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クオン、こっちがトカゲのタン塩、こっちがサイのタン塩だ。おら食え」

「サイの方が美味いだろ」

「あァ?トカゲの方だろうが」

「は?てめぇ、まさかサイの方は手ぇ抜いたりしてねぇよな」

「ンな八百長みてぇな真似するか!おれは一流のコックだぞ!!それぞれの特色に合わせて一番美味くしたやつを出してるに決まってんだろうが!!」

「じゃあクオン正直に言え、どっちが美味い」

「トカゲだろ」

「サイだろ」

「「クオンに訊いてんだろうがやんのかてめぇ!!」」

「あんたらケンカしながらクオンの口に突っ込んでんじゃないわよ!」

「リスみたいに頬袋膨らませてるクオンが可愛くてご飯3杯いける」





† 執事の指針 2 †





 結局、飲み込む前に交互に口へ肉を突っ込まれて早々に満腹になったクオンの「口の中で味が混ざってしまいましたが、総合的にとてもおいしかったです」と満足そうな美しい笑顔と今にも暴れ出しそうな2人へ落とされたナミの拳によって第1回どっちの肉でショー(料理人:サンジ)勝負は有耶無耶となった。


クオン、ちょっといい?」


 夕食を終え、夜も更けた頃。ビビが風呂へ行きラウンジに残されたクオンは風呂上がりのケア用品を取りに男部屋へ行こうとして、女部屋へ続く船室から顔を出したナミに声をかけられた。薄闇の中、白く浮かぶナミの顔色を見たクオンが無言で頷く。部屋で待っていてくださいと言えば、ナミは分かったと返して引っ込んだ。
 すぐに男部屋に行って荷物を手に女部屋へ向かう。床の扉をノックして、返事を聞く前に体を滑り込ませた。しっかりと扉を閉めてベッドに腰かけるナミへ近づき、きちんとラグの前でブーツを脱ぐ。


「熱は?」

「少し……」


 力なく返された声と共に差し出された体温計の数字は、37.8度。被り物の下、クオンは鈍色の瞳を細めて形の良い唇を引き結ぶ。
 ナミの顔色は悪い。失礼しますよとゆっくり首に手を伸ばして触れ、喉の痛みを訊くがゆるく首を振られた。今のところは熱だけのようだ。ただの風邪とも疲れからの発熱とも言えるが、クオンが言った通り何かあればすぐに知らせてくれたナミにそう簡単に言うのは憚れる。


「…………体を見ても?」


 できるだけ淡々と、クオンを男だと思い込んでいるナミに事務的に尋ねると、ナミは特に表情を変えずに「ん」と頷いた。クオンは手袋をしたまま、できるだけ手早くナミの服の裾を上げて腹を見る。リトルガーデンで何かの虫にでも刺されたことが原因であるなら、服が燃えたこともあって可能性があるなら腹か足。一応すぐにジャケットを着せたが─── 果たして、ナミの腹にごくごく小さな赤い点があるのを認めたクオンの目が鋭さを増した。
 床に膝をついて身を屈め、顔を近づける。指を伸ばして触れれば、やはり見間違いではなかった。


クオン?そこ、何かあるの?」

「……ええ」


 どこかぼんやりとした問いに顔を上げてナミを見れば、青白さよりも発熱による赤みが目立っている。服を戻し、腰を伸ばして額に触れると熱かった。クオンの体温の方が低く感じるのだろう、気持ちよさそうにナミが目を伏せる。


「おそらく虫に刺されて何らかの病原菌が体内に入ってしまったのでしょう。航海士殿が自覚してから熱が上がるのも早い……私が渡した薬では気休めにしかなりませんね。一刻も早く医者に」

「ダメよ!」


 ナミの鋭い声がクオンの言葉を遮る。はっとして見れば、上がり続ける熱に意識が侵されているだろうに、それでも強い光を湛えた目でクオンを見上げていた。


「今、医者になんてかかってる暇はないわ。あんただって分かってるでしょ、クオン…!ビビの故郷くにが、アラバスタが今どんな状況か!」


 ぎらりと睨むような目に、ぐっとクオンの喉が詰まる。被り物越しに視線を滑らせるとナミの机が目に入り、その上に置かれた新聞が目についた。見れば3日前の新聞だ。そこに書かれた記事を、もちろんクオンは知っている。アラバスタの国王軍30万人が反乱軍に寝返った事実は、元々国王軍60万、反乱軍40万による鎮圧戦の形勢が逆転することを意味する。
 だから一刻も早くアラバスタへビビを送り届けなければいけないことも、分かっていた。伝えればビビが気に病むからクオンが黙っていた記事を、おそらくナミもビビを慮って見せていないことは察せた。


「私があんたを呼んだのはね、クオン。持ってるんでしょ?私にくれた薬よりも強いやつ」


 熱に浮かされながら、うっすらと笑むナミにクオンは答えなかった。だがその存在を示唆したのは間違いなく自分で、そしてそれは、確かに胸の内ポケットに入っている。
 しかし、この薬を与えるつもりだったのは医者を捜す猶予を得るためだ。決してアラバスタまで隠し通させるためのものではない。それにアラバスタまでここから1週間以上はかかる。薬で抑えるのも限界があると、ナミの腹を見た瞬間に考えを改めた。


「ダメです。私の薬を服用したとて、それは症状を抑えるだけのもの。医者に診てもらい、根本的な治療を行わなければ」

「ねぇクオン、あんたはビビの執事なんでしょ。ビビのことだけを考えればいいじゃない。この船は真っ直ぐアラバスタへ、それまであんたの薬で抑えて、アラバスタにさえ着けば私はすぐに医者にかかる。約束する、だから」

「しかし……」


 渋るクオンは、確かにビビの執事だ。主のことだけを考えればいい、というのも間違ってはいない。しかし、主のためにナミが病気に喘いでいるところを見て見ぬふりをして、薬を与えて苦しみを長引かせることは、絶対に間違っている。何よりもクオンがそれを望まなかった。

 ビビが風呂へ行ったタイミングで女部屋へ呼んだことから、ナミが誰にも知られたくないことを分かっていて、それでもクオンはビビとルフィへ話を通そうと決める。クオンひとりで判断していいことではない。ナミに乞われるまま薬を与えるつもりもなかった。

 立ち上がったクオンがもう一度「ダメです」と首を横に振って踵を返そうとしたそのとき、驚くほど強い力で左腕を掴まれた。ぎりりと細い指が腕に食い込む。無言で見下ろせば、ぎらぎらと苛烈なほどに燃える目がクオンを射抜いた。


クオン、お願いよ。私、私は─── もう、海賊に故郷を荒らされるところなんて、見たくないの」


 左腕に爪が立てられる。さすがに痛みを覚えたがクオンはやはり何も言わず、ただ黙って見下ろしていた。ナミもそれ以上は何も言わずにクオンを見つめる。得意の交渉も取引もなく、泣き落としでもなく、渦巻く心中を晒してクオンの心が動くのを待っている。
 どれだけの沈黙があっただろう。呼吸を10はゆうに数えて、先に折れたのはクオンだった。


「…………約束をしてください、航海士殿」


 被り物越しだからという理由だけではない重く低い声で、ナミの強い意思を尊重することに決めたクオンは条件を告げる。
 薬は与える。それで異常な熱も平熱程度に引くはずだ。しかし、この上がりようではいずれ薬も効かなくなる。そして、薬が切れたときに訪れる苦しみも想像を絶するだろう。肺を焼き、脳を焼き、骨すら焼いて、全身が痛みに軋むはずだ。再び服用し、薬が効くまでそれに耐えねばならない。


「誰かひとりにでも気づかれればそこまでです。私はあなたの言い分をすべて切り捨てて医者に診せます」


 左腕を掴むナミの右手をほどき、床に膝をついて目線を合わせたクオンはその手をベッドに置き手の平を上に向かせた。懐から薬包紙を取り出してやわらかな手にのせる。


「薬は都度渡しますが、切れたからといって連続で服用できるものではなく、そこはどれほど乞われたとしても決して曲げません」


 きゅ、と薬を手にしたナミの手を己の手で握り込みながら、被り物の下で眉をひそめたクオンは強い口調で続けた。


「約束をしてください、航海士殿」

「……うん。分かった、約束するわ」


 どこかあどけなく、だがしっかりと頷いたナミが安堵したようにほっと熱い息を吐く。ありがとう、と礼を言われて、クオンはどういたしましてとは言わなかった。
 無言でナミから手を離して立ち上がる。そろそろビビが戻ってくるかもしれないから、薬を渡した以上女部屋を出て行くべきだ。

 踵を返したクオンは、今度は引き留められずに階段に足をかけた。女部屋を出て、じきに風呂から上がるだろうビビを待つために壁に背を預ける。元々の目的であるケア用品は女部屋入口の脇に用意されていた。

 腕を組んで被り物の中にとけて消えるほど小さくため息をつく。ととと、と軽い足音を立ててハリーが足元にやってきたと思えばすぐに肩まで駆け上がった。愛らしいハリネズミの顎の下に指を伸ばして軽く撫でる。

 ナミが病状を隠し通すと決めたのだから、それに応えるためにクオンも揺れる心を隠し通さなければならない。特にクオンに関して第六感が異常に働くビビ相手には。
 細く深い息を長く吐いて、すぅと息を吸うと同時に眉間のしわを消したクオンは、瞬きひとつで鈍色の瞳に凪を取り戻した。





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