31





 ビビとの本心でありながら茶番じみた戯れが落ち着き、共に前方甲板からラウンジへと戻る道すがら、入れ違うように船首へと駆けて行くルフィとすれ違ってふいに声をかけられた。


「なぁクオン!雪はまた降らねぇのかなー!」

「そうですね……降らないこともありませんが」


 足を止めてあの一本目の海が特別だったのだとルフィに真面目に説明するクオンを置き、ラウンジの前に立って進路を確認するナミのもとへとビビは足を進めた。別にこの程度でムッとするほどではない。
 つまり、次いつ降るかは分かりません、が、降る条件が重なれば分かりますのでそのときにまたお教えします、と締め括って話を終えたクオンに分かったと真面目な顔で頷いたルフィが「じゃ!行こう!!」とクオンの手を引っ張って回れ右、前方甲板へ連れて行って、「なぜそうなった?」と小首を傾げながらも抵抗せずついていくクオンの背中に頬を膨らませると、横から伸びた指に頬をつつかれて悪戯をされた。


「ビビ、あんた本当にクオンが好きなのね」


 ぷにぷにと頬をつつくナミがいたずらに笑い、ぷすーと頬の空気を抜いたビビは、照れもせずに当然よと大きく頷いた。





† しろいひと 4 †





クオンの魅力を語るにはひと晩じゃ足りないけれど───」


 それよりもナミさん、とビビは改めて麦わらの一味の航海士へと向き直った。


クオンがルフィさんに説明してた通り、リヴァース・マウンテンから出る7本の磁力が全てを狂わせていたから、一本目のあの海が特別だったの。だからって気を抜かないで。一本目の航海ほど荒れ狂うことは稀だけど、普通の海よりも遥かに困難であることは違いない。決してこの海をなめないこと。それが鉄則!!」


 この辺りの忠告はきっとクオンがすると分かっていて、それでもビビは口に出した。
 この航海士の腕は、クオンが認めている。ならば信用しても大丈夫なのだろう。何かあればクオンがサポートをするだろうし、心配はしていない。それでもバロックワークスから追手がかかっている今、それが自分のせいでもあるのなら、ビビはただクオンの背に隠れるだけの王女でいるつもりはなかった。
 自分はクオンみたいに戦えない。知識も経験も足りない。能力だってない、知略もめぐらない。できることはあまりに少ない。王女としての誇りと度胸を矛に盾にして奮い立っている少女は、自分にできることを手探りながら、いつ現れるかも分からない追手に備えてぐっと拳を握る。いつの間にか前方甲板に元からいたゾロ、ルフィ、ウソップにカルー達の中に混ざって何やら話をしているクオンも、ああ見えて周囲を警戒しているに違いなかった。
 クオンとの茶番で余裕を取り繕った心がまた緊張にぴんと張り詰めそうになったとき、ビビの耳にサンジの声が飛び込んできた。


「おい!!野郎ども!!おれのスペシャルドリンクを飲むか?」

「「「おお───っ!!」」」

「クエーッ!」


 いつの間にか大きな盆にカルー含めた人数分のグラスを載せたサンジがいて、人が真面目な話をしているときに、と思わず青筋が浮く。ルフィに手を取られて大きく上げられたクオンが被り物をしていても困惑しているのが分かって少しだけ心は癒されたが、ひと言くらいは物申したくなったビビは輪になるルフィ達を指差しナミを振り返った。


「いいの!?こんなんで!!!」

「いいんじゃない?時化でもきたらちゃんと働くわよあいつらだって。死にたくはないもんね」


 はいあんたの、とグラスに入ったサンジ特製スペシャルドリンクを手渡されて思わず受け取る。確かに、あの一本目の航海での動きを見れば有事の際には彼らがきちんと動くのは分かっている。それはそうだけど、とこぼしたビビはひとつため息をついた。


「なんか…気が抜けちゃうわ」


 ビビが見つめる先では、海賊船の男達が輪になってわいわいと賑やかに話している。ハリネズミ用にもきちんと小さな底のある皿に入れられたドリンクを渡し、クオンは辞退しようとしてサンジに小さなカップを「てめぇはこっちだ」と渡され、仕方なく被り物をずらして一気に飲もうとしたところで「それ取って、ストローで、ゆっくりでいいから、飲め」と本気でクオンへの食育をするつもりらしいコックに凄まれ渋々被り物を取った。
 被り物を取った途端に現れた美しい顔にサンジの肩が震えて固まり、ウソップがほんとお前顔が良いよなぁと呟いてストローに口をつけ、他2人は特に気にした様子もなく、カルーが器用にストローでドリンクを吸い上げる様子に我に返って咳払いをしたサンジがカルガモを振り返り「いけるクチだな、おい。うめぇか?どんどんいけよ!」と嬉しそうに笑ってカルーの横にしゃがみこむ。
 ウソップに釣り道具を作ってくれと頼むルフィと、釣りか、いいなそれと乗り気なゾロに挟まれたクオンが無言でストローに唇をつけて微笑む様子を瞬きせずにガン見するビビの横で、ナミがにっと歯を見せて笑った。


「悩む気も失せるでしょ、こんな船じゃ」


 朗らかなその声に、思わずナミを振り返ったビビはもう一度前方甲板で盛り上がる彼らへ視線を戻した。今度はクオンだけではなく、クオンを含めた麦わらの一味の姿を。
 クオンと話していれば気は荒ぶるが心が落ち着くし胸の奥からこみあげてくる不安が薄れる。安心感は絶大だ。
 けれどクオンとは違って、彼らを見ていればどうしてかそっと肩から力が抜けていく心地がした。色々とあれこれ考えている自分が何だかバカみたいで、クオンがすぐ近くにいなくても深く息が吸える気がするのは、きっと良いことなのだろう。
 だからビビは、ドリンクを片手にそよぐ風に長い髪を遊ばせ、カモメが穏やかに鳴く声を聞きながらゆるりと笑みを描いて素直に頷いた。


「…ええ。随分楽……」


 今までは、クオンとイガラムだけを信じていればよかった。イガラムと別れても、クオンさえいればそれでよかった。
 けれど自分を抱きしめてくれたナミの腕はあたたかくて、サンジの細やかな気遣いに満ちた食事はおいしくて、ゾロの強さが頼りになることは身に染みて分かっていて、ルフィやウソップの笑い声が、張り詰める緊張の糸をゆるめてくれる。
 クオンと2人だけでは得られなかったもの達を心に抱えて、浮気者はどっちなんだか、とビビは内心で自嘲した。


「おい、みんな見ろよ!イルカだぜ」


 ふいにサンジの声がして顔を上げる。サンジが見ている方向に顔を向ければ、海の波間から陽光に煌めく水しぶきを上げてイルカが顔を出した。可愛い、とナミが声を上げ、海面から飛び上がったイルカが船の方へと迫り─── 近づくにつれ明らかになる、その異様な大きさに全員の顔が引き攣った。


「デカイわ───っ!!!」


 ナミが叫んだ通り、イルカのサイズはこの船の大きさをゆうに超えていた。これではイルカが海に着水したら大波がくることは間違いない。戯れで船をつつかれれば転覆させられる可能性もあり、これはまずい、と全員の意見が一致する。


「逃げろ───っ!!」

「ほいきたキャプテン!!」


 迫る危機だというのに、楽しげに笑いながらルフィが声を上げてクルー達は慌てて立ち上がる。そんな彼らも船長同様どこか楽しそうに口が笑みの形をしているのだから肝が据わっているというべきか。


「姫様、大丈夫ですか」

「うん……ってクオン、まだ飲んでなかったの」

「飲み切るまで姫様の傍で大人しくしていろと…」


 クオンの手を借りるほどの危機ではないと判断されたようで、大きく揺れる船の上で小さなカップを片手にちまちまストローでドリンクを吸い上げるクオンが不服そうに動き回るルフィ達を見下ろす。陽光を受けてきらきらと輝く雪色の髪が揺れ、鈍色の瞳を軽く伏せたクオンは控えめに言って超絶顔が良い。
 船が揺れたことを言い訳にドリンクをこぼすことなくしっかり手に持って器用に吸い上げる律儀さを見せるから、サンジの食育はこれからも続くとはこれっぽっちも考えていないのだろう。


「ねぇクオン、それおいしい?」

「ええ、とても。コック殿の料理もデザートも、ドリンクですら一級品とは、船長殿は良い方を仲間に引き入れたものです」


 ストローから口を離し、形の良い唇からするりと称賛を紡いで美しく微笑むクオンにビビは見惚れる。じっと見つめるビビの視線に気づいたクオンに「……浮気、ではありませんよ?」と小首を傾げて言われ、そんな些細なことで浮気浮気言う私じゃないわ、と返そうとして、浮気浮気言ってるわね、と思い直した。浮気性をいかんなく発揮するクオンが悪い。


「ねぇクオン、今日一緒に寝ましょう」

「航海士殿が許さないでしょう、諦めてください」


 なんせ女部屋は男子禁制であるからして。つれないクオンにぷうと頬を膨らませるが、涼しい顔でストローに口をつける執事は主の視線も何のその、最後のひと口を飲み込むと「ご馳走様でした」とストローから口を離して懐から取り出した被り物を被った。途端にクオンの表情が分からなくなり、あからさまに残念そうな顔をしたビビはそっと伸びてきた手に頭を優しく撫でられて頬をゆるめる。
 ラウンジへ入り、キッチンのシンクにカップを置いて戻ってきたクオンが目の前の手すりを越えて中央甲板へと飛び降りた。ナミに指示をもらって手伝いに走るクオンの頭に鎮座する被り物を見たのだろう、すぐに食育係のサンジの声が飛ぶ。


クオン、ちゃんと飲んだんだろうな!?」

「大変おいしくいただきました。酸味を少々強く感じたのですがするりと飲めましたね」

「お前のはビタミン多めにしたからな」

「成程。私は甘い方が好きです」

「わがまま言うのはきちんと3食とるようになってからにしろ!!」

「聞く気はあるんですねぇ…」


 被り物越しに耳朶を打つ声は低くくぐもり、感情を削いで淡々としたものでありながら、決して呆れているわけではない笑みを浮かべていることを悟って、「ビビ、手伝って!」とナミに呼ばれたビビもまた、この船を先へ行かせるために動き出した。





  top