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 ふんふんと上機嫌に鼻歌を歌うビビにでれでれと相好を崩しながら朝食を用意する手を止めないまま、ご機嫌だねとサンジは声をかけた。


「分かる?サンジさん。実はとっても良い夢を見たの!」

「へぇ、どんな夢なんだい?」

クオンにすっごく甘やかされる夢!夢の中でもクオンは優しいから大好きよ!」

「あ゛?」


 喜び全開、満面の笑顔で告げたビビに、サンジの顔が面白くなさそうに歪む。羨ましい妬ましいと燃える瞳にじろりと睨まれたクオンは、ビビのたっぷりとした髪に念入りに櫛を入れながら被り物を被った顔を僅かに上げてキッチンに立つサンジの方を向き、「……今入れたレモン、レモン水を作るにしては多くありません?」「安心しろてめぇ用だ」「蜂蜜も入れてください」「わがまま言うな」と和やかな会話を繰り広げる。
 小さく肩をすくめたクオンが櫛を入れる手を止めて結い上げるためにビビの髪へ集中して顔を逸らすと、心優しいコックは蜂蜜は入れないがみかん果汁を混ぜてあげていた。その優しさはおそらくクオンが酸っぱいと思い込んでいるレモン水に口をつけて初めて明らかになるのが目に見えて、たぶんそのときにぱっと輝くだろう顔を想像して無意識か小さな笑みを浮かべるサンジを、そして今は何も知らないままうふうふと上機嫌に笑うビビに雰囲気をやわらかくゆるめているクオンを、ナミは頬杖をつきながら眺めていた。





† しろいひと 6 †





 朝食が出来上がり、サンジの「メシだ野郎ども!!」の号令を聞くや否やルフィがウソップやゾロと共にやって来て始まった賑やかな食卓で、クオンがマナー通り被り物を取れば「うぉ、顔が良い」とウソップが声を上げ、サンジは眉間にしわを寄せてやや不機嫌そうにクオンの前に特製レモン水で満たされたコップを置く。
 サンジが、クオンの顔が中性的且つ良すぎるせいで気の迷いを起こしそうな己に一番戸惑いながら憤っているのだとは露知らず、当の本人は酸っぱいレモン水を覚悟して口に含み、予想外の甘さと鼻を抜ける爽やかなみかんの香りにぱっと顔を明るくした。
 レモンの酸味がみかんの甘味を引き立て、口の中を優しく撫でる。おいしい、とふにゃりとゆるんだ美貌が一気にいとけなさを増し、クオンの隣をキープしていたビビとしっかり見ていたナミとちらちら反応を気にしていたサンジが胸を押さえて崩れ落ちた。

 飽きねぇなこいつら、とゾロが呆れを隠さずため息をつく。ウソップは他人の皿に構わず伸びてくるルフィの手と格闘するのに手いっぱいで、クオンの相棒のハリネズミはカルーと仲良く食事をとりながら動物同士何やら会話しているため崩れ落ちた3人に気づいていない。

 取り皿形式だとほとんど食べない、かといって一度に入る量も多くないと昨日のうちに悟ったサンジが用意した、子供でももう少しは食べるだろうと思われる量しか皿に載っていない朝食をクオンは静かに胃に収めていく。崩れ落ちる3人は昨日の夕食のときにも見たのですっかり慣れたものだ。順応力は高いので。

 デザートに出されたミニゼリーまできちんと食べ終え、朝食が終われば各自解散、各々好きな時間を過ごす。
 ルフィに誘われてラウンジを出ていったビビにハリーを預けて見送ったクオンはサンジに声をかけて食後の後片付けを手伝い、昼食の下拵えに取りかかるサンジにどうせ暇だったらと頼まれて階段下にある水汲み上げマシーンを使ってある程度海水を汲み上げながら発電して、さて次は何をしようかと甲板に出たところでナミに声をかけられた。


「双子岬からウイスキーピークまでの海図と航海日誌を書きたいんだけど、付き合ってくれるわよね?」

「構いませんが、ラウンジで?」

「ううん、女部屋」


 さらりと返された言葉に被り物の下で軽く目を瞠ると、集中したいのよね、とナミは前方甲板でわいわいと賑やかなルフィ達を振り向く。
 確かにいつ腹減ったと船長が突入してくるか分からないラウンジは集中力に欠けそうだが、目の前でオレンジの髪を揺らしてにんまりと笑う顔に方便だと悟る。昨晩女部屋に忍び込んだことは誰にも言っていないようだが、タダで見逃すつもりもないということか。そういうしたたかなところはクオンにとって好ましいところだった。


「よろしいのですか?」


 被り物を通して低くくぐもった、抑揚を欠き感情が削がれた声音が淡々とナミに問いを紡ぐ。きちんとした了承は取っておかねば後が怖い気がするのは間違っていないだろう。ナミは笑みを浮かべたまま「いいわよ」と返し、ぱちりと猫のような大きな瞳を瞬かせる。


「ビビが自慢していたクオンの紅茶、よかったら飲ませてちょうだい」

「……自分より先に航海士殿に飲ませたと、姫様に叱られそうですね」


 ずるいずるいと頬を膨らませるビビを脳裏に描いて喉を鳴らして笑うが、それは被り物の中にとけて消える。
 是と答えた執事に満足げに笑ったナミが踵を返して船室へと入って行くのを見送り、男部屋に一度入って隅に置いていた荷物の中から茶葉が入った缶をひとつ手にしたクオンはお湯とティーポットを借りるためにラウンジのドアを開いた。
 キッチンに立っていたサンジに目的のものの場所を問うと、ああと頷いて食器棚を示される。食器棚に向かうとヤカンに火がつけられる音がした。


「なんだ、茶が飲みてぇんならおれが淹れるぞ」

「航海士殿に私の紅茶を、と所望されましたので」

「はぁ!?クソッ、ビビちゃんといいナミさんといい、なんっで!てめぇばっかりがよぉ…!!」


 顔が良いからか、顔が良いもんなぁ、顔が良いことに感謝しやがれ真っ白執事野郎!!!と悔しげに歯を軋ませながら唸るサンジに殊勝に頷く。被り物をしているため伝わるかは分からなかったが、それ以上機嫌を損ねることにはならず、舌打ちひとつで感情を抑えたサンジが煙草を揺らした。


「ナミさんに飲ませる前におれがてめぇの腕を確認しときたいところだが……まあ信用しといてやるよ、執事野郎。で、ミルクと砂糖は?」

「ストレートで飲むことを勧めたいのですが、まだ航海士殿の好みが分かりませんからね、一応持って行きます」

「ん。で、茶葉は……へぇ、見たことはねぇが、いい匂いだな」


 クオンが差し出した、蓋を開けた缶に鼻を近づけて嗅いだサンジが興味深そうに目を瞬かせる。
 ウイスキーピークで定期的に食料を運んでくる業者から買ったもので、どこぞの島の特産なのだと言っていた。試しに買ってビビに飲ませたところ、大層気に入ったようで常にストックしていた。
 クオンは紅茶を飲まないのでこの紅茶の最初の味見はイガラムに任せたが、「クオンが初めて淹れた紅茶」を飲む権利を思いがけず得てしまった彼が恨みがましいジト目で暫くの間ビビに見つめられていたことがあったことは余談である。

 ヤカンが鳴き、お湯が沸いたので茶葉を入れたティーポットにお湯を注いでカップにも注ぐ。小さなミルク入れと角砂糖が3個のせられた小皿が盆にのせられ、入れ替わるようにクオンが持ち込んだ紅茶の缶は当然のようにキッチンの端、コーヒー豆や緑茶、サンジが用意したであろう紅茶の茶葉などがまとめられた一角に置かれた。
 ちらりと被り物越しにそれを目で追い、少し奥まった場所に置かれた缶を見る。クオンがビビのためにと用意した紅茶の缶は、意図しなければ誰の手にも触れられないだろう。そしてサンジはそれをむやみに他のクルーに振る舞うようなことはしない。
 男には優しくしないと公言するサンジは、クオンを気遣った事実などひとつもありませんとでもいうような顔をして眇めた目をじろりと向けた。


「おら、ナミさんあんまり待たせるなよ」

「ありがとうございます、コック殿」

「あとこっちはてめぇのだ」

「……ありがとうございます、コック殿」


 トンと盆に置かれたコップには、色鮮やかな野菜ジュースが半分ほど注がれていた。
 普段野菜ジュースは果実メインでないと自発的に飲まないクオンが被り物の下でどんな顔をしたのか分かったのだろう、「時間かけていいから飲みきれ」と念を押されて小さく頷く。渋々といった雰囲気が滲む被り物を見て子供かよと内心唸ったサンジによる偏食執事への食育計画は順調に進みそうである。

 とっとと行け、と物理的に背中を押される蹴られる前に一式が載った盆を手にキッチンを出て、ラウンジ前の手すりを乗り越えて甲板に降りる横着をしたクオンは船室に入り、女部屋へ続く扉をノックしてからナミからの返事をもらうと体を滑り入れた。

 危なげなく盆を手に階段を降りたクオンに顔を上げたナミが航海日誌を書いていた手を止める。
 机の前に座るナミを見て、本来なら航海日誌とは船長が書くものでは、と思いはしたものの、麦わらの一味の船長を少しでも知る者なら無言で首を横に振る事実に倣ってクオンも内心で首を横に振った。適材適所という言葉のなんと素敵なことか。


クオン、悪いんだけどもうちょっと待って。これだけ書いたら日誌は終わりだから」

「構いませんよ」


 どうせもう少し冷めないと火傷してしまう。クオンはひとつ頷いて女部屋の隅にあるバーカウンターへ盆を置いて準備を進めた。
 カリカリとナミがペンを走らせる音を聞きながら、ちらりと女部屋を見渡す。昨晩はビビのことに集中していたからあまり気にしていなかったが、なかなかに居心地が良さそうな造りをしている。大きな本棚にはぎっしりと本が詰まっていて、少し寄ってみれば航海術の本をはじめ、図鑑、簡単な医学書、童話物語、普通のよくある一般小説などジャンルは幅広い。本を抜き取って読む時間はないので、背表紙をざっと眺めるだけに留めた。


「よし、終わり!」

「ちょうどいいタイミングですね」


 ナミがペンを置いて立ち上がり、クオンは自然な仕草でバーカウンターへと促す。スツールに腰かけたナミの前で紅茶をカップに注ぎ、ミルクと砂糖はお好みで、と小皿を差し出した。
 ほこほこと薄く湯気を立てる、赤みがかかった琥珀色の紅茶をナミがゆっくりと口に運び、ひと口飲んでぱっと顔を輝かせた。


「おいしい!思ってたよりフルーティなのね。これならストレートでも十分飲めるわ」

「姫様もお気に入りの逸品ですので。時間があれば一杯だけでいいからとねだられてよく付き合ったものです」

「へぇー、で?クオンは私には素顔見せてくれないんだ?」


 にやりと笑うナミに、そのお茶会じゃビビに顔見せてるんでしょ?と言い当てられて「正解」と返す。2人きりのお茶会だ、ビビの願いを叶えるのはやぶさかではなかった。ただし、クオン自身が紅茶を飲むことはなかったので、別の飲み物で、だが。


「さすがにそれはできません、と言いたいところですが。コック殿にきちんと飲むよう釘を刺されていますので」


 言いながら、盆の端に置かれていたコップを掲げてみせる。
 被り物越しの声は低くくぐもり抑揚も声音に乗る感情も削がれていたが、被り物の下にあるだろう、眉を下げて苦笑した表情がありありと見えてナミは笑った。この執事、本当はくるくると目まぐるしく変わるほどに表情が多彩なのだ。
 立ち飲みは行儀が悪いかと、クオンはナミに「お隣失礼しても?」と声をかけて了承を得てから隣のスツールに腰を下ろした。同時にかぽりと被り物を取る。ほう、と感嘆のため息が聞こえてちらりと鈍色の瞳を向ければ、カップを手にしたナミに「あんた、本当に顔が良いわね」と言われて小さく笑みを刷いた。


「何でそんなのいつも被ってるのよ、もったいない」


 ナミに言われ、バーカウンターの端に置かれた被り物へ視線を滑らせる。上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物は、本来の顔も声も隠してしまう。改竄された声音はクオンの言葉を歪ませて相手に届けられ、それで誤解を招いたことはあったが、だからといって被り物をしないという選択肢はクオンにはないし、ビビもクオンの顔がこれ以上ないほどに好きだけれども被り物をするなと言ったことは一度もない。ゆえにクオンは、無言で笑みを浮かべるだけに留めた。

 野菜ジュースが入ったコップを唇に寄せて傾け、く、とひと口喉へ招き入れる。喉を通る野菜ジュースは青臭くなく予想外にまろやかで、おいしいと素直に思った。大体の野菜ジュースにあるように、基本的に主張の激しいトマトの存在感が控えめだからだろう。その代わりに別のものが入っていそうだが、中身を分析するような無粋な真似はせずにおいた。おいしく飲めるのならそれでいい。
 視界の端で言葉を返さないクオンにナミが肩をすくめたが、彼女もそれ以上何も言わずにカップを口元に近づけた。





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