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クオンは大丈夫よ、女の人に興味はないから手を出したりなんて絶対しない。すごい美女に誘われたってきっぱり断っていたの、この間こっそり見たもの。そうだ、ねぇナミさん、アーリーモーニングティーって知ってる?朝からクオンの顔を見ながら飲む紅茶は別格なのよ。たまに目が潰れそうになるけど。それに私の安眠と心の平穏と癒やしのためにも、これは必要なことだと思うのよね」

「つまり?」

クオンと一緒に寝たい」

「却下」

「何でぇええええ~~~!!?やだやだやだクオンと寝るぅ~~~!!!」

「姫様、駄々をこねない」





† しろいひと 5 †





 近くにある人の気配と、寝息にいびきと、たまに寝言が飛び交う男部屋のソファで薄い毛布にくるまり被り物を被ったまま横になっていたクオンはゆっくりと目を開けた。既に夜も更け、朝食の仕込みを終えたコックも規則正しい寝息を立てている。
 ゆっくりと音を立てずに上体を起こす。クオンの枕元で寝ていたハリーが眠りながらぷぷぷと鳴いたが、男部屋に響くいびきの音に掻き消された。

 夕食の後に食後のお茶を飲みながらナミに交渉してすっぱりと却下されたビビは、よく眠れているだろうか。などと、考えることもなく答えは出ているのだけど。だからこうしてクオンは身を起こし、ハンモックは落ち着かないからと断り寝床とさせてもらったソファからブーツを履いて立ち上がった。
 白手袋に覆われた手を取っ手がついたマストにかけ、するすると登っていく。天井にある、甲板に出るための扉を音を立てないように開けて外へ滑り出たクオンは、足下に響かないよう、足音と気配を消してラウンジの下、女部屋へ続く扉がある船室へと入っていった。





†   †   †






 ─── 誰かの、声がする。泣いているような声。

 ゆらりと意識を浮上させ、ナミはぼんやりと目を開けた。
 絞られた照明の光で、薄暗い女部屋の天井がいつもより色濃く見える。


「……パパ、…ガラム、……みんな」


 ぽそぽそと耳朶を打つ、涙がにじんだ声音が自分以外の人間の存在を教え、ビビ、と自分よりもひとつ年下だと聞いた少女の名前を呼ぼうとして、寝起きに掠れた声は空気を震わせただけだった。

 ナミは小さく鼻をすする音を聞き、寝返りを打ってビビの方を向いた。
 急な乗船だったから、床にマットを敷いて予備の布団を敷いただけの簡素な寝床で眠っているはずのビビは確かにそこにいて、けれどそこにいるはずのない存在が薄暗い中でぼうと白く浮かび上がったことにぎくりと肩を震わせた。


「……!」


 何かを叫ぼうとして、反射的にぐっと耐える。その白いものがもう見慣れてしまった執事であり、枕に顔をうずめるビビの頭を優しい手つきで撫でるクオンが素顔を晒していることに気づいたからだ。
 初めての女部屋で真っ暗にするのは不安にもなるだろうと、照明を絞られたランプにクオンに横顔が照らされる。伏せるように鈍色の瞳を下に向け、長い睫毛が白皙の美貌に影を落として、ぞっとするほど美しかった。だがその顔に浮かぶ微笑みがどこまで優しく、そしてあたたかいもので、心からの慈愛に満ちていることに無意識にほうと詰めた息を吐き出す。


(そんな顔、するんだ)


 確かにクオンはビビにいっとう甘く優しい顔を見せるが、ルフィ達の前ではまだ控えていた方なのだと、そのとき初めて知った。
 クオンの手がおもむろに伸び、まるで繊細な壊れものを扱うようにビビの体をすくい上げて抱える。片胡坐をかいた足の間におさめ、左肩に頭を置いて、水色の髪にそっと頬をすり寄せると囲むように左腕で抱きしめたクオンの右手がビビの頬を撫でた。起きるか、そもそも起きているかと思われたビビはくてりと体を弛緩させたままで、どうやら眠りの底についている。


「大丈夫ですよ、姫様」


 甘い、とろけるほどに甘く優しい声が静寂を震わせる。まるで一枚の宗教画のように、美しい顔をした執事は最愛の主に愛を囁かんとするべく言葉を紡ぐ。細められた鈍色の瞳がランプの光に照らされとろりと煌めく。


「何も心配はいりません。何も不安になることもありません。大丈夫、この私が、あなたの傍にいるでしょう…?」


 その声は決して大きくはない、ともすれば微かに聞こえる波の音に掻き消えそうなほどかそけしもの。けれどベッドの上で動けずにいるナミにはよく聞こえた。
 手袋に覆われていない白い手が、眠ったまま目を覚まさないビビの頬を優しく撫でる。まるでそこにある涙の雫を拭おうとしているようで、魘され険しく歪められていたビビの顔がゆるりとほどけるのを見て、ああ、とナミは目を細めた。

 故郷を想うビビの気持ちは、痛いほどに分かる。救いたいと願って、家族のために、そこに住む人々のために駆けずり回って、無力感に苛まれながらも顔を上げ続けたのは自分も同じだ。ルフィ達に救われた自分だから、海賊に故郷を荒らされている、同じような想いをしている少女を救ってあげたいだなんて思った。
 ナミには“姉”のノジコがいた。ひとりではなかった。ビビにはイガラムがいて、クオンもいる。ひとりではない。
 けれどナミには、ああして孤独と恐怖に震える夜に大丈夫だと囁いてくれるようなひとは、いなかった。ひとりで戦うと決めて、それに後悔はまったくないけれど。


(いいな。……ビビには、いるんだ、そういうひと)


 羨ましいと素直に思う。私にもクオンみたいな人が、ビビじゃなくて私の傍にクオンがいたら、なんて詮無いことを考えるほどに。
 彼らは主従関係ではあるけれど、その枠に収まらない関係性であることはよく分かっていた。何があってクオンほどの人間がビビに仕えているのかは分からないけれど、ビビからの特大な好意にはきちんと誠意をもって応えているのは見ていて分かる。まさかビビと同じくらいの熱量を抱えているのだとは、思わなかったけれど。

 咎められるどころか船を叩き出される可能性すら恐れずに女部屋へ忍び込み、不安に苛まれて魘されるビビを慰めるクオンを見て、夕食後にビビがあれほどクオンと寝たがった理由を察する。
 クオンの腕の中で眠れば、きっと悪夢も見ないし魘されることもないと知っていたのだ。そしてクオンはそれを分かっていて断らない。
 だがこの船のルールには表立って逆らわずに主を諫め、夜も更けビビが魘された頃を見計らってやってきたクオンは、きっとひと晩中抱きしめて眠ることさえ厭わないかもしれなかった。
 肉欲を一切伴わない、どこまでも純然たる、母が子に与える愛にも似たそれが、いいな、とナミは思う。


「姫様、……姫様、私の、大切な方。どうぞ安らかに、どうぞ穏やかに。心が揺れるならば支えましょう、涙があふれるならば拭いましょう、あなたを苛むもののことごとくを、私が何とかいたしましょう」


 歌うように、まるで子守歌の調べをなぞるようにクオンは囁き、薄暗い部屋の中に溶け、絶対の安心感だけを残して孤独を癒やす。眠ったままの少女の心は、きっと今までそうして白い執事に護られてきたのだ。
 何とかする、の言葉の安心感を、ナミはもう知っている。クオンはできることしか口にしない。口にしたからには必ず何とかするだろう、その誠実さを真っ直ぐに向けられるビビが、やはり羨ましいと思った。

 ぼんやりとクオンとビビを見つめていたナミは、ふと、白い執事の鈍色の瞳がこちらを向いていることに気づいて身を竦ませた。何も悪いことはしていない、むしろ咎められるべきはあちらだというのに、ひたりと据えられたそれにばつが悪い気分になる。
 だが、鈍色の瞳は優しい笑みの形に細められた。ビビの頭に寄せていた頬を離し、ナミの方を向いて、やわらかくゆるんだ形の良い唇の前に人差し指が立てられる。しぃ、と空気を震わせないクオンの小さな声を聞いた気がした。


「……!!」


 勢いよく寝返りを打ってクオンから体ごと顔を逸らす。枕に埋めた頬が熱を持っているのが分かって、それを振り払うようにぐりぐりと顔を枕にこすりつけた。
 ずるい、卑怯者、少しくらいは自分の顔の良さが他人にどう影響するかを理解しなさいよ、なんて悪態が喉の奥でぐるぐると絡まり、奥歯を噛み締める。
 クオンはきっと、ビビに向けたような顔を自分に見せることはない。そもそも普段は被り物を被っていて素顔すら見せてくれないだろう。けれど、だけど、しかし。誠実で浮気者なクオンであるならば。


(羨ましいって指を咥えて見ているだけなのは、海賊失格でしょ)


 奪うことはできずとも、その眼差しをやわらかにして向けさせることくらいは、できるのかもしれなかった。





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