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 ブーツを履いたまま風呂場へと足を踏み入れたクオンは、吐息のようなため息をつきながらドアについた窓にかけられたカーテンを閉め、バスタオルを着替え置き場であるシャワー横の棚に置いて、まず先にジャケットを脱いで襟を見た。薄くまだらに染まったそこは範囲が狭く、これくらいならばすぐに洗えば問題ない。
 悪魔の実の能力者なので湯船につかるつもりはないが、どうせビビやナミが夜に入るだろうからついでに溜めておこうと蛇口をひねってお湯を出す。ざばざばと浴槽にたまっていくお湯を少しばかり拝借してジャケットを洗い、汚れを落としたそれを丁寧にたたんでバスタオルと共に置いた。

 ブーツと靴下を脱いで隅に置き、白手袋、ウェストコート、サスペンダー、シャツ、スウェットと順に脱いでいく。白手袋も紅茶の色に染まっていたが、替えはあるのでこちらはゴミ箱行きにするべく着替えとは別の場所に置いた。
 シャツを脱げばその下にあった女の胸があらわになり、躊躇うことなく背中に回した手でホックを外したクオンは、胸を支える下着からの解放感にほうと息をついた。





† しろいひと 8 †





 クオンが風呂へ向かうより少しだけ時間を遡る。

 海から突如現れた海獣に悲鳴を上げるウソップとビビ、驚きつつも口元には笑みを描くルフィとゾロ、怯えるカルーの頭の上でのんびり見上げるハリネズミが集まる前方甲板。
 “凪の帯カームベルト”を棲処とする海王類だが、だからといって“偉大なる航路グランドライン”へ現れない道理もなく。平たい頭部に長い胴の背を飾るひれをした大きな体躯の海獣は鋭い牙を覗かせて獲物を見下ろし、ふいに身を引いたかと思えば、勢いよくメリー号の横っ腹に体当たりをした。


「うわぁっ!?」


 大きく横に船が揺れ、叫んだウソップが甲板を転がっていく。笑っていたルフィとゾロも攻撃を加えてくるのなら話が違うと表情を引き結んで海獣を睨んだ。慌てたビビが助けを求めるように視線をめぐらせても白い執事の姿はどこにもなく、名前を呼ぼうと口を開いたときにはルフィが腕を伸ばして海獣を殴り飛ばしていた。


「グガァアア!!!」


 鈍い打撃音と共に海獣が大きくのけぞり、けれどすぐに傾いだ巨体を元に戻して咆哮する。人間などひと噛みで粉砕できるだろう牙を剥いた海獣に震えるビビの肩にひょいとハリネズミが飛び乗って引き攣る頬に小さな前足を当てた。


「はりはり、きゅるる」

「ハリー…」


 気の抜ける鳴き声と共にぽてぽてとやわらかな前足が頬に触れ、知らずほうと息をつく。“偉大なる航路グランドライン”産といえど小動物のハリネズミにとっては巨大で凶暴な海獣も大した脅威にはならないようで、そのギャップに戸惑っているうちに拳を構えたルフィが隣で抜き身の刀を手にするゾロに問うた。


「なぁ、あれ食えるかな?」

「さァな。斬ってからコックかクオンに訊けばいいだろ」


 一本は腰に納めたまま、両手に持った刀を陽光に照らしながらゾロが答える。そうすっかとルフィがのんびりと返した。サンジはまだ“偉大なる航路グランドライン”の生物にあまり明るくないが、クオンならば多少なりとも知識があるはずだ。そのクオンは、この騒ぎだというのに現れないが。


「よ、よーし!やれー君達!!おれの指示どーりに!」


 後ろからウソップの震えた声にへいへいとゾロがおざなりに返して刀を握る手に力をこめる。
 ビビは冷静になってきた頭で、どこかで見たことがあるような海獣を見上げて観察した。平たい頭部、ぬらりとした魚の目、鋭い牙、胴の背についたひれ─── この程度ならどこにでもある海洋生物の特徴だが、陽の光によってひれが半透明になり、薄い斑点を散らすさまを見て顔色を変える。


「ルフィ、おれがぶった斬る。その方が早ぇ」


 ゾロの言葉に任せたと頷いたルフィが構えを解く。それを受けて一気に駆け出した背中に、慌ててビビは「待って!!」と声を上げた。突然の制止に驚いたウソップとルフィがビビを向き、けれど既に手すりから跳び上がって刀を振りかぶっていたゾロの手は止まらない。あ?と訝しげにビビを振り返ったときには、白刃は海獣の首を斬り落としていた。

 ずる、と海獣の首が落ちて力を失った胴体がゾロの方へと首をもたげて倒れ込む。鮮やかな斬り口が晒され、同じくきれいに斬られたひれの部分から透明な液体が噴き出、手すりに着地したゾロは避ける間もなく頭からぬめりを帯びたそれを被ってしまった。


「うわっ、何だこれ!?」

「あ、あー…遅かった…」

「ビビ、あれは何だ!?まさか毒か!?」


 頭を抱えるビビの肩を掴んで慌てるウソップの言葉にぐっとゾロが液体を口に含まないよう引き結び、けれどビビは力なく首を横に振った。


「違うわ…飲み込んでも特に人体に影響はないの。でもね……」


 毒ではないと知ったゾロが体にまとわりつく液体に不愉快そうに眉を寄せ、首を斬られて海の底へ沈んでいく海獣を見下ろす。海に入って洗い流すかと思案していると、ふいに刺激臭が鼻をついて眉間のしわを深めた。


「海水と反応して、ものすごく臭くなるのよ。……クオンが前に同じ目に遭ったから間違いないわ」


 おそらく敵に攻撃を受けた際に強烈な臭いを出して逃げるためでしょう、動物や虫でもよくあることです、とかつて我が身をもって説明してくれた執事は、ひれを傷つけたことでゾロと同じように液体を浴び、洗い流そうと海水を浴びてとんでもない臭いを撒き散らしてから死んだ目でそう言った。やらかした、と表情を消した顔が語っていたことはまだ記憶に新しい。
 海に飛び込もうとした足を踏ん張って留まったゾロが顔を歪めて非常に嫌そうな顔をする。


「どうすりゃいい」

「真水で洗い流したら問題ないわ。一度でも海水につかると暫く臭いが取れなくて……うっ、そのときクオンは丸1週間私の傍に寄ってくれなかったの…!私は少しくらい臭ってもクオンなら構わないって言ったのに、言ったのに!顔を見せてくれるどころか絶対に近寄ってすらくれなかったのよ!!他に人がいれば姿を消すしいくら呼んでも来てくれなかったの!!おはようとおやすみは欠かしたことがなかったのにその間だけはどれだけ頼んでもしてくれなくて!!!」


 当時の記憶を思い出して「何でよ!!!」と床に拳を叩きつけて嘆き崩れ落ちるビビはいつものことと流し、ひとまず体についた液体を取れるだけ取って海に捨てたゾロはありゃ食えたもんじゃねぇなと深いため息をついた。骨折り損のくたびれ儲けとはこのことか。大した苦労もしていないが。
 真水、となればもう風呂しかない。液体がぬめりを帯びていたせいで足元を汚さずに済んだことは幸いとして、ボトムの濡れていない部分で手を拭ったゾロは手すりから甲板へと足をつけた。


「風呂行ってくる」

「そうだな、それがいい」


 不機嫌そうに呟くゾロにウソップが同意する。今の時間なら誰も使っていないし、朝食後にクオンが水汲み上げマシーンを使っているのを見たから濾過された水も十分にあるはずだ。機嫌はそこまで悪くないが面倒そうに着替えを用意すべく男部屋へ向かう背中を見送ったウソップは、まさか現在風呂場にクオンがいるとは、知る由もなかった。





†   †   †






 女部屋の後始末を終え、ひと息ついたナミはティーポットやカップ、クオンの飲みかけの野菜ジュースが入ったコップと小皿が置かれた盆を手に部屋の隅に転がっていた被り物を持って部屋を出た。
 クオンが風呂から上がったあとに洗おうと腕にかけていた雑巾を適当な樽の上に置き、甲板に出ると同時に男部屋の扉が閉まったがそれには気づかず、前方甲板でルフィ達が何やら話している声を聞く。
 先程の衝撃は何だったのかとぐるりと周囲を見回しても何の異変もないようで、彼らが何とかしたのだろう。

 トントンと階段を上がり、ラウンジのドアを開けて中に顔を出せば、昼食の用意をしていたらしいサンジがきょとんと目を瞬かせたのち、でれっと相好を崩した。


「ナミさん!どうしたんだい?あの執事野郎とお茶をしてたんじゃ……あれ、それは?」

「さっき船が揺れたでしょ。それでこぼしちゃって」

「ああ、そういえばさっき窓から何か見えたな…ルフィ達が相手してたみたいだから放っておいたんだけど……まさか怪我を!?」

「してないわ、クオンが庇ってくれたから」

「へぇ、あいつが」


 意外そうに目をしばたたかせるサンジに、内心ナミも同意した。基本的にビビにだけひたむきな心を向ける執事は、ナミが火傷をしないようにティーポットを払うことくらいはしたかもしれないが、まさかその身を挺して庇うとは思わなかった。
 庇わなければポットの中身がぶちまけられて被害が大きくなっただろうからありがたいことには変わりないが、やはり意外さは拭えない。

 そういえば、とふと思う。あれだけ大きく揺れたのに、クオンのために用意された野菜ジュースが入ったコップは無事だった。バーカウンターの酒類が無事だったのは棚を固定していたためで、カウンターに置かれただけのコップこそ真っ先に被害を受けそうなものだが、おそらくクオンは何とかしてぶちまけないようにしたのだろう。それで、ティーポットに向けるべき意識が遅れてしまったのかもしれない。どこまでも律儀で、まったくもって器用な執事だ。


「ほんと、ビビはいい男を執事にしたものよね」


 イスに腰を下ろし、テーブルにクオンが常に被る被り物を置いて、その愛嬌があるようでどこか間の抜けた顔を両手で挟むようにして添えると、ナミはほのかに苦く笑った。






 ナミがラウンジのドアを閉じると同時、男部屋の扉が開いてゾロが顔を出す。着替えを手に、さっさと済ませようと風呂場へ続く船室のドアを開けてその先へ消えていった。

 一方、甲板でいかにクオンが素晴らしく同時に融通の利かない頑固さをもっていてそこもたまらないでも浮気性が憎らしいしかしそのときに輝く瞳がまた美しくて、と熱弁していたビビはふと我に返ってきょろりと辺りを見回した。ビビが立て板に水のごとくつらつらと並べ立てるクオンの話を黙って聞いていたルフィがどうした?と首を傾げる。


クオンはどこに行ったのかしら」

「そういやあの騒ぎのときも来なかったな」

「もしかして、腹減ってメシ食ってんのか?ずりぃぞ、おれも食いたい!」

「「それはない」」


 クオンの小食ぶりを知っているビビとウソップが同時に首を横に振ってルフィの言葉を否定する。だがクオンとは逆に常に腹ペコ船長は立ち上がるとラウンジへと駆け出し、クオンが洗濯や掃除をしている気配もないためラウンジでサンジの手伝いでもしているのかとビビも腰を上げる。つられてウソップも立ち上がり、カルーやハリーと共に一同はラウンジへと向かった。





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