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 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物の下にあった、絶美と評して尚足りない美しい顔は、それを目にした者の思惟を根こそぎ奪う。
 しかし己の美しさが及ぼす周囲への影響に頓着しないクオンはすぐに地上の人間達から興味を失くしたように目を逸らし、痛みを忘れた顔で凝視してくるエルバフの戦士をいたわるように見て、手元の被り物をいじるとそれをビビに向かって投げた。


「わっ!?」


 かぽっと頭に被らされたものと同じ被り物をもうひとつ懐から取り出したクオンがまた内側に手を入れていじり、今度はナミへ向かって投げる。こちらもきっちり被らされたナミもまた驚いた声を上げ、クオンは最後にゾロへ視線を向けていたずらに微笑みかけた。


「剣士殿の分はありません。他でもないあなたに斬られましたのでね」


 耳当たりの良い、涼やかで男にしては高めの声が蝋の霧が降りしきる音に乗って軽やかに響く。被り物をしていても分かる、クオンの美しい顔を見てビビが目をかっ開いてガン見している様子を視界に端に入れながら、ゾロは「必要ねぇ」とぶっきらぼうに返した。





† リトルガーデン 13 †





 最初に我に返ったのは誰だったか。
 クオンは唐突に目の前に降り立った存在に、顔はゾロに向けたまま鈍色の瞳だけを向けた。途端、ミス・バレンタインがぼっと頬を赤く染め、そっとその手に持った傘をクオンに差しかける。


「王女の執事……クオンっていうのね?あなたとても綺麗だわ。本当に…こんなに美しいものがこの世にあるなんて…」


 うっとりと恍惚としてクオンを見上げるミス・バレンタインを通り過ぎ、クオンはゾロから今度は逆隣のビビへと微笑みかけると、やわらかくあたたかなその笑みに射抜かれたビビが妙に愛嬌があるようで間の抜けた被り物を被ったまま胸に手を当てて打ち震える。被り物によって低くくぐもった声が音にならない呻きを発していてぶっちゃけ不気味だったが、クオンはくすくすと優しく笑うだけで、その笑みも眼差しも、声も意識も何一つ己に向けられないことに嫉妬したミス・バレンタインが怒りに顔を歪めた。


「ねぇ!私を見てよ、私に微笑みかけて、私に声をかけて?私を……そう、そうだわ、さっきその女にしたみたいに、優しく抱きしめてちょうだい。ねぇ、いいでしょう?こっちを向いてったら、クオン

「ちょっと!クオンの名前を軽々しく呼ばないで!クオンは私のなんだから、絶対に誰にもあげないんだからね!!」

「うるさいわね!!私は今クオンと話してるの!!!」


 瞬時に復活してぎゃんと噛みつくビビを、恐ろしい形相でミス・バレンタインが切り捨てる。しかしクオンに見られていると思うとぱっと顔を明るくしてクオンの方を向き、しかし当の本人は変わらず優しい顔でビビを見つめているだけで。
 その美しい微笑みも甘く細められた鈍色の瞳も微かにこぼれる笑声も、まだこちらを向くことはない。─── 私を、見てくれない。それになぜだか恐怖すら抱いて、自分にまとわりつく蝋の霧のことなど頭の中から消え失せたミス・バレンタインは焦燥のまま口を開いた。


「ねぇ、私のものにならない?そしたら助けてあげる!贅沢だってさせてあげるわ!私に優しくしてくれるなら何でもしていいし、何だってしてあげるし、いつでも好きなだけ食べさせてあげる、欲しいものは全部全部あなたにあげるわ!!」


 言葉を重ねるたび、この世のものとは思えないほど美しい執事が無反応を貫くほどに、ミス・バレンタインの瞳から理性が消えていく。ひくりと笑みを描いた唇の端を引き攣らせ、揺れる瞳の瞳孔が開いていく。地上から咎めるような声がして、うるさい、と思った。
 今はもう、目の前の執事のことしか考えられない。彼が微笑みかけてくれることしかいらない。やわらかくあたたかな眼差しと共に甘くとろけた鈍色の瞳を向けられて、涼やかな声で名前を、そうだわ本名を教えないと、だってバロックワークスだなんて、もう、どうでも・・・・いい・・じゃない・・・・


「私のものになって、クオン。そうしたら、たくさん愛して・・・あげるわ・・・・


 だから、私を愛して。



「─── 良くないものですね、あなた」



 口調はやわらかいのに、低い、無機質な声だった。嘲りすら含まれない、どこまでも透明な音。その声が自分に向けられたものだと理解するまで時間がかかって、ミス・バレンタインはぴしりと表情を凍りつかせる。
 鈍色の瞳はどこまでも冷えている。何の感慨もなく、まだその辺の虫に向ける眼差しの方がやわらかいのではと思えるほどに、冷徹さを帯びていた。その美しい顔に笑みはない。嫌悪すらなく、白皙の美貌は何の表情も浮かべていなかった。


「何で?」


 ミス・バレンタインは真っ白な頭で呟きを口にする。
 何で?何で拒否されるの?何で拒絶されたの?何で私を見ているのにそんな目をするの?何で私じゃないの?何でその女なの?何で?何で?何で?何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で────


「そっか」


 ミス・バレンタインはわらう。


「その王女がいなくなれば、あなたは私のものになるのね?」


 そっかそっかとわらう女を、やはり執事は白けた目で見ていた。
 だが天啓を得たミス・バレンタインは頬を真っ赤に染めて幼い少女のようににっこりと笑い、まるで1+1の答えを導き出したように自慢げに胸を張る。


「分かったわ、その王女が死ぬまでは待っててあげる。どうせすぐだもの、我慢できるわ」


 クオンに差しかけていた傘を引き、照れたようにくるくると回しながら、軽く土台を蹴って飛び上がったミス・バレンタインはそのまま己のペアやMr.3がいるところへ戻っていった。執事を助けてあげるだなどと勝手なことをとMr.3が怒っていることも気にせず、美しい顔はもちろん、陽の光に透ける雪色の髪やしなやかな肢体を瞬きもせずに見つめている。
 そうして声ひとつかけずにひとりの女を狂わせた執事は、既に自分を求めた女のことなど忘れたように意識の欠片も向けず左手で首を撫でてビビの方に顔を向けた。クオンの被り物をしているせいでその表情は見えないが、被り物の下ではむっすりと唇を尖らせることくらいは分かる。


「姫様、そんな顔をしないでください」

「だって、クオン。……体が固まってなかったら、一発くらい入れたかったわ」


 ビビは被り物の下で頬を膨らませる。クオンがとても魅力的でどうしても欲しくなる気持ちは分かるけれど、だからといって好き勝手に物を言うあの女だけは許せない。今だって、クオンが自分のものになると疑っていない態度を見れば腹が立つ。
 クオンは私のもので、クオンもそれを認めているのだから、第三者が入る余地などどこにもないのだ。精々が「浮気」程度。その可能性すら潰えたことをクオンの言葉が表していたが、あの女は気づいていないのだろう。それもまた、腹が立った。クオンのことを本当に何も見ていない、分かっていない。

 ぎしぎしと既にまともに動くことができない自身の体を見下ろすビビに目許を和らげるクオンは、全身真っ白であるため固まっている部分とそうでない部分が判然としない。
 それでもその呼吸は落ち着き、髪を耳にかける動きに不自然な鈍りはない。被り物をせず口を開いて直接蝋の霧を吸い込んでいるというのに噎せもしないクオンは、何かしらの─── 効果を秘匿している悪魔の実の能力で不自由なく動ける様子を横目に見たゾロは、クオンとビビを通り過ぎて体の半分を降り注ぐ蝋によって固められている巨人に声をかけた。


「おっさん、まだ・・動けるだろ?」

「!」


 反応を示すブロギーを見て、突然何を言い出すのかとクオンは目を瞬かせてゾロを振り返った。その視線を感じながらも素知らぬふりをしてゾロは言葉を続ける。


「その両手両足ぶっち切りゃあ…死人よりは役に立つはずだ」

「!?」

「おれも動ける。─── 足斬り落としゃあな。一緒にこいつら潰さねぇか?」

「剣士殿?」


 固まりかけた手で刀を引き抜いたゾロを、クオンは怪訝そうに見つめた。何を言っているのだろう、この男は。


「大人しくしていてください。まだ猶予はあります。それに、まだ船長殿は来ていませんが、来なかったら来なかったで───」

「お前が『何とかする』ってか」


 剣呑さを帯びた低い声音がクオンの言葉を叩き斬る。横目に向けられた目は凪いでいるが、その奥で瞬く光は苛烈さを宿していた。
 思わず口を閉ざしたクオンはその烈しい光に射抜かれ、ふざけんなと言外に言われた気がしてそうだとも頷けずにゾロを見つめる。


「おれはお前を信用していないわけじゃねぇが─── お前に全部任せて傍観決め込むほど、腑抜けたつもりはねぇ」


 強い言葉だった。くもりひとつない白刃がクオンの心を両断する。
 ビビと同じように後ろに庇うようにして背を向けていたはずのクオンの横に、この男はぎらぎらと燃える瞳と持ち主の闘気に当てられて歓喜する刀を引っ提げ立たんとする。否、横に、ではない。前に。クオンよりもさらに前に踏み出していく。お前が「何とかする」のは、おれがやるだけやって、斃れて、それでもルフィが来なかったそのときだと言わんばかりに。


「何度も言わせるなよ、クオン


 ぎしぎしと固まりつつある腕を動かしながら、ゾロは口角を吊り上げて凶暴に笑う。獣のような笑みだった。まるで、よそ見をした瞬間に喉元に牙を突き立てんとするような。


「おれをよく見とけ。見誤るな。─── おれはお前に、殿しんがりを任せる」


 ひたりと据えられる真っ直ぐな目には揺らぎひとつない。言葉通りにゾロはクオンに任せるつもりなのだ。
 それは、重苦しいほどの信頼だ。ルフィがここへ来ることを疑っていないくせに、万が一間に合わなかった場合のすべてをクオンに託そうとする。出会ってたった数日の、得体の知れない真っ白執事に。

 瞬きもせずにゾロを見つめるクオンは、そうしてひとつ、この男に許された。





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