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「……ねぇMr.3、王女や他の2人はいいけど、クオンは生かさなきゃ」


 ぽつり、ミス・バレンタインから吐き出された低く抑揚のない声に、澱んだ光のない目でクオンを凝視する女を横目に見たMr.3は冷や汗をにじませた。
 言葉ひとつ、視線ひとつすらなく女を狂わせた美しい執事はやはりこちらの誰をも見ることはせず、だが唐突に現れた麦わら帽子の男達にやわらかな笑みを浮かべてみせた。それに腹の奥底が激情に揺れる程度には、Mr.3もあの秀麗な顔をした執事を渇望し、ただの蝋人形とするには惜しいと思っている。
 だがミス・バレンタインに勝手なことを言われるのは困る。麦わらの一味の生殺与奪の権を手にあの執事と交渉してその身をもらい受けるのは、己でなければならないからだ。


社長ボスに捧げれば、喜ばれそうだガネ…)


 あまりに美しい、恐ろしいほど秀麗に整ったあの顔は私のものだ。そう、いびつに唇を歪ませて男は笑った。





† リトルガーデン 15 †





 ゾロが刀を鞘に納め、しかしすらりとまたひと振り、今度は白い鞘から引き抜いて高く掲げた様子にクオンはこてりと首を傾げる。あんた何やってんの、と被り物を被ったナミが訝しげにツッコめば、「固まるんならこのポーズがいい」ときた。


「それよりその足の出血何とかしなさいよ……って、え、何でもう塞がってんの!?」

「知らねぇ」

「おや、都合良く蝋で固まってますねぇ」


 しらっと嘯く2人の言葉に、ゾロの足首だけ白く覆われているのを見てナミが怪訝そうに首を傾けるが、塞がっていない傷を見るとこっちが痛くなるから塞がっているならまぁいっかと気にしないことにしたようだった。


「ところでクオン、これ何なの?呼吸は楽だし、ちょっと見にくいけどそれでも外の様子が普通に見えるし、ただの被り物じゃないわよね」

「ええ。特殊な製法で作られたものです。視界は明瞭、通気性がよいので熱がこもることも普段の呼吸を妨げることはありませんし、防塵、防水、耐火性にも優れていて、さらに防弾防刃などなど、あらゆるものから頭部を護る機能に特化しています」

「通気性と防塵防水は両立しないんじゃない?」

「被り物の首元に紐がついているでしょう。それをちょちょっといじって機能を切り替えるんです。今は防塵機能の方に振っていますので、被り物が蝋で固められても中の空気がなくなるまでは耐えられます」

「へぇ、便利なものね」


 ナミはクオンによって被らされた被り物に触ろうとするが、固まった腕は動かずに被り物の下で不満げに唇を尖らせる。
 ナミとビビに被り物を譲ったために秀麗な顔を晒したクオンは、ルフィが現れたことで先程までの焦燥を消したナミの様子に目を細めて僅かに笑みを深めた。その落ち着きようなら、被り物の中に残った空気を無駄に消費することはなさそうだ。
 全身真っ白であるがゆえに今は疑われていないが、そろそろ適当なところを蝋で覆わねば不審に思われる。煌めく雪色の髪は輝きを残していて、クオンを凝視し続けているミス・バレンタインはうっとりとしているが、それこそがおかしいとは思い至っていない。

 能力を微調整して適当なところに蝋を張りつけようとしたクオンは、唐突に自分の周囲にぐわりと白いものが伸び上がったことに目を見開いた。


クオン!?」


 慌てたようなビビの声が聞こえる。同時に全身を取り囲むように頭上も覆われ、光ひと筋射し込むことのない、まったくの闇がクオンの視界を染め上げた。

 一方、まるで棺桶のような長方形の四角い蝋で瞬く間に隠されてしまったクオンに、見ていることしかできなかったビビ達3人は呆然とする。クオンひとりを囲むにしては箱は大きく、厚みがあることが分かる。これでは陽の光はもちろん、外の音すらクオンには届かないだろう。逆も然りだ。


「あーっ!お前クオンに何すんだ!!」

「あの執事をコレクションに加えるのはやめだ、あれは私が飼うことにしたガネ!」

「は?」


 ルフィの怒声にMr.3が狂気をにじませた顔で笑い、ビビの目が据わって剣呑さを帯びた。クオンを……飼う…?低い呟きと共にゆらりと揺れた不穏な空気を蝋の箱越しにゾロが読み取る。
 あの執事、あの女以外もちゃっかり堕としてやがった。内心呻いたゾロが苦い顔でため息をつく。本人としてはそのつもりはまったくなく、むしろいい迷惑だと思っているのだろうが。顔が良すぎるのも問題だな、ともうひとつばかり、今度は深く吐き出した。






「……」


 狭い闇の中に押し込まれたクオンは手を伸ばして壁に触れる。ひんやりと冷たいそれは硬く、軽く拳で叩けば硬質な音がした。
 コン、コン、ココン、コン、コン、と壁を叩いて音を立てる。拳を離せば余韻もなく静まり返り、思っている以上の厚みがあるのだろう、蝋の壁は外の音もまったく通さず、耳が痛いほどの静寂にクオンの鈍色の瞳が揺れた。


「…………」


 努めて平静を装おうとする呼気が微かに震える。まったくの闇。静寂。外の様子は分からず、いったい何が起きているのかが把握できない。
 クオンの脳裏によぎるものがあった。同じような闇の中、外の喧噪も、人の声も、戦う音も、悲鳴も、断末魔も、人間の体が地面に倒れる気配すら分からない、光の一切が射し込まない深い深い闇の底で蹲って嘆くことしかできなかった、己の姿。


「……、……」


 違う。違う、あれ・・と今は違う。頭では分かっているのに、感情が揺さぶられて心臓が嫌な音を立てる。ぎしりと軋んだのは、蝋の霧によって固められることはなかった体だ。
 外の音が聞こえない。どれだけ耳を澄ませても、聞こえるのは己の呼吸音と耳の奥で鳴り響く心臓の鼓動だけ。きぃんと耳鳴りがするほどの静寂がクオンの喉を締めつけた。ひゅ、と乱れた呼吸を皮切りにしたように、闇を映す瞳が大きく揺れて宿る光が散乱する。


「……ちがう」


 クオンはかぶりを振った。短い雪色の髪がぱさぱさと揺れる。脳裏にこびりついた赤を思い出したくないのに、己の白い手にべったりとついた赤い血潮を思い出してしまった。無意識に懐に手を入れて、そこに常に被っている被り物がないことが、さらにクオンの心を揺さぶる。
 違う。ここはリトルガーデン、巨人達の決闘の場。決してあの、血と泥と埃に濡れた地ではない。分かっている。分かっているのに、闇色の静寂がクオンの全身を搦め取って体を強張らせる。

 出なければ。ここから、これから、出なければ。頭ではそう思うのに、出るすべは分かっているのに、白い手袋に覆われた手は震えて力が入らない。瞳孔が開く。嫌な汗がにじむ。引き攣る顔を片手で覆ってぎしりと音が鳴るほど握り締めた。


(なんで)


 光の一切がない、何の音もしない深淵の闇は、恐ろしかった。これと同じ闇の中に押し込んだ者が脳裏に浮かび、次いで他の人間達の優しい声が耳朶を叩いた気がした。顔の見えない、クオンと同じような被り物をして素顔を隠した人間達は、すべてすべて赤く染まって地面に倒れ伏していた。


(なんで、私を生かした)


 ダメだ、と理性の一部が判じる。呑まれている。闇の中に、細切れのフィルムのように切り替わる記憶の向こうに意識が引きずられそうになって、くずおれそうになっている。


(姫様)


 暗い冥い暗澹とした暗闇の中、クオンはひと筋の光を見たのだ。ネフェルタリ・ビビはクオンの光で、蹲るクオンの頬を掴んで顔を上げさせてくれた。好きよ、大好きよ、愛しているわ、と本心を紡ぐその美しい声を思い出して、震える膝を叱咤する。
 ぐっと息を詰めて曲がった背をぴんと伸ばし、ゆるゆると息を吐いて、揺れる鈍色の瞳に光を集めた。


(くずおれるな、立っていろ。私は万が一船長殿が倒れたときに奴らを何とかしなければならない。そう口にして、そう決めて)


 あの剣士に、殿を任された。そうすることを許されたのだから、応えなければならない。
 闇は恐ろしかった。何の音も聞こえず、何も視界に映さない闇の中、脳裏に浮かびそうになる凄惨な光景を別のもので塗り替える。
 ビビの微笑みだ。それさえあれば何だってできた。怒っている顔も拗ねている顔も悲しげな顔も嬉しそうな顔も楽しそうな顔も照れた顔も容易に思い浮かべることができて、強張った顔に小さな笑みがにじむ。

 ぐら、と唐突に地面が揺れて体が傾いだ。はっとして蝋の壁に手をつく。外の音は変わらず聞こえない。光も射さない。だが確実に外では何かが起こっている。ドン、と上下に揺れる衝撃が数瞬遅れて体を揺らし、状況が分からず鈍色の瞳を忙しなく瞬かせた。


「何が……」


 呆然と呟く。揺れはすぐにおさまり、元の闇と静寂がクオンを取り囲む。


「…………」


 外ではルフィが暴れ回っているだろうから、今の揺れもルフィが何かしでかした結果のものだろう。それが良い方向のものであればいいが、船長殿はトラブルメーカーですからねぇ、とクオンは笑み混じりに嘆息した。ルフィの顔を思い浮かべれば、ここが闇の中だと忘れそうになる。

 クオンは努めてゆったりと呼吸を繰り返す。どれだけ振り払っても恐ろしい闇はひたひたと迫って心と体を搦め取ろうとするが、別のことに思惟を傾けることで気づかないふりをする。
 ビビのことを。この胸を灼いた光のことを。そして─── ふと、耳の奥に響く低い声が、あった。


『何度も言わせるなよ、クオン


 そう言った男の顔を思い出す。凶暴な笑みだった。獣のようなそれだった。こちらを見据える眼光は鋭く、その揺るぎのない白刃のような眼が、この心臓を貫かんとして。


『おれをよく見とけ』

「……見たくとも、これでは見ようがありません」


 ぽつり、落とされた呟きが拗ねたような響きをしていることに、クオンは気づかなかった。
 闇しか映さない瞼を閉ざす。そこにあるのもまた黒い闇だったが、月の光を浴びて凄絶に笑う男の姿も自身の足を斬り落として戦おうとしていた男の姿も、瞼の裏に鮮明に描くことができた。

 白手袋に覆われた右手で目許を覆う。さて、外の状況が分からない今、いったいどのタイミングでこの闇から飛び出そうか。
 鮮やかな若草色の髪の下、左の耳で揺れる3つのピアスが光を反射して煌めくさまを思い出しながら、血の気を失くした唇が引き攣るような笑みを浮かべた。





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