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「お~~~いクオン!お前だけずるいぞ!!おれも食う!!」


 ラウンジのドアを勢いよく開けてルフィが飛び込めば、そこにいたのはサンジとナミの2人だけで、突然現れた船長に目を見開いたあと、サンジの目が静かに据わった。


「メシはまだだ、昼まで待て。クオンもここにゃいねぇよ、あいつは───」

「サンジさん、クオンいる?」

「ビビちゃん♡真っ白執事はいねぇよぉ~♡」


 ルフィの後ろから現れた麗しのレディにサンジが身をくねらせて質問に答える。
 あれ、じゃあどこに?と首を傾げて目をしばたたかせたビビに、執事の被り物をぽんと叩いたナミが口を開いた。


「お風呂よ?さっき頭から紅茶を浴びちゃって」


 その言葉に、私よりも先にナミさんに紅茶を振る舞うなんてだとか私がいながら他のひとと一緒だなんて浮気よ浮気だとか頬を膨らませることも忘れ、限界まで目を見開いたビビは「はぁ!!?」と大きな声で叫んだ。





† しろいひと 9 †





 まさか絶妙な行き違いが生じているとはまったく思いもしていないゾロは、風呂場のドアの前に靴が置かれていないことを確認して中に誰もいないと判断し、しかしドアにかかったカーテンの存在には気づかず、腰に差した刀を脇に置いてブーツを脱ぐとドアノブに手をかけた。
 ガチャ、とドアノブが回る音がする。ドアを外側に開き、頬を滑る液体を鬱陶しげに肩で拭い、浴室に足を踏み入れ、瞬間目の前が白く染まって思わず動きを止めた。
 下に向けていた視線が上へ持ち上げられ目の前の白いものを把握しようと脳が回転を始める。ばちりと鈍色と目が合った。


「─── は?」

「……おや」


 驚きから目を瞠る白いものが喋って、白いものがクオンであることを理解して、ドアノブを掴んだまま目を見開くゾロの全身がぎしりと音を立てて固まった。無意識に視線が上から下へと滑る。
 濡れて艶めく雪色の髪を覆うタオルと、それを支えるたおやかな手。初めて目にした針を自在に操る指は細く、そして長い。きれいに切り揃えられた爪が見えて、天井に吊られたランプの光を反射するさまにきちんと手入れがされていることを知った。頭をすっぽりと覆うバスタオルと対比してより小さく見える秀麗な顔は淡く色づいていて、濡れたように煌めく鈍色の瞳を縁取る朱を刷いた目許や形の良い唇は紅を差さずとも赤みを帯び、何ともいえぬ色香が漂っている。両手を回せば容易く折れそうな細い首、なだらかな肉付きの薄い肩、かぶりつきたくなるような鎖骨、そして─── 女特有の、やわらかな膨らみ。


「は?……はァ!!?おっ、おま、お前…!?なん、女……!!?」


 決して小さくはない、けれど大きすぎてもいない、陽が当たらないがゆえに新雪のように美しい双丘の頂が慎ましい薄紅色をしていることに気づくと同時に我に返り、クオンを指差しながら大いにうろたえたゾロは視線を跳ね上げてクオンの美しい顔を見て、動揺するゾロとは対照的に羞恥も動揺もその一切をあらわにしない静かな表情にさらに混乱を深めた。ぱちりと瞬いた鈍色の瞳は、かっちりとした燕尾服の下に隠していた秘密を知られたというのに、ただ突然ゾロが風呂場へ現れたことに対して驚いただけだ。

 ゾロはクオンの顔と胸元を数度行き来し、なぜかさらにその下にまで視線を下げ、なまめかしいくびれを過ぎ、男であるならついているはずのものがないことに眩暈を感じた。髪と同色の薄い体毛が生えるそこは、どこからどう見ても女のそれである。
 そうしてガッツリバッチリ全裸を見られたクオンは、やはりきょとんと目を瞬かせるだけで。おもむろにバスタオルを首にかけたことで上半身が隠れるが、首元の髪をわしゃわしゃと拭く様子に、隠したくて隠したわけではないらしい。腕が動くと当然胴体も動き、つまりはたわわなおわん型の双丘がたゆんと揺れた。おいバカやめろバカおれを何だと思ってんだバカ男を前にして平然とすんなバカまずは前を隠せこのバカ野郎、と百万語は続きそうな罵倒の言葉が喉の奥で絡まる。だが結局何の言葉も発せずにゾロはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。それでも風呂場のドアを閉めるという発想には至らず、ただ2人は無言で向かい合っていた。


 ─── バァン!!


「ちょっとビビ、どうしたの!?」


 ふいに頭上、つまりはラウンジのドアが勢いよく開かれる音とナミの驚いた声、そして荒い足取りで階段を下る音が続いて、やばい、まずい、と3文字が2種類、頭に浮かぶ。何がどうしてやばくてまずいのかはよく分からないが、ただ、今この場面を第三者に見られるのは非常にやばくてまずいことは確かだった。
 硬直していた全身が強張り、せめてドアを閉めようと無理やりに体を動かそうとすれば、濡れていた床に足を取られてぐらりと体が傾いだ。クソ、不覚、無様、情けねぇ、修行が足りねぇ、いやこれ修行関係あるのか?…ねぇな。どこか遠いところでそんなことを思って、瞬間宙を泳ぐ腕を強く引かれた。
 視界がぐるりと回る。バタンとドアが閉まる音がして、腕を掴む細い指の感触が離れたと思えば背中をしたたかに打ちつけた。不意打ちの痛みに肺が驚いて一瞬呼吸が止まり、投げ出された脚がゴムはけや風呂用のイスにぶつかってけたたましい音が響く。数瞬遅れて自分が床に尻をついた状態であることを理解し反射的に顔を上げれば、薄い笑みを浮かべた秀麗な顔がすぐ近くにあった。


「お静かに」


 白い指先が赤みを帯びた唇に寄せられ、密やかな囁きが耳朶を優しく叩く。ゾロと目線を合わせるように身を屈めるクオンの首からバスタオルが垂れて、そのあわいから白い双丘が覗いた。


クオン!…クオン!!大丈夫!!?すごい音がしたわよ!?」


 風呂場の外からビビの切羽詰まったような声が聞こえ、思わず身を固めるゾロを構わずクオンが顔を上げてドアの向こうの存在に笑みを深める。


「大丈夫ですよ、姫様。突然現れた剣士殿に驚いて躓いてしまっただけのこと。まさかドッキリハプニングが待ち受けているとは露ほどにも思っておらず」

「ビビ、いきなりどうしたのよ、クオンとゾロが鉢合わせしたところで、男同士なんだから何の問題もないでしょ?」

「ナミさん……ええ、そう、そうね……ちょっと過敏になってたみたい。クオン、顔が綺麗すぎるから変な気起こさせるんじゃないかって…Mr.ブシドーならそんなこと、ありえないわよね」


 ドアの向こうで繰り広げられるビビとナミの会話に、ゾロはドアに背中をつけたまま睨むような目でクオンを見上げた。誤魔化しようもない女の体をしたクオンは素知らぬ顔で笑っている。やはりそこに、羞恥心のかけらも見つけることはできなかった。いっそ無垢な子供のようにすら見える。


「もう出るつもりでしたので、何も心配することはありません」

「……そう、分かったわ。…待ってるから、早く戻ってきてね。そして紅茶を淹れてくれなきゃ床を転げ回って駄々こねてやるわ」

「ふふ、ええ、かしこまりました。すぐに戻りますから大人しく待っていてくださいね」


 ビビの言葉にしょうがなさそうな顔をして、けれどどこか嬉しそうにクオンが笑みを深めた。鈍色の瞳がとろりと甘く細められる。
 主従のドア越しの会話はそれで終わり、来るときとは違って随分と静かに2つの気配は去っていった。甲板に続くドアが閉まる音がしてようやくクオンが身を引き、無言でゾロの腕に指をかける。立ち上がらせるのかと思いきや予想外の強さで引かれて再度ぐるんと視界が回り、熱い湯が張られた浴槽の中に投げ込まれた。頭から浴槽に沈み、湯から頭を出せば既に立ち上がっていたクオンの背中が見える。


「そのにおい、あの海獣のひれを斬りましたね、剣士殿」


 ビビに向けるほどやわらかくも甘くもない苦笑混じりの言葉に、そういえばクオンも自分と同じ、どころか海水を浴びたせいでとんでもない被害を過去に受けたらしいことをぼんやりと思い出す。ひれから噴き出た液体自体には匂いらしい匂いはなかったように思うが、先程まで至近距離にいたクオンには分かったようだった。
 だがその言葉に肯定を返さず、ゾロは目を見開いてクオンの背中を凝視していた。正確には、白くなめらかであるはずの背中にこさえられた─── 大きく抉られたような、凄惨な傷痕を。
 背中の中心を起点に走る傷はあまりに乱暴につけられた醜いもので、古いものではないが、とっくに塞がっているのを見ると直近というわけでもない。ここ数年内にできたものだろう。風呂に入ったことで体温が上がったため、傷痕は薄く肉の色を晒している。
 返事がないことを訝ったか、振り返ったクオンは自分の背中を見つめるゾロの視線に気づいて目を瞬いた。


「気になりますか。そういえばあなたは背中の傷を恥としているのでしたね」

「……別に他人のまで恥だとは思わねぇよ」

「分かっていますとも。すみません、意地の悪い言い方でしたね」


 他意はないと示したクオンは浴槽につかるゾロに近づき、腕を伸ばして着替えを手にした。自分のものを手に取る代わりに、いつの間にかゾロが落としていた着替えをそこに置く。自分のものは洗面台に置いてバスタオルを首から外した。バスタオルに隠されない素肌に視線を感じるが、羞恥心を覚えることもなく淡々と上下の下着を身につける。


「その体液と反応するのは海水だけですが、石鹸の成分によっては反応してしまうのでまずは念入りに真水で洗い流してください」


 自身の経験から対処法を教えながら白いスラックスに足を通す。少し厚めの生地はクオンの白く細い脚をすっぽりと覆い隠した。


「ぬめりが取れたら大丈夫です。ああ、体液がしみついた衣類も同じように洗ってくださいね」


 でないと捨てなくてはならなくなりますよ、と言いながら白いシャツに袖を通す。きっちりと全てのボタンを留め、襟元を整えてシャツの裾をスラックスに入れた。手慣れた手つきでサスペンダーをつけてウェストコートを身につければ、艶めかしい肢体は禁欲的なほど覆い隠される。何もなければたゆんと揺れる胸元は厚い生地でできたウェストコートにしっかり覆われて、さらにその上からジャケットに身を包まれると、そこにあるのは固そうな男の胸元だった。同時に、完成した執事の姿は、裸体のときよりもひと回り膨れていることにゾロは気づく。


「……何も言わないのですね」


 白いタイをいじっていた細い指の動きを止め、クオンは顔だけ振り向いて鈍色の瞳で沈黙するゾロを見やる。
 何で隠してただとかビビは知っているのかとか訊かれると思ったのだが、この男はただ口を引き結んだままクオンと目を合わせるだけだ。ゾロは眇めるように片目を細くして口を開いた。


「おれが何か言ったところで何がどうなる。背中の傷に興味はねぇし、お前が男だろうが女だろうがビビの執事だってのも変わりはねぇ。ひとが隠してるモンをわざわざ言い触らすような下らねぇ真似をするつもりもねぇぞ、おれは」


 まぁ、驚きはしたがな。ぽつりと最後にそうこぼしたゾロが先程の自分の醜態を誤魔化すようにガシガシと頭を掻く。

 クオンは目を瞠った。絶対に何が何でも隠し通さねばならない秘密というわけではないので、裸体を見られたことに関しては問題だとは思っていない。まさか人が来るとは思わず完全に気を抜いていた自分が悪いのだから責めるつもりは毛頭なかった。
 だが、言い触らされる、または脅されるないし口封じの代償として何かしらの交換条件を突きつけられるくらいはあるかもしれないと、いまだゾロの性格を完全には把握していないクオンはそう考え、しかし真っ向からクオンの考えを切り捨てるような言葉が返ってきて素直に驚いた。
 思わず体ごと振り向いてまじまじとゾロの顔を見つめる。なんだよと胡乱げな目を向けられ、やわらかく唇をゆるめて微笑んだ。


「剣士殿、……いい男ですねぇ」


 クオンのしみじみとした心からの言葉に、ゾロははっと鼻で笑った。今更かよと続けられて確かにと頷く。この男の振るう太刀筋とその重さを思い出せば、クオンが考えたことなど起こり得るはずもない。
 上機嫌に笑みを浮かべたクオンは「それでは、私は失礼しますね」と律儀に言い置いてゾロに背を向ける。床に転がったゴムはけやイスを元の位置に戻し、自分のブーツを手に風呂場のドアを開けて出て行った。



 ─── その白い背中がぱたりと閉じたドアに遮られて見えなくなり、ドアの向こうでブーツを履いたクオンが甲板に出るところまで気配を追って、服を着たまま浴槽に身を沈めたゾロは深く重いため息を吐き出した。濡れた手で目許を覆い、瞼の裏にまざまざと浮かび上がる肢体と上気して赤みを差した美しい顔を思い出して喉の奥で低く唸ると口の中で舌打ちする。


「………………勃った」


 くそ、と湿った室内に小さな悪態が反響して消えた。



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