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 痛みを感じるほどに強く腕を握り締めるビビの手から力が抜けるのを感じて、ビビの荒れ狂う心が落ち着いたことを悟ったクオンは静かに促した。


「参りましょう、姫様」


 うん、と小さく頷いたビビがナミへありがとうを礼を言う。にっと笑ってみせたナミがオレンジの髪を揺らして体を離す。
 そうして岸から町へと続く道へ向かって駆け出すナミの背を、いまだ燃え盛る海を最後に一度だけ振り返ったビビがクオンから手を離して追いかけた。その後ろ、殿をつとめてクオンが続く。と、ふいにビビがクオンの名を呼んだ。


「あなただけは、死なないで」


 ぽつり、落とされた言葉は、前方を走るナミには届かないほど小さなものだった。クオンはそれに無言を返す。
 約束はできなかった。イガラムと「死なないこと」を約束したビビを護るためには己の命は惜しまないと、とっくに決めていたからだ。
 それでも、主の心からの願いを楔として心に刻むことだけは、忘れなかった。





† ウイスキーピーク 10 †





 町へ入り、死んではいないだろうMr.5やミス・バレンタインの気配が動かないことを確かめながら、クオンはナミ、ビビと続いて最後尾を走る。
 走りながらきょろきょろと辺りを見回すビビが遅れていることに気づいてナミが「急いで!」と声をかけ、前を向いたビビはそれでも周囲に視線を走らせていた。訝ったクオンが走る速度を上げてビビに並ぶ。


「姫様?」

クオン、カルーが……」


 言われて合点がいく。確かに、ビビの相棒であるカルガモの姿が見えない。
 肩の上でハリネズミがぽんと拳で手の平を打ってきょろりとつぶらな瞳をめぐらせるが、見慣れたカルガモの姿はない。クオンもちらりと周囲を一瞥し、気配を探り、ふむと口の中で呟いた。


「船に着いたら口笛で呼びましょう。それでも来なければ、私が探します」

「うん。お願い、クオン

「お任せください」


 そうビビに返しながらも、クオンはあまりカルーのことをビビほど心配はしていない。あの臆病だが根性のあるカルガモは状況を把握する能力もけして鈍くはない、どこか安全な場所を見つけて大人しくしているはずだ。

 ふと通りの先の川に見慣れたメリー号が見え、甲板に錨を引き上げているゾロの姿を捉える。あとは帆を張ればいつでも出航できそうだ。

 ひと足早く着いたビビが立ち止まって指で口笛を鳴らしてカルーを呼ぶ。が、少し待ってもカルガモの姿どころか足音ひとつしない。
 クオンは周囲を見回した。男2人、サンジとウソップを文字通り引きずってやってくるルフィの姿が遠目に見えて、足首を掴まれているサンジはともかく、鼻を掴まれているウソップはめちゃくちゃに痛そうだ。他に掴む場所はなかったのだろうか。まぁでも一番掴みやすそうな場所と言えば、確かに。というかあれ、2人共気絶してません?カルーを探すことも忘れてつい見入ってしまうクオンだった。


「連れてきた!!」

「乗れ!いつでも出せるぞ」

「あれっ。こいつらまた寝てるよ」

「船長殿、それは寝てるのではなく気絶では…?」


 サンジとウソップを引きずってやってきたルフィにツッコミも入れず淡々とゾロが言い、ルフィの仕方ない奴らだなと言わんばかりの言葉に思わず控えめに指摘する。しかしクオンにルフィが言葉を返す前に、ナミの「探してる暇なんてないわよ!?」という声が響いた。


「だけど、ここに置いてくわけには…」


 追手が迫っていることは分かっていても相棒を見捨てきれないビビが出航を急ぐナミを何とか説得しようとしている。クオン、と眉を下げたビビに目を向けられたクオンも少しだけ時間をもらえないかと交渉しようとしたとき、「おい、どうした」と騒ぎに気づいたゾロが船の上から顔を出した。


「カルガモがいないのよ!口笛で来るはずなのにっ!」


 待ってあげたい気持ちはあるがゆっくりもできないと焦るナミが言えば、ああと目を瞬いたゾロが横を指差した。


「こいつか」

「クエッ」

「「そこかぁ!!!」」


 おれより先に乗り込んでたぞ、と言うゾロの横で右腕(羽?)を上げるカルーにナミとビビがツッコむ。クオンは流石ですねぇと感心し、ルフィがぽいぽいと船にサンジとウソップを投げ入れるのを横目に船へと跳び乗った。縄梯子も使わずに助走もなく軽いジャンプのみで乗ってきたクオンを観察するようにゾロがじっと見ていたが、何も言われなかったのでクオンもリュックを床に置き無言で縄梯子を下ろす。直接能力を使って一戦交えたこともあり、そろそろ予測のひとつくらいは立てられてそうですね、と思いながら。


「舵を川上へ!少し上れば支流があるわ。少しでも早く航路に乗れる!」


 クオンが下ろした縄梯子を伝って近道を教えながらビビが船へ乗る。手を差し出して引き上げビビを甲板に下ろしたあと、少しだけ考えたクオンは続いてナミへと同じように手を差し出した。
 まさか手を貸してもらえるとは思っていなかったナミは大きな目を丸くして自分を見下ろしてくるクオンの被り物を見つめ、ふっと頬をゆるめて手を伸ばす。クオンが手袋越しに掴んだ右手は女の手らしくやわらかで、しかしペンだこができた指は少しだけ固かった。
 ナミを甲板に下ろし、ルフィが自分で腕を伸ばして乗り込んだのを見たクオンの横にぴたりとビビがくっつく。ちらりと被り物越しに視線をやると少しだけむくれた顔がそこにあった。


クオンの浮気者」

「……手を貸した方が早かったでしょう」


 表情の割に機嫌は悪くないことを悟りながらビビの誹りを甘んじて受ける。手を貸したところで大した時短にはならないことは分かっていて、それでも差し出したのは、先程ビビの心ごと抱きしめてくれた礼もあったとは口にしない。
 ビビも言うほど責める気はなかったようで、帆が張られて船が進みはじめ、「なぁ!追手ってどれくらい来てんのかなぁ」とふいに問いを口にしたルフィへとすんなり顔を向けた。


「分からない、バロックワークスの社員は総勢2千人いて、ウイスキーピークのような町がこの付近にいくつかあると聞いてるけど…」

「1000人くらい来てたりして!」

「ありえるわ。社長ボスの正体を知ってしまうことはそれほどのことだもん」


 ナミの予想に頷くビビ達の会話を耳にしながら、クオンは周囲を警戒する。
 殺気も戦意も、今のところはない。だが確かにイガラムの乗った船は爆破されて、なのにそれを行ったはずの追手が静かなのが逆に不審だ。
 まだこちらを見つけられていないからか。しかし、こんなときに町から離れる海賊船は相手からしてみれば見逃さない理由がない。私ならとりあえず問答無用で沈めますかね、と思うからこその警戒だった。
 と、突然騒がしい声がふたつ轟いて思わずそちらを向く。


「おいっ、何でだ!?何でもう船出してんだ!?待ってくれよもうひと晩くらい泊まってこうぜ楽しい町だし女の子は可愛いしよぉ!!」

「そうだぞ!!こんな良い思い今度はいつできるか分かんねぇぞ!!?ゆったりいこうぜおれ達は海賊だろ!?まだ朝にもなってねぇしよ!!戻ろうぜおい聞いてんのか!!!」


 サンジとウソップの声に、そういえば彼らはずっと寝ていた上に説明もなく、事情を何も知らないのだと思い至る。この分ではビビやクオンが再度乗り込んでいることにも気づいていなさそうだ。


「はっ…!麗しのミス・ウェンズデー♡ ってぇ!!真っ白執事までいやがる!?」


 たった今気づいた。そして相変わらずクオンへ羨ましさMAXの敵意全開である。ひらりと手を振れば盛大な舌打ちが返ってきた。あからさますぎて面白い。クオンは被り物の下で笑ってしまった。
 やんややんやと騒がしい2人だが、この騒々しさは今はあまりよろしくない。状況の説明をしたいが、余程楽しい夜を過ごしたのか、文句をつらつらと並べ立てる2人にさてどうしようかと思えばすたすたとナミが歩いて近づいていくのを見送り、いい音が2つして、戻ってきたナミへ手の平を掲げればにんまりと笑った彼女はハイタッチに応えた。


「おい、ちょっとあいつらに説明を…」

「うん、してきた」


 うるさい2人に呆れたゾロが陰の権力者であるナミへ言い、クオンの肩の上で前足を突き出すハリネズミとも指でハイタッチをしたナミは当然のようにさらりと返したが、甲板にいる2人は航海士の説得鉄槌を受けておやすみなさいだ。彼らにはまた後で詳細を語ることにしよう。


「なかなかいい拳をお持ちですね、航海士殿」

「ありがと」


 全力でぶつかり合うルフィとゾロをも沈めた拳を本心から褒めれば、ふふんとナミが胸を張って笑う。それに被り物の下で笑みを返していれば、ふと霧が出てきたことに気づいた。船は河口へ着き、島を離れようとしている。
 もうすぐ夜明けだ。この分では朝焼けは見れないか、と東の空を振り向いたクオンは少しだけ残念に思う。まぁバタバタと出てきてしまいましたしと思って、周囲への警戒を忘れていた自分に気づく。同時に、この船に見知らぬ気配があることを感じ取って纏う空気を剣呑なものへ一変させたクオンの耳へ、見知らぬ女の声が滑り込んできた。


「船を岩場にぶつけないように、気をつけなきゃね。あー、追手から逃げられてよかった」


 まるでクルーの心の声を代弁するかのような、しかしあまりに軽やかなそれ。瞬時に指の間に針を挟んだクオンが振り返り、一瞬遅れてルフィ達も驚愕の表情で声の主へと振り返った。
 ラウンジ前の手すりに、女がひとり、特に構えた様子もなく腰かけている。気配も感じていなかったのだろう、誰だ!!?と刀の柄に手をかけるゾロの鋭い誰何すいかに、女は艶やかに刷いた笑みをそのままに「いい船ね」と嘯いた。


「さっき、そこでMr.8に会ったわよ?ミス・ウェンズデー…」


 組んだ足に頬杖をついた、艶やかな黒髪に帽子を被った美しい女は、すっとビビへと視線を据えて微笑む。あの爆発が己の手によるものだと告げる女にビビの顔色が変わった。


「まさか……あんたがイガラムを…!」


 青褪め、その瞳を怒りに染めて女を睨みつけるビビを庇うようにクオンが前に立つ。あら、と女の眉が僅かに跳ね上がった。
 妙な被り物をした、真っ白い執事。ふぅん、と女は興味深そうな顔でクオンに笑いかけ、すぐに視線をビビへと戻す。


「どうでもいいけど、何でお前はおれ達の船に乗ってんだ!!」


 ルフィが眉を寄せて女に文句を言い、女は静かな笑みを返す。
 クオンは被り物の下で鈍色の瞳を鋭くした。クオンはこの女の名を知っている。本来なら、こんなところにいるはずのない人間だ。たかが社長ボスの名前を知った裏切り者、アラバスタ王国の王女、それを始末するために来たのなら戦力が過ぎる。


「何であんたがこんなところにいるの!?ミス・オールサンデー!!!」


 ビビが驚愕に震える声を耳に入れながら、クオンはバロックワークス社長ボスにしてMr.0のパートナーを油断なく見据えた。





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