水平線の彼方は紅く、燃えているようだった。夕焼けを彷彿とさせるその色はしかし、横一文字を描いただけですぐに朱金へと転じ、瞬きひとつ分の白を引いてすぐに青色を薄く塗っていた。薄い青は視線を上げるにつれて濃くなり、名残惜しげに宵の色を滲ませているが、町で一番高い場所に佇む執事がそれを見ることはない。
 海が空の色を映し取って同じ色に煌めく。水面みなもの揺らぎが白くけぶるさまを、ただじっと見ていた。

 黄金にも似た光が水平線から顔を出す。丸いその光はやわらかく、目を灼くほどに鮮烈で、そしてあたたかい。静寂に満ちた町が、ゆっくりと昇る太陽の恩恵を今か今かと待ち侘びているようだった。

 すぷ、と気の抜けるような寝息が肩の上で鳴る。そちらには顔を向けず、けれど小さな笑みだけをこぼして、クオンは朝焼けを眩しそうに見つめていた。





† 東の海 4 †





 ローグタウンを出て、“偉大なる航路グランドライン”の入口へ向かう彼らを追うために海を・・駆けて・・・いた・・クオンは、ふと前方に一隻の船を認めて被り物の下で目を瞬かせた。
 後ろからなので帆に描かれているだろう海賊のマークは見えない。だが、メインマストとミズンマストに掲げられた海賊旗に麦わら帽子のドクロマークが描かれているのを確かめて、あれが目的の船だと判った。
 海賊船にしては随分と可愛らしい船ですね、と被り物の下で口の端を小さく吊り上げる。


「ハリー、少々揺れますよ」


 左手にアタッシュケースを、右手に大きな布袋を抱えたクオンが肩にしがみついているハリネズミにひと声かける。はりゃ!と気合い十分な声を返した相棒の小さな手に力がこめられたのを感じると同時、クオンは足下にある海面・・を踏む足にぐっと力をこめた。
 目の前の海賊船に飛び乗るために音もなくその場を跳び上がる。痩躯ではあるが小柄とはいえない体が空気を切り、後部甲板で手すりに凭れて眠っていたらしい緑髪の剣士が瞬時に身を起こして鯉口を切ったのが眼下に見えた。いい反応ですね、と感心しながら後部甲板を飛び越え、みかん畑を越え、空中でくるりと体を反転させて下を見れば、太陽光を遮る影が見えたのだろう、そこに集まる数人が上を向く。真っ白い何かを目にしたオレンジの髪をした女が、えっ、と目を見開いた。


「こんにちは、お邪魔します」


 ストン、と静かに中央甲板に着地したクオンは、正面に立つ麦わら帽子の少年に向けて言葉を落としながら流れるように胸に手を当てて腰を折る。
 突然空から降ってきた人間にぽかんとするオレンジ髪の女、黒髪の鼻の長い少年、後部甲板からやって来る緑髪の剣士を被り物越しに視線を滑らせてそれぞれ一瞥し、そして目的の人物であるモンキー・D・ルフィへとゆっくりと上げた顔を向けた。


「あれ、お前」

「昨日ぶりですね、船長殿」


 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた、愛嬌があるようで妙に間抜けな猫を模した被り物をした全身真っ白執事を覚えていたらしいルフィに、クオンは礼を解きながら笑み混じりに声をかける。だが被り物のせいでその声は抑揚と感情が削がれ、どこか淡々とした声音を彼らに届けた。


「おいルフィ!そいつ…!」


 後部甲板から駆けつけた緑髪の剣士が抜き身の刀を手に警戒心を多分に含んだ鋭い声を上げると同時に、音もなく震えるものがあった。しかしそれは物理的なものではなく、クオンの心の琴線へと直接届かせるもの。鋭く玲瓏なその“声”は、威嚇するような響きだ。クオンはその発信源である、剣士が握る刀を一瞥した。


(─── 妖刀持ちとは)


 あの広場では人の気配が渦巻いていたから気づかなかったが、剣士の持つ刀は紛れもない妖刀だ。朱色の革包太刀拵かわつつみたちこしらえに乱刃。どれだけの血を吸ってきたのかは分からないが、随分と物騒なそれに緑髪の剣士が気に入られている事実は素直に驚いた。
 しかしクオンは今構うことではないと意識の端に追いやり、ルフィに「昨日の頭が変な白い奴!!」とだいぶ失礼なことを指を差されて言われ「おや、返す言葉がありませんね」と朗らかに返した。その朗らかさはかろうじて伝わったらしく、「そこ認めんのかいっ!」と鼻の長い少年にツッコまれたがまぁ物理的に文字通りのことなので特段否定はしなかった。

 アタッシュケースを床に下ろし、左手で首を撫でたクオンがすいと右手を掲げて大きな布袋を差し出す。


「お肉、食べたがっていたでしょう」

「え!?肉!!?」


 途端目を輝かせて布袋を凝視するルフィに「ルフィ!!!」と仲間3人が目を吊り上げる。突然現れた得体の知れない人間となに普通に会話してんだ、餌付けされるなとその顔が如実に語っていて面白い。
 ふふふ賑やかですねぇとクオンが被り物の下で笑みを噛み殺していれば、なんだなんだと後部甲板へ続く階段の先にある船室からもうひとり金髪の男が出てきて、なぜかいる真っ白執事を見るとぎょっと目を剥いた。


「おいおいどういう状況だこれ、なんで昨日の奴が船に乗ってるんだ。つーかどっから来たんだこいつ?」

「知るか、おれが聞きてぇ」


 金髪と緑髪の男達の短い会話をよそに、クオンは右手の荷物を床に下ろして布袋の包装を解いた。するとその中から、こんもりと盛られた個包装の塊が顔を出す。大の大人の男の両手よりも大きな特製バーガーにルフィが目を輝かせて覗き込んだ。


「海王類の肉を使った限定バーガーですよ。こちらはバンズの代わりに肉厚ステーキを使った特製で、こちらは海王牛タンバーガー、他にもいくつか見繕ってきました。どうぞ」

「これもらっていいのかぁ!?ありがとうなシロ助!!!」

「おや、私にはクオンという名がありまして」

「分かった、クオン!」

「こちらは相棒のハリネズミのハリーです。ハリー、船長殿にご挨拶を」

「はりーぃ!」

クオンとハリーか!!よろしくな!!」

「「「「よろしくすんなァ!!!」」」」


 流れるように和気藹々となる2人と1匹にルフィの仲間が大きな青筋を浮かべて怒鳴る。えー別にいいじゃねぇか肉くれる良い奴だぞ、と言いながら既にルフィは肉厚ステーキバーガーを手に取り口にしていて、頭を抱える4人をぐるりと見て小さく首を傾けたクオンが口を開く。


「あ、ポテトとコーラもいりますか?ナゲットもきちんとご用意してありますよ。コーラが苦手でしたら別のドリンクも」


 そうじゃねぇよ!!とまた異口同音。なんだ違うのか。


「てめぇはどこの誰で、何の目的でこの船に乗ってんだ」


 気の抜けるやり取りに毒気を抜かれたのか、ひとまず刀を納めた剣士が柄に手を添えながらクオンに問う。無駄な質問がないところに好感が持てたクオンは素直に答えようと思ったが、その前に。


「早く食べないと船長殿に食べ尽くされますよ。あなた方の分も含めて結構多めに買ってきたつもりだったのですが…」


 ちらりと見ればルフィは既に4個目に突入している。随分とおいしそうに満面の笑顔で食べてくれる姿は気持ちがいいほどだ。
 今更何だかんだと言う気が失せたのか、困惑しつつも食欲をくすぐる匂いにつられた長い鼻の少年がひとつ手に取って包装紙を剥いでいく。ひと口食べれば「お、うめぇぞこれ」とこぼした。呆れたため息をひとつ吐いてオレンジの髪をした女がポテトの方に手を伸ばし、美味いと聞いて気になったか金髪の男がシンプルなバーガーをひとつ口にして「ほーォ」と感心の声を上げ、緑髪の剣士はその場に立ったままただ真っ直ぐクオンを睨むように見ていた。クオンは彼らの様子をそれぞれ一瞥してから改めて口を開く。


「私は見ての通り執事です。私が仕える主は現在“偉大なる航路グランドライン”のとある島におりまして、色々あって私は“東の海イーストブルー”まで流れてきてしまったので帰るための船に乗りたかったのです」

「“偉大なる航路”から?」


 オレンジの髪の女がぱっと顔を上げる。ええ、と頷いたクオンは話を続けた。


「多少の航海術は身につけていますから適当な船を買って行こうとしましたが……何やら町で大暴れした海賊がちょうど“偉大なる航路”へ向かいそうじゃあないですか。なので、ついでに乗せていただこうかと。よろしいでしょうか船長殿?」

「おう、いいぞ」


 6個目に突入したルフィが笑顔であっさり頷く。今度はもう誰も船長の名前を呼んで咎めなかった。どうやら諦めたようだ。
 うーん、我ながらこんな怪しい奴をそんな簡単に乗せていいものでしょうか、と思わず自分で思うほどのあっさり加減にクオンが被り物の下で苦笑する。


「ちょっと待て!お前執事っつったな、海賊船に乗り込むくらいだ、まさか悪い執事じゃねぇだろうな!」


 床に座り込んで2個目のバーガーを口にしていた長鼻の少年が眉をひそめて立ち上がる。その強い眼差しを受け、はてとクオンは内心首を傾げた。悪い執事、とはいったい。


「悪い執事…?主のことを思いやってるようで心の中で蔑んだり、賊に町を襲わせてその騒動に紛れて主を害したり、主を犠牲にして得た平穏をのうのうと享受するような執事の風上にも置けないクズのことを仰る?」

「めっちゃ具体的だなお前」


 何だよ見てたのかよ、と言われて何のことか分からず首を傾げたが、特に追及する気も起きなかったクオンは言葉を続けた。


「私は主のために厳しくすることはあれど、己のために主を害するくらいなら死を選びますよ」


 その真剣な響きは被り物越しにも伝わったようで、澄みきった覚悟が窺える声を聞いた長鼻の少年は「そ、それならいいんだ」と頷いてドリンクに手を伸ばす。にっとルフィが笑い、剣士の眼差しがほんの少しだけ和らいだ気がした。


「はりーぃ」

「ハリー、それは彼らのものですからね、あなたはこちらを食べなさい」


 ふいに肩から飛び降りてバーガーの山に向かおうとしたハリネズミを呼び止め、懐から出した小さな布袋を身を屈めて渡す。ハリーは嬉しそうに受け取ると中から取り出した小さな乾パンを器用に前足で持って齧りついた。手の平よりも少し大きいくらいの体躯でもぐもぐと小さな頬袋をつくる様子はなんともまあ愛らしい。屈んだクオンが指で優しく額を撫でると嬉しそうに鳴いた。


「ハリネズミなんて初めて見たわ」


 ナゲットをつまむオレンジの髪の女がハリーを見下ろして呟く。床に座り直した長鼻の少年も確かにと頷き、随分と人に懐くもんだなぁと言いながら一心不乱に乾パンに齧りつくハリネズミへ向かって指を伸ばした。


「ハリーは私の相棒ですからね。あと、その見た目で“偉大なる航路”生まれの逞しい子ですから」

「うぎゅるるるぐがァアア!!!!」

「軽率に触ろうとすると指を食いちぎられますよ」

「もっと早く言って!!?」


 愛らしい様子が一転、背中の針をぶわりと逆立て、ナイフのように鋭い牙を剥いて伸ばされた指に向かって首を伸ばしたハリネズミに、言葉通り指を食いちぎられそうになった長鼻の少年は慌てて指を引っ込め、顔を真っ青にして叫んだ。






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