30





「そういえば、皆様にひとつ話しておかなければならないことがありました」

「何よ、クオン

「実は私、船長殿と同じく悪魔の実の能力者なので泳げません。そんなわけで、海に落ちたときはお願いしますね」

クオンもそうなのか!何の能力なんだ?」

「それは…」

「それは?」

「秘密です♡」


 形の良い唇にそっと立てた人差し指を当ててきれいなウインクをされ、胸を押さえて倒れたビビ、ナミ、ウソップ、サンジに、クオンはおかしそうに笑みをこぼして目を細めた。





† しろいひと 3 †





 大半がルフィの腹の中におさまったサンドイッチが盛られた皿は空になり、クオンもリゾットをきれいに完食してスプーンを置くと手を合わせた。


「ご馳走様でした」


 お粗末様、と言ってサンジに皿を取り上げられる。水を飲んでひと息ついたクオンが皿洗いくらいは手伝おうとイスから腰を上げて傍らに置いていた被り物を手に取り、「まだいいじゃないもう少しあと10分でいいから!」とごねるビビを無視して被ろうとしたところで、目の前に小さな器が置かれる。ぷるんと震える、生クリームが添えられたチョコプリンだ。


「デザートだ」


 そう言って、サンジは他の面々─── ナミとビビ以外にはカウンターに置いたそれを「野郎どもは勝手に取って食え」と指で差す。
 クオンにはわざわざ手ずから置いたのは、カウンターに置いておけばルフィあたりに食べさせてスルーされるかもしれないと考えたからだ。この偏食執事野郎をきっちり食育してやると誓ったこともあるし、決してナミさんやビビちゃんと同じ扱いをしたわけではない、とサンジは言い訳のように内心で呟いてじぃと濃茶色のチョコプリンを見下ろす執事を見て口に咥えた煙草を吸い、紫煙を吐き出す。

 一方のクオンは、上げかけた腰をすとんとイスに戻して被り物から手を離す。
 出されたからには食べねばなるまい、と思いはするものの、白手袋に覆われた手はなかなか動かない。
 甘いものが苦手というわけではない。むしろ好きな方なのだが、燃費のいいクオンは実のところ満腹だった。


「コック殿、申し訳ございません。私はそれほど量が食べられる方ではなく…」

「あ?もしかしてお前、小食なのか」

「ええ、まあ」


 困ったように眉を下げて笑うクオンに、さしものサンジも無理して食えとは言えない。適当な嘘には思えなかったし、ビビもサンジを見て頷いているから本当のことなのだろう。だがさして量があったわけではないリゾットだけで腹がいっぱいとは、こりゃまたルフィと極端に正反対な奴だなと唸るサンジから目の前のプリンへとクオンは視線を戻した。
 甘いものは好きだ。別腹も存在はする。だがしかし、頑張っても半分ほどが限界だろう。


「…私と半分こする?」


 そうビビは言うが、彼女は人並みに食べるしプリンだって本音では1個丸々食べきりたいはずだ。あーんさせてくれるならそれくらい、と言い出しそうだが、リゾットだけでサンジの料理の腕が抜群に素晴らしいのだと知った今、自分の小食のせいでビビが食べる分を減らすのは憚れた。

 さてどうしようか。サンドイッチをもしゃもしゃと食べていたハリネズミのハリーはそれで満足したようで、今プリンを差し出したところできっと顔を背ける。
 食べない、または全てあげるという選択肢はクオンにはない。前述した通り甘いものは好きなので、満腹でもひと口くらいは食べてみたいのである。

 既にプリンを飲み込むようにして食べ終えたルフィに半分あげようかと目を向けてプリンがのった器を手にしたクオンは、ふいにひょいと横から取られて目を瞬かせた。
 視線を滑らせれば、きれいな筋肉がついた男の腕が視界に入る。腕の筋を辿るようにさらに目線を上げて、いつの間にか席を立ちクオンの後ろに回っていたゾロが仏頂面のままスプーンをチョコプリンに差し込んでいた。
 多めに掬われたチョコプリンが、あ、と大きく開いた口の中に消えていく。歯並びきれいですねぇと下から見えたゾロの口を半ば呆然と見上げる。もぐり、と頬が動いて、眉間に深いしわが刻まれ精悍な顔がひどく歪んだのを見て、立派な喉仏が上下に動いて飲み込まれるさまを見届けた。


「……甘ぇ」


 ぼそりとした小さな低い呟きが落ちる。クオンのチョコプリンの3分の2を胃の中におさめたゾロは、器をクオンの目の前に戻してルフィへと顔を向けた。


「ルフィ、おれのも食っていいぞ」

「やった!ありがとうな!!」


 カウンターに残されたままのデザートに早速ルフィが嬉しそうに手を伸ばす。それにクオンがはっと我に返ったときには既にゾロが背を向けていて、こちらを一瞥することもなく「ご馳走さん」と言い残しラウンジを出て行った。
 ご馳走さん、とは、さて。クオンとサンジ、どちらに向けての言葉だったのだろうか。てめぇはよ、とサンジが苦虫を噛み潰したような顔をしたが、結局それ以上は何も言わなかった。

 クオンは3分の1ほどに減ったチョコプリンを見下ろした。ぷるりと震える濃茶色の肌が艶めかしい。生クリームには手を出されず残されたままで、これくらいなら食べきっても問題がなさそうだった。
 別に潔癖症ではないのでゾロが使ったスプーンをそのまま手にし、プリンを掬って口に入れて、口の中でとろける食感と濃厚なチョコの甘みに眦をゆるめて微笑んだクオンは、甘いもの─── それが全般なのかチョコだけなのかは分からないが、とにかく苦手なくせに困ったクオンを見かねて代わりに食べてくれた彼にさて何と礼を言うべきかを考え、そもそも礼を求めての行動ではなさそうだし言ったら言ったでおれが勝手にやったことだから礼など不要だと切り捨てられそうな気がしてならず、そのときに浮かべるであろう仏頂面に似た表情まで浮かんでくつりと喉を鳴らす。
 予想は想像、そして妄想だ。もしかしたら別の表情を浮かべるかもしれないからやはり後で礼を言おうと決めて、今は絶品のチョコプリンに舌鼓を打つことにした。










「先程はありがとうございました」

「……おれが勝手にやったことに礼を言われる筋合いはねぇぞ」


 前方甲板で目を閉じていたゾロに声をかければ律儀にぱかりと目を開けた彼に睨むような視線で見上げられ、返ってきた言葉が予想通りだったことに被り物の下で小さく笑う。


「私も勝手にあなたにお礼を言っているだけですよ」


 被り物越しの声は低くくぐもり、抑揚と共に感情が削がれて本心が読み取りにくい。ナミがあんたそれ被ったら分かりにくいんだから素顔でいなさいよと言うのを聞き流して被り物を被り、皿洗いの手伝い終えてゾロのもとを訪れたが、彼は静かな眼差しでクオンを見上げ、そうかよと言うだけだった。

 興味を失ったように再び目を閉じるゾロの横顔をクオンはじっと見つめて、改めて見てみると端整な顔立ちをしていることに気づく。普段は目つきがあまりよろしくないせいで強面な印象を与え、どこまでも真っ直ぐな眼光の鋭さと、まだまだ成長していく余地のある、無駄なく引き締まった男らしい肉体の方に目が向きがちだが、こうして静かに目を閉じていると清冽さが際立つ。これが戦闘となると一転して獣のような獰猛さと抜き身の刃そのものの煌めきを放つのだから不思議なものだ。
 動と静、真逆のものが相反することなくひとりの剣士の中で息づいている。これが成長を重ねてさらに研ぎ澄まされればどうなるのだろうか。
 同年代の男をつかまえてウイスキーピークで相対したときのことを思い出しながらしみじみとしていれば、観察するような視線が鬱陶しくなったか、眉間にしわを寄せて開かれた片目がじろりとクオンを見上げた。


「……なんだ」

「綺麗なものだなぁ、と」

「嫌味……じゃ、ねぇんだろうなお前は」


 恐ろしいほどに秀麗な顔を被り物で隠したクオンがことりと小さく首を傾ける。当然だ、ここでなぜわざわざ嫌味を言わなければならないのか。
 クオンにはゾロにケンカを売るつもりも、媚びを売るような器用さもまったくない。あるのはどこまでも誠実な心だけで、それが被り物によって曲げられはしても、だからといって差し出すことに躊躇いはなかった。


「それに、『よく見とけ』と仰ったのは剣士殿、あなたでしょう」

「……あァ、そうだった」


 おれが言ったんだったなとため息混じりに呟かれる。薄い唇が引き結ばれ、不機嫌そうに深くなった眉間のしわを隠すように広い額が武骨な手に覆われたが、見た目の通りに不機嫌であるわけではないことは察することができた。
 しかし、ではなぜそんな顔をするのかまでは分からず、クオンはじぃとゾロの手を観察する。
 節くれ立った、剣士の指だ。触ったらきっと潰れた剣だこが重なっただけ厚く固いのだろう。サンジよりもずっと短い緑の髪が目に優しく、降り注ぐ陽光に透けて綺麗だ。ふいにちらちら眩しい光が視界を掠め、左耳に金色のドロップピアスが3つ等間隔に並んでいることに今更のように気づく。それがゾロを軽く見せるのかといえば、まったくそんなことはなく、むしろ精悍な顔を男らしく引き締めているように見えるから不思議だ。
 すいと視線を下へ滑らせ、シャツの下にあるだろう大傷を思い出し、胡坐をかいた黒いボトムに覆われた足もまたよく鍛えられているのだろうと想像して、そういえばなぜ腹巻をつけているんでしょう、なぜかとてもよく似合ってるからまぁいいか、と上から下までまじまじと観察を終えたクオンは、うんとひとつ頷いた。
 この男もまた、「良いもの」だ。折れることのない信念を芯に据えた真っ直ぐな心根を内包する肢体は、「良いもの」でないはずがない。


クオンの浮気の気配を察知」

「うひょわぉう」



 ぬぅと脇から顔を出したビビに心底驚き、肩を大きく震わせたクオンは間抜けな声を上げて振り返った。
 ドッドッドッといつになく心臓がうるさい。いつもならビビの気配は感じ取れるのだが、どうやら新しく得た「良いもの」に夢中になりすぎていたようだ。ビビ風に言うなら「浮気相手」か。……それは何か語弊が生じそうなので考えるのをやめておく。
 というか、確かビビはナミにこの船の女部屋を案内してもらっていたはずでは。男子禁制ということでクオンの立ち入りは許されず、だから早々に男部屋に荷物を置いてビビが不在の間にゾロと話していたのだが。
 ビビに預けていたハリーが呆れたようにクオンを見上げていて、その相棒の冷めた視線にクオンは僅かにたじろぐ。ハリーまでそんな顔をしなくてもいいじゃないですかと拗ねた心地でハリネズミに指を差し出せば、ハリーはかぷかぷとクオンの指を甘噛みした。


「ダメよ、Mr.ブシドー。クオンはあげないわ」

「……だったらそいつの手綱しっかり握ってろ。あっちへふらふらこっちへふらふら、たちが悪ぃ」

「そんなふうに思われてたんです!?」

「じゃあ訊くけど。クオン、ルフィさんのことどう思う?」

「とても良いものですね」

「ナミさんのことは?」

「良いものをお持ちだと思います」

「ウソップさんは?」

「まだあまり話してはいませんが、そのうち腰を据えて話すのも悪くはないと思います」

「サンジさんは?」

「きっと良いものである予感がします」

「Mr.ブシドーは?」

「良いものですね、見目を個人的に気に入りました」

「とんだ浮気者じゃないのよ!!!!!」

「否定が…!できない…!!!」


 目を吊り上げるビビに詰め寄られて肩を縮こまらせるクオンが被り物の下で情けなく眉を下げていることはクオンの素顔を知る者には容易に想像がついて、またやってるよと言いたげな視線があちこちから突き刺さる。


「ほんの数日で何でそこまで絆されてるのよクオン!あなたはたらしこまれる方じゃなくてたらしこむ方でしょう!?」

「まるで私がナンパ男みたいなレッテルやめていただいても!?」

「貢いでも貢いでも客以上には見てくれないNo.1ホストのようには思ってるわ。そのくせ他にお気に入りを見つけて仕事中だってのに客を放って微笑みかけるタイプ」

「最低ですね私!!?」


 まさか最愛の主にそんなふうに思われているとは思ってもいなかったクオンは精神的に大ダメージを食らった。というか、ホストだなんだとそんなことをビビに教えたのはいったいどこのどいつだ。ビビの肩を掴んでそう問えば、ビビは頬を膨らませてぷいと顔を逸らした。


「私だってバロックワークスの社員だったのよ。それくらい知っててもおかしくないじゃない」

「姫様にそのような話はまだ早いと護衛隊長殿と相談して耳に入れないようにしてきたというのに……」

「今は私の話じゃなくてクオンが浮気者だって話でしょう!?」

「私は本命ひと筋ですが!!?」

「知ってるわよそれでも浮気性が治らないから私は怒ってるのよ!!」

「そういうところも好きだと言ってくれたじゃないですか姫様……」

「わぁまるっきりダメな男の発言。略してマダオね」

「天竜人でも殴り倒せばいいのです…?」

「本気でやりそうだからそれだけはやめて」


 喧々囂々、ケンカなのか単なるいつもの主従のいちゃつきなのか、ぽんぽんと弾む会話の中身はお互いに好意をぶつけ合うドッジボールなので間違いなく後者を2人はやんややんやと繰り広げる。
 目の前で唐突に始まった茶番を面倒そうに流し聞くゾロはなぜか一瞬脳裏にマヨネーズがよぎって何でマヨネーズ?と内心首を傾げた。聞き慣れないはずなのによく知っている気がする単語のせいである。これ以上はメタいのでお口チャック。


クオン、私は浮気性なあなたにとても傷ついたから、あなたにたくさん慰めて撫でて甘やかしてもらわないといけないと思うのよ」

「成程本音はそれですね?こんなホスト云々などと回りくどいことを言わずとも、姫様のお願いであれば…」

「私、ここ最近の浮気ラッシュでちょっと疲れちゃったのよね」

「妙なパワーワード生み出さないでください」


 しかしはっきりとした否定ができそうにないクオンがむむむと被り物の下で唇をへの字に曲げて唸ると、憂いを帯びた表情を一転させたビビは耐え切れずに大きく噴き出して口を手の平で覆い、まるでクオンのことなどすべてお見通しだというようにからからと笑った。


「ふふふ、そんなに拗ねないでクオン。いいのよ、だってそれがクオンなんだもの。私が大好きなクオンだわ」


 本命に一途だけどとても浮気性な、誠実だけどとても無節操な執事を、そうしてビビは笑って許した。





  top