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 そうこうしているうちに、サンジはクオンの食事を作り終えたらしい。


「おら、食え」


 然程大きくはない湯気の立つ食器をテーブルに置いてサンジが促す。ちらりと見やれば、どうやらリゾットのようだ。具はシンプルにきのこだけで、食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。
 まともな食事を暫くしていないと見て、胃に優しいものにしてくれたらしい。男には優しくしないがコックの矜持は男女関係ないようで、きちんとこちらのことを考えているのが判る。
 わざわざ作ってくれたものを無下にすることができるはずもなく、ため息を被り物の中にとかしたクオンはゆっくりと立ち上がった。





† しろいひと 2 †





 まともな食事をとる際に、クオンは基本的にビビ以外の人間に素顔を晒したりはしない。そもそもイガラム以外の第三者と同席して食事をしたことはなく、ひとりで適当に済ませるか、被り物を僅かにずらして首元から突っ込むかだった。
 大人しくイスに座って席に着き、手を合わせてリゾットの皿の隣に置かれたスプーンを手に取り被り物を僅かにずらす。


「おい、それつけたまま食うのはマナー違反だ。そのまま食ってみろ、ビビちゃんの執事だろうが関係なくオロすぞ」


 低い声に咎められて動きを止め、顔を上げてこめかみを指で叩くサンジを見上げる。
 まったくもって正論である。正論だが、できれば被り物を取りたくないクオンはビビに顔を向け、クオンの顔は私以外には見せちゃダメとミス・オールサンデーに言い切った主は腕を組んで悩ましげに眉を寄せていた。


クオンの顔が見れるチャンス…でもみんなに見せるのは……けど見たい…私が見たい……もうずっと見てないんだもの見たい……できれば写真に収めて枕元に置いて寝たい…引き伸ばして天井に飾りたい……」


 特に執事に関しては己の欲望に忠実な主は今にも陥落しそうだ。後半の言葉は聞かなかったことにしよう。いつものことなので。ちなみにカメラを手にしたことがなかったから叶うことのなかった欲望は、この先クオンがカメラを用意することはないしあってもさりげなく隠すのでこれからも叶う予定はない。今のところ。


「ビビ、いーいよく聞いて」

「ナミさん?」

「ウチじゃ平常3食に加えておやつが出るわ。食後にはデザートもね。つまりその間、クオンの素顔は見放題」

クオン、それ取りましょう」

「せめて悩むふりくらいしてもらえませんかね姫様」


 悪魔ナミの甘い囁きに秒で落ちたビビの華麗な手の平返しに少しだけ呆れ、これ以上問答を重ねていてはせっかく作ってくれたリゾットも冷めてしまうとクオンは諦めることにした。どうせこれからアラバスタまで短くはない航海を共にするのだ、遅かれ早かれというものだろう。

 あれほどビビが褒めちぎったクオンの頑なに隠された素顔が見てみたい、というナミの思惑があるのは察した。サンジは男の素顔には興味がなさそうだがウソップは興味津々で被り物に手をかけたクオンを注視しており、ゾロは既に知っているためか割とどうでもよさそうだ。ルフィはもぐもぐもぐもぐとひたすらにサンドイッチを咀嚼している。
 あれほどあったサンドイッチがだいぶ減っているのを横目に、焦らすものでもないのでかぽんとクオンは被り物を取って素顔を晒した。

 ひゅ、と誰かが息を呑む気配がする。日に焼けていない中性的な白皙の美貌、窓から射し込む日光に煌めく雪色の髪が音もなく揺れ、しかし美しい調べが今にも聞こえそうだ。髪と同じ色の柳眉が前髪から見え隠れして、被り物越しに聞こえる抑揚のない低い声とは裏腹に唇はやわらかな曲線を描いていた。長い睫毛に縁どられた涼やかな目許、唯一のはっきりとした色を宿す鈍色の瞳が、ぽかんと口を開けて絶句している面々をくるりと見渡して瞬いた。あのルフィですら、サンドイッチに伸ばした手を止めてこちらを凝視している。視界の端にはうっとりとクオンの顔を見上げるビビと、二度目なので然程衝撃はないがそれでも視線を向けてくるゾロが映った。


「……どうされました?」


 被り物越しではない、淡く色づいた形の良い唇から発された男にしては少し高めのやわらかな声が執事のものだと、初見の者達が理解するまで暫く。
 不思議そうにゆるりと首を傾げたクオンに「いいから食え、冷めるぞ」とゾロの声が飛ぶ。己の顔の良さはビビに常日頃散々力説してもらって自覚はしているが、それが周囲にどういう衝撃を与えるかまではあまり頓着することのないクオンはそれもそうだと素直に頷いてスプーンに手を伸ばし、掬い、綺麗な所作で口に入れる。途端、チーズときのこの芳醇な香りと噛めば口の中に広がる優しい味に、今までで食べたリゾットの中で一番だと目を輝かせたクオンが「おいしい」と相好をとろけたようにゆるませ、う゛ぐぅと濁った唸りを吐いたビビが胸を押さえて蹲った。クオンの周囲に散る花の幻覚が見えたところでナミがいち早く我に返る。


クオン?あんた本当にクオンなのよね?めちゃくちゃ顔が良いけど、間違いなくビビの執事のクオンなのよね?」

「そうですよ、航海士殿」

「首を傾げるなあざとい!!!」

「えぇ…」


 小首を傾げてナミに微笑みかければ理不尽にキレられ、素直に困惑の表情と声を表に出してしょんと肩を落とすクオンの横でビビが顔を手で覆って天を仰いだ。「こまってるクオンいずかわいい」と感極まった震える声で紡がれた言葉の意味は理解しないで流しておく。
 気を取り直してもうひと口リゾットを口に入れてもぐもぐすればみょんと伸びてきた手が頬に触れた。


「おお、ほんとにビビが言った通りつるつるのぷにぷにだ!」

「姫様の執事たるもの、多忙だからと手抜きはいたしませんとも。姫様も触り心地が良いと喜びますしね」


 心なしかドヤ顔でふふんと笑うクオン「は?かわいい」と横で尊さのあまりキレたビビが目を据わらせる。もみくちゃに撫で回すかと思ったルフィの手は触っただけで満足したようですぐに離れ、またサンドイッチへと伸びる。クオンの素顔に驚きはしたが特にそれ以上思うことはないようだ。他人の美醜を解する心は持っていてもそれで態度を変えるわけではないのだろう。


クオン、お前…お前マジか~~~……いや、ビビが言ったあれは贔屓混じりで多少誇張が入ってるとおれは思ってたんだが……つぅかそれあるのとないのじゃ色々変わりすぎじゃねぇか?」


 深いため息をついてちらりとクオンが取った被り物を横目に見たのはウソップだ。
 被り物は特殊な作り方をしているのでクオンの表情はもちろん、声音やそれに乗る感情を削ぎ落とす。実際は被り物の下で多様に表情が変わっていたようだし素の声音は随分と穏やかでやわらかいものと知ってギャップの激しさに戸惑った。


「おや、狙撃手殿はお気に召しませんか?」

「私は好きよ!!!!!!!!」

「知ってます」


 激しい自己主張をさらりと流すクオンの表情は涼やかで、そこは被り物をしていても変わりはないが、ビビを見つめる鈍色の瞳は甘く細められていて砂を吐きそうだとウソップは思った。何だか見てはいけないものを見てしまった気がして美しい顔から視線を逸らし、いまだ絶句したままクオンを凝視しているサンジに気づく。よくよく見れば煙草を咥えた口が細かく動いてぶつぶつと何かを呟いている。


クオンは男クオンは男クオンは男クオンは男あの真っ白執事野郎は男気の迷いなんざあるわけねぇクオンは男だろうがおれ…!」

「なんだ、見惚れてんのかクソコック」

「あァ!?誰が野郎なんかに見惚れるかアホ抜かせ!!おれが好きなのは女の子であって男は対象外だ!!!」


 がおうと怒鳴ったサンジは、光り輝く美貌をきょとんとさせてこちらを振り返るクオンから無理やり顔ごと視線を外して口角を吊り上げるゾロを睨みつけた。そこでふと気づく。この剣士、クオンが素顔を晒しても驚いてなかったな、と。


「おい、まさかてめぇ、クオンの顔があれだと知ってやがったな」

「だったらどうした」


 はん、と鼻で笑ったゾロが「町でやり合ったからな、そんときに見た」と続ける。反射でぐぅと喉元までせり上がって吐き出しそうになった言葉が何なのかは、サンジ自身にも分からずゾロを睨みつけることしかできない。胸の内で浮かぶ感情には心当たりがあったが、それは愛すべき女性を対象として抱くものであって、執事野郎がいくら多少うっかり道を踏み外させそうなお綺麗な顔をしていたからといって男相手に抱くものではなかった。ない、はずだ。


クオン、Mr.ブシドーと戦ったの?」


 すっかり食事の手を止めてクオンを見つめるビビの問いに、こくりと頷いたクオンは行儀よく口の中のものを飲み込んでから口を開いた。


「姫様達は気を失っていたようですから知らないのでしたね。確かに一戦交えましたが、勝てなかった上に被り物を斬り飛ばされてしまいまして。ああ、ご安心を。勝ちはしませんでしたが、敗けてもいません」

「……ふぅん。……それで、私以外に顔を見せたの…?私だってあのときはまだ見てなかったのに…?」


 叫ばれるのも面倒だがどんよりと凄まれるのも面倒だなと思いながら唇は本心からの優しい笑みを描く。確かに面倒なところはあるが、ビビからの好意を疎ましく思ったことはない。まったくしょうがないですねぇ、と言うように微苦笑を浮かべたクオンは食事の手を一旦止めてビビの頬を撫でた。


「私の予想以上に剣士殿が強く、また彼を侮っていた私の慢心ゆえに晒してしまいましたが……そう拗ねないでください。私に気安く触れられるのはあなただけでしょう?」

「さっきルフィさんに触られてたじゃない」

「おっとそういえば確かに」

クオンの浮気者ォ!!!」

「これはさすがに言い訳ができません」

「でもそうやってふらふらしちゃうところも好き」

「あなたも大概難儀なことで」


 真顔でクオンを許すビビに少しだけ呆れをにじませつつもどこか嬉しそうに笑うクオンは、だから私もあなたが好きですよ、と素直に好意を返してビビをテーブルに突っ伏させた。美しい顔で真っ直ぐ見つめられながら心から好きだと言われて倒れない人間がいようか、いやいない。それが大好きな相手であるなら尚のこと。

 クオンは自分が好ましいと思ったものについ目をやってふらふらと近寄ってしまう浮気性だが、それでも自分を放置して蔑ろにするわけでも自分以外に膝を折ることもないと分かっているからビビは許すのだ。言葉でなじりはしても、本気で詰め寄って咎めることはない。あんまり度が過ぎるとたまに闇堕ちしそうにはなるが。

 許せば許しただけ、クオンに許されるとビビは知っている。それこそ際限なく。
 でもそれはまだ教えてあげない、とクオンの素顔に見惚れていた麦わらの一味を横目で見やり、ビビはすぐにクオンの美しい顔へと戻して微笑んだ。





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