンも、ナミが眠ったことを確認すればすぐに部屋を出て行くだろう。男子禁制を言い渡している今、ビビの世話を方便として出入りの許可は出しているが、さすがに朝までクオンをここに留まらせることはできない。


「ね、クオン。私って、あなたにとって『良いもの』?」


 脳を焼くような熱に、ひんやりとしたクオンの手が気持ちいい。
 ほとんど理性をとかしているナミは気づけばそう問うていた。時折ビビが愚痴のように、クオンったら「良いもの」と判定したらすぐそっちにふらふらしちゃうんだから、と言ったことを思い出したのだ。ふらふらして、つい目で追って、笑いかけては気を許す。
 顕著なのはルフィだろう。飛びつかれても伸ばした腕に引き寄せられてもクオンは大人しくなされるがままだし、そのまま談笑しているところをここ数日で何度か見た。そのたびにビビがクオンに抱きついて「クオンの浮気者!!」と叫ぶ姿も。

 クオンにそれなりに好かれていることが分かったナミは、じゃあ私はどうなんだろう、と次いで疑問に思いながらも訊くことはせず、けれど熱に浮かされるまま心に秘めていた問いが今、口をまろび出てしまった。


「……ええ、あなたもまた、『良いもの』ですよ」


 果たして、クオンはナミの問いに頷いた。ぶわりと胸中に喜びが広がる。
 クオンはナミが弱っているからといってそういう嘘はつかない。嘘をつくくらいなら適当な言葉を並べて問いを流すだろう。だからそれが本心だと分かって、病によるものだけではない熱で頬を染めたナミはクオンの顔を、その静かに表情を変えない被り物を見上げた。


「じゃあ、その被り物を取って、顔を見せてくれる?大丈夫って、言ってくれる?」


 ずっと羨ましかった。優しく抱きしめ、何があっても「何とかする」と言って安心させてもらえているビビが。いいな、と思いながらも、執事はナミのものではないし、当の執事とてビビ以外に仕える気はまったくないし、今はもう故郷を想い不安に苛まれて震える夜はないと分かっているから、ナミはクオンを深く望むことはなかった。

 けれど今は、今だけは。あの夜に、薄暗い室内で。ビビを優しく抱きしめて囁いたクオンの、親が子に与えるような、どこまでも優しくまろやかな、あまいあまい、形のない愛がひと欠片でもいいから欲しいと思ってしまった。いいな、いいな、と思う心の陰で、死ぬ間際自分と姉の名を呼んで大好きと笑った母の愛を思い出してしまったから。

 クオンは暫く無言だった。ナミはそれを見上げて、ダメかぁ、と諦めたように眉を下げる。
 ナミの体温がうつってぬるくなってきた手の平が離れ、それを機にもう眠ってしまおうと瞼を下ろしかけて、その手が被り物に触れたのを見て再度瞼を押し上げた。


「仕方がありませんね、航海士殿」


 何の躊躇いもなく被り物を取り、美しい微笑みを湛えながらクオンはナミの手を取った。先程まで額に当てていた左手は少しだけぬるく、けれど手袋を外して優しく前髪を払う右手はやはりひんやりとしていて気持ちがいい。


「不安でしょうが、どうか安心なさいませ。あなたは決して死なせはしませんし、その病気も医者を捜し出して必ず治します。大丈夫、大丈夫ですよ。─── 私が何とか、しますから」


 ゆるりと鈍色の瞳が優しく細められ、形の良い唇がやわらかな笑みを描く。耳朶を打つ声音は静かで、けれど震える心を支えてくれるような力強さがあった。クオンが「何とかする」と言うのなら、きっとそうしてくれるだろうと無条件に信じられそうな、真摯な声だ。


「うん。……うん、クオン

「さぁ、お眠りなさい。あなたが眠るまでは、こうしていますから」


 ナミの汗ばむ髪を指で梳きながらクオンは囁く。
 熱は一向に引かないし、全身を覆う苦しみは一秒ごとに増していくけれど。アラバスタまで自分の体がもつかどうか不安になっていた心が鎮まっていくのを感じながら、ナミはふにゃりと子供のように笑って目を閉じた。






 熱に侵された寝息を立てるナミを静かに見下ろして、クオンは困ったように眉を寄せると目を伏せた。


「私は、優しくなどありませんよ。……あなたは確かに『良いもの』です。けれどだからこそ、私はあなたに優しくなどできない」


 ナミはよくもった方だ。しかし限界は近い。いくら精神を強く保とうとも、体はじきに追いつかなくなる。
 小さな声でひとりごちながら、ナミを「良いもの」と定めたクオンは汗に濡れる額を拭った。

 クオンは優しくはない。だからこそ、たとえナミの体調不良が露見したとしてもクオンがうまく隠してくれるだろうとでも無意識に甘く考えていることを察しながら否定せず、約束通りナミが倒れるのを今か今かと待っていて、そのときにナミの願いを容赦なく砕くと決めていた。

 ナミの手を布団の中に入れ、脇に置いていた被り物を被り直しながらクオンは数日前のことを思い出す。
 あのリトルガーデンを出てすぐのこと。何だか疲れたとぐったりしていたナミは、そのときから既に不調を感じていたのだろう。その状態でも、彼女は一見すると穏やかな海を見て異変を感じ取り、すぐにクルーに指示を出して船を移動させた。
 何が何だか分からないが、航海士であるナミが言うのであればと全員が従い、若干進路を南に外れた結果─── 元々の航路に突如として現れたサイクロンを見て肝を冷やした。

 “偉大なる航路グランドライン”のサイクロンは前兆のない風と言われている。いくつもの船がこれに沈められてきた。それを正確に感知したナミの、理論だけでなく自身の五感すべてをもって天候を予測する航海士としての才能にクオンは戦慄した。
 この航海士は、死なせてはならない。今でさえそう思うのに、彼女はまだこの“偉大なる航路”を理解しきれておらず、ゆえに成長の余地を多く残している。まったく恐ろしい、こんな航海士など見たことも聞いたこともない。

 だから早く倒れてしまえとすら思っていて、けれどアラバスタへの“永久指針エターナルポース”を預けられたから方針を変えたことに嘘はなかった。しかし同時に、バカですねぇとも思う。仲間でもない人間にそんな大事なものを預けるなんて、この船の舵を任された航海士がするべきことではない。


(私は「良いもの」が輝くさまが見たいのです。けれど航海士殿、あなたは今、そうではない)


 病が全身に広がり、熱に侵された女を見下ろす。ビビとそう歳が変わらない、まだ少女と言ってもいい年頃だ。
 そのやわらかな心が信頼していた人間に踏み躙られたとき、絶望するだろうか、それとも怒るだろうか、悲しみ嘆くだろうか、もしくは失望するだろうか。信じていたのに、となじられるかもしれないが、だからといってクオンが決めたことを曲げるはずもなく。
 音もなく立ち上がったクオンは、むにゃむにゃと寝言でクオンへの好意を断片的に紡ぐビビを優しく撫でると女部屋の照明を絞って出て行った。





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