34





 前方甲板でルフィ、ゾロ、ウソップ達との会話に盛り上がっていたビビは、唐突にぐらりと船が大きく揺れて目を見開いた。


「な…なにっ!?」


 慌ててカルーにしがみつき、クオンの相棒であるハリネズミがビビの肩の上で背中の針を逆立たせる。ルフィ達もなんだなんだと驚いていて、ふいに響いた激しい水音につられて目を向ければ、大きく盛り上がった海面から水しぶきを上げて大きな海獣が顔を出し─── ぎょっと目を剥いた4対の視線と、ぬらりと光る魚のまなこがかち合った。





† しろいひと 7 †





「そうそうクオン、海図の件なんだけど、ウイスキーピークじゃ島の全体像を見る前に慌てて出航しちゃったから、島の形がよく分からないのよね。そこを教えてほしくて」

「お安いご用です。では、もう一杯を終えたら取りかかりましょう」


 紅茶を半分ほど飲み干したナミに言われ、野菜ジュースが入ったコップを手にクオンは快く頷いた。
 ナミがおかわりの一杯を終えてもクオンの一杯は終わりそうにないが、そこはサンジも時間をかけてもいいと言われているし、ナミが海図を描く傍らでちまちまと飲めばいいだろう。一気に流し込んでもいいが、朝食で腹は十分に満たされているから胃に負担がかかる上、何より流し込むにはもったいない味だった。
 ナミが望むのなら、あと一杯分くらいの紅茶は残っている。せっかくだしそれを飲ませてからでもいいかとクオンがまたコップに口をつけた、そのときだった。
 ぐらり、大きく船が揺れる。


「わっ…!?」


 突然の浮遊感と衝撃にナミの体が傾ぐ。スツールから滑り落ち、床にしたたかに尻を打ちつけたナミは、続いて巨大な何かが船の側面に体当たりしたような横殴りの衝撃に見舞われて横に転がった。スツールがけたたましい音を立てて倒れる。


「ったぁ~…いったい何なのよ!」


 小さく呻いて顔を上げれば、バーカウンターからはみ出し、今にも落ちそうなティーポットを見てナミは顔色を変えた。カップに入った紅茶は多少冷めているが、ポットに入ったそれはまだ十分に熱いはずだ。へたすれば火傷する。
 あ、と思ったときにはポットが傾ぎ、自分へ向かって落ちてくるのがスローモーションのように見えた。反射で頭を抱えるようにして蹲る。


 バシャッ


 何かに水がかかる音。次いでガラン、カラン、と何かが床に転がる音がして、けれど覚悟した熱が降ってこないことに遅れて気づいたナミは恐る恐る目を開けた。
 視界が少し暗い。床に暗い影ができている。ぽた、と視界の端で雫が床に落ちてはっと我に返る。顔を上げれば、熱い紅茶が入ったポットからナミを庇い、中身をすべて代わりに受けたクオンと目が合った。


「お怪我はありませんね?」


 そう言って鈍色の瞳を細め、形の良い唇を優しくゆるめて笑うクオンのなめらかな頬を舐めるように紅茶でできた筋が這う。光を反射して煌めく雪色の髪が赤茶色に染まり、白い燕尾服も襟をまだらに汚していた。ゆらりとクオンの髪から湯気が立って、相当な熱さだっただろうに呻きひとつ上げなかった執事は、ナミの無事を確認するとぽたぽたと顎を伝って床に滴る紅茶の残骸に眉を下げた。


「ああ、床を汚してしまいました」

「そんなことどうでもいいわよ!タオル、いいえ水!火傷しちゃう!」

「大丈夫ですよ、大したことありません。あなたに怪我がなくてよかった。それよりも……あの揺れはいったい。姫様はご無事でしょうか」

「今はビビより自分のことでしょうが!!それに、外にはルフィ達がいるからビビのことは心配しなくてもいいの!あんたの相棒だっていうハリネズミもついてるんでしょ?ちょっとは信用してよね!!」


 顔を近づけられてびしっと鎖骨の辺りに指を突きつけられたクオンはぱちりと瞬きをひとつ。次いで、ゆったりと視線をうろつかせると再びナミに視線を据えて小さく頷いた。それに息をついたナミは、はっとするとクオンの陰から出て腰を上げる。


「砂糖までついてるじゃない……クオン、お風呂入ってきなさい。タオルだけじゃ無理よこれ」


 クオンの頭頂部辺りに角砂糖が落ちたようで、紅茶にまみれてぐずりと溶けたそれが張りついている。違和感はあったのだろう、風呂をすすめられて困ったような顔はしたが、特に反論はなくクオンは「分かりました」と頷いた。


「ですが、タオルを1枚いただけますか。このままでは床もジャケットも被害が拡大してしまいます」


 ナミは、自分を庇って前傾姿勢になったままそう言うクオンに望まれた通りハンドタオルを手に取り、俯いたまま伸ばされた手に握らせようとしたところで動きを止めた。


「……?航海士殿?」


 近くにいる気配は感じているのにタオルを渡してくれない彼女に訝るクオンはいまだ紅茶を滴らせている。ナミはタオルを渡さず、紅茶に濡れる雪色の髪をゆっくりと撫でるようにして拭いた。
 水気がほとんどなくなるまでタオルを押し当て、首元まで垂れた雫も拭い、タオル越しに頬に触れたところで、ビビ曰くなめらかでつるつるでもちもち、が遜色ない事実であることに内心で驚く。男なのにそこら辺の女とは比べものにならないほどだ。だがずっと頬の感触を堪能するわけにはいかず、名残惜しげに頬からタオルを離して、最後に髪についた砂糖の塊を拭った。
 ナミが拭う間、クオンはじっとなされるがままだった。前髪の隙間から鈍色の瞳を覗かせてナミの動きを観察し、気遣いに満ちた、丁寧な手つきについと目を細めて瞼を伏せる。


「よし、これで垂れてこないでしょ!ほらクオン、後片付けは私がしておくから、あんたはお風呂に行ってきなさい」

「……ええ。ありがとうございます」


 紅茶を吸って汚れたタオルを自然な動きで奪うようにして受け取り、厚意を素直に受け取ったクオンは礼を言って立ち上がった。
 床にこぼれた紅茶だとか隅に転がっていったポットだとか、気になって後ろ髪を引かれる部分はあるが、ここは風呂場へ直行するのが正解だと分かっている。クオンができることといえば、タオルの洗濯が関の山だ。


「はい、バスタオル。今回だけ特別にタダで貸してあげるわ」

「おや、気前がいいですね。それでは遠慮なくお借りします」


 床に転がる被り物は後で拾うことにして、差し出されたバスタオルを汚れていない左手で受け取ったクオンは素早く女部屋を出て行く。

 ぱたりと天井の扉が閉まり、トントン、と軽い足音と共に風呂場のドアの開閉音がして、そこでようやくナミは深く呼吸をした。
 床に散らばる紅茶は、ほとんどクオンが庇い浴びてくれたことで軽く雑巾で拭けば問題ない。元々ティーポットにあまり量が入っていなかったことが幸いした。小さなミルク入れは盆にのせられたまま無事で、クオンが飲んでいた野菜ジュースのコップも中身をこぼさずバーカウンターに置かれている。
 突然の揺れのせいで予定が変更になってしまったことに小さく嘆息して、ナミは雑巾を手に床の掃除へ取りかかった。





  top