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「─── クオン

「ええ、こちらに」


 硬い表情、硬い声音。それでも覚悟に満ちた声音に応え、クオンは懐からアラバスタへの“永久指針エターナルポース”を取り出してビビへ渡す。ビビはやはり、一度もクオンを振り返らずイガラムへと差し出した。





† ウイスキーピーク 9 †





 イガラムが発した“永久指針エターナルポース”という単語に聞き覚えのないナミが首を傾げると、イガラムは丁寧に説明をし、手の中にあるそれを周囲の人間に見せるように軽く掲げた。


「そして、これはアラバスタの地の磁力を記憶したものです」


 イガラムはひとつ呼吸を置き、いいですかビビ王女、と硬い、けれど優しい声音でビビへと語りかける。


「私はこれからあなたになりすまし、さらに彼ら4人分のダミー人形を連れ一直線にアラバスタへと舵を取ります。バロックワークスの追手が私に気を取られている隙に、あなたはこの方々の船に乗り通常航路でアラバスタへ」


 正直それで騙せるとは思えませんが、とクオンは冷静にツッコミを入れるが内心に留めた。肩に乗ったハリネズミは素直なので無理無理と言わんばかりに前足を横に振っているが幸いイガラムとビビには気づかれていない。


(まぁパッと見なら姫様に……見えないことも…………いや見えませんねどう見ても


 まず背丈が違うし、髪色が違うし、体躯も違うし、すね毛生えてるし。あと姫様そこまで口紅塗りたくりませんよ精々リップ程度です、まぁ姫様ならわざわざ華美に装わずとも素地が良いので少々メイクをするだけで光り輝くようになりますが、とつらつら考えるあたり執事も実はしっかりビビガチ勢だったりする。まだルフィ達には気づかれてはいないが、ナミあたりには薄々感づかれていそうだ。

 イガラムは自分も通ったことはありませんが、と前置き、この島の“記録ログ”を2,3個辿れば行き着くはずだと続けてしっかりとビビの目を見返した。


「無事に……祖国で会いましょう」


 ビビが頷いて応えたことで話はそれで纏まり、一同はサボテン岩の裏へと移動した。
 そこにはクオンがいつでも出航できるよう整えた一隻の船が泊めてあり、ビビとクオンが海賊船に乗るのであればいくらか荷物を移動させるべきだろうと船に乗り込んで手早く荷物を纏める。大きなリュックを背負ったクオンが甲板へ出ると、イガラムもダミー人形を4つ甲板に立てかけるようにして並べていた。
 ビビやルフィ達は乗る必要がないため岸で待ってもらっている。ハリーは定位置のクオンの肩の上だ。


「…………」


 クオンはぐるりと周囲を見回す。近くに敵の気配らしきものはない、とは思う。だがさすがに沖までは気配を探れず、被り物の下で険しい顔をしながらクオンは小さく息をついた。


クオン、少しよろしいでしょうか」


 ふいにイガラムに声をかけられ、被り物の顔をそちらへ向ける。心からクオンを信用しているわけではない護衛隊長は、表情を硬く強張らせたままクオンを見つめていた。


「どうか、どうか。王女をお願い申し上げます。私はもう、あなたに縋るしかないのです」

「…彼らがいるでしょうに。あなた自身が選び頼み込んだ、海賊が」

「彼らが信用に値することは、もはや疑いません。疑える状況ではない。だからこそ、あなたに・・・・お願いしているのです」

「……」

「王女を、彼らを……どうかお願いします。あなたは・・・・違うと・・・分かって・・・・いても・・・私は・・あなたが・・・・恐ろしい・・・・


 固く握り締めた手を震わせながら、絞り出すようにイガラムは言う。クオンは鈍色の瞳を伏せると静かに吐息のようなため息をついて、被り物の中にとかした。
 クオンのビビに向ける忠誠心は疑っていないだろう。けれどイガラムにはクオンに対して拭えない恐怖心がある。それがどこから来るものなのか、多少の心当たりはあった。なぜなら自分は、得体の知れない執事であるからして。
 分かっているから何も言わずに今まで言動で示してきたが、どうやらあまり効果はなかったらしい。イガラムの揺れる瞳に浮かぶのは、紛れもない恐れだ。


「私は、姫様の執事です」


 ぽつり、クオンがこぼした声音は被り物によって低くくぐもり、その感情を削ぐ。
 被り物を取れば真摯な響きが届くだろう。しかしとっくにイガラムはクオンの素顔も声音も知っていて、その真摯さを知っていて尚、恐れを抱いたままだ。否、知っているからこそ「あなたは違う」と言ってくれたことは汲み取れた。ただ胸に深く深く突き刺さった恐れだけが、どうしても取れないだけのこと。


「姫様の望む通りに。それが今の、私の願いでもあるのですから」


 アラバスタ王国護衛隊長は無言のまま、王女の執事へと頭を下げた。










 イガラムが先に船を降り、錨を上げたクオンが続いて船を降りた。
 王女をよろしくお願いします、とルフィ達へ頼むイガラムへ「おっさんそれ絶対ウケるって!」とはしゃぐルフィと「誰にだよ」と冷静にツッコむゾロに被り物の下で淡く微笑む。真面目な場面だろうに、何とも気が抜ける。


「過酷な旅になるかと思いますが、道中気をつけて」

「ええ、あなたも」


 短い挨拶と共にイガラムとビビは固く握手を交わす。最後にクオンに一瞥を残し、イガラムはすぐに船へと乗り込むと帆を張って出航させた。
 船が岸を離れて水平線の向こうへと進んでいく。その姿が小さくなるまで見送って、ルフィは「行っちまった」とふいに口を開いて笑った。


「最後までおもろいおっさんだったなー」

「あれで結構頼りになるの」


 誇らしげに笑うビビに「おや、妬けますね」とクオンがビビの顔を覗き込むようにして言えば、執事からの予想外の台詞にぽかんと口を開けたビビは、「私は頼りになりませんか?」とクオンが続けた瞬間、ぎゅうとクオンの腕に飛びついて顔をうずめた。


「頼りになるに決まってるわ!強くて、優しくて、大好きな、私の、私だけの執事だもの!!」

「ええ、存分に頼りにしてください。そのために私はここにいるのです」


 被り物越しでも判るほどに優しく、どこか甘い響きで囁きながら、クオンは小さく震える少女の頭を撫でた。長く共にいてくれた人との別離は不安だろうに、それでも気丈に振る舞う彼女が少しでも長く深く呼吸ができるように。

 ビビはクオンの腕にうずめた顔を歪める。頭を撫でる手が優しい。髪を梳く指には慈愛がこもっている。落とされる言葉は重さを伴わないように軽やかさをまといながらも実直そのものだ。削がれた声音がどこまでもやわらかであることを知っている。
 優しい、本当に優しすぎるほどに甘い人。泣きたくなるくらいに誠実な人。孤独に震えそうになる心を見逃さず、白い手を伸ばしてくれたのだ。


「ありがとう、大好きよ」


 その言葉に返事はなかったけれど、ぽんと優しく肩を叩いた手が分かっていますよと答えてくれたから、ビビは顔を上げてクオンに笑顔を見せた。そうすれば被り物の下でクオンも笑ってくれると知っている。
 ビビが笑い、クオンも雰囲気をやわらかくしているのを見てルフィ達はそれぞれ笑みを浮かべた。

 遠目に見えるイガラムの乗った船を背に一同は歩き出す。追手が来る前にこの島を出なければならない。
 そういえば確かあと2人彼らには仲間がいたはず、今もまだ眠っているのでしょうかとクオンが思った、その時だった。


 ─── はじめは閃光。

 白い光が、そして赤く燃える。



 ドォンッ!!!



 次いで背を揺らがせるほどの轟音と衝撃に襲われ、岸に立つ5人は呆然と振り返った。
 海が、空が、赤く燃えている。夜だというのに真昼のように赤々と。
 燃え盛る炎の下には、一隻の船があったはずだ。誰よりも祖国を想う王女と同じように心を奮い立たせた、護衛隊長が乗っている船が。


「そんな…、バカな…!!もう追手が…!!?」


 呟き、叫んだのは誰だったか。ナミの声だと頭のどこか遠い部分で考えながら、クオンは痛みを感じるほどに腕を強く握り締めてくるビビを見下ろす。その手を振り払わずにただ、真っ直ぐ燃え盛る海を見つめる彼女の引き結ばれた唇を見た。


「立派だった!!!」

「ナミ!!“記録ログ”は!」

「だ…大丈夫、もうたまってる」

「そいつらを連れて来い、船を出す!!」


 イガラムを讃えるルフィ、そして状況を見て即座に動き出そうとするゾロの指示に従って駆け寄ってきたナミがビビの肩に手をかける。


「ビビ、クオン!!急いで、私達が見つかったら水の泡でしょ!!?」


 急かすナミに、しかしクオンは動かない。ただ、引き結ばれ、強く噛みしめられたことで唇からつぅと血を流す主を見ていた。
 ビビの血のにおいがクオンの脳を揺らす。それを無理やり意識の外に振り払いながら、きっと怒鳴りたいだろう、嘆きたいだろう、悔しさに喉が嗄れるほどに叫びたいだろう主の心の声に耳を澄ませた。
 祖国を、そこに住む民を想い、彼らの幸福と安寧を願っているだけなのに、それを取り戻さんとしているだけなのに、なぜこうしてゴミのように焼き払われなければならないのか。被り物の下で鈍色の瞳を鋭く細めたクオンの胸の内に、確かな火が灯った。

 一方、すぐに島を逃げ出さなければならないのに佇んだまま動かない執事とビビに苛立ちにも似たものを覚えたナミは、さっきまで緩みきっていたはずの顔を強張らせたビビの唇からひと筋血を流すのを見て目を見開いた。
 見れば、クオンの腕を握り締める手には余程力がこもっているのだろう、小刻みに震えてジャケットには深い皺が刻まれ、爪が食い込んでいるのが判る。それがビビの内心で渦巻く激情を表していて、泣き喚く様子もなくイガラムの勇姿を刻み込むように燃える海を見据えるビビの心根の強さを、ナミは確かに見た。そしてそれを振り払わず静かに受けとめるクオンの優しさと強さもまた、そのとき初めて思い知った。


「大丈夫!!!あんたをちゃんと…アラバスタ王国へ送り届ける!!!」


 だから、ナミはビビの頭を抱え込んで抱きしめた。体を強張らせるビビを安心させるように、きっとクオンみたいにはできないけれどと自嘲しながら、それでも心を込めてビビへ言葉を紡いだ。ルフィ達に救われた自分だからこそ、届けられる。


「あいつらたった4人でね…!“東の海イーストブルー”を救ったの!!“七武海”なんて目じゃないわ!!!」


 だから大丈夫よ、と声に力を込めるナミとナミに抱きしめられるビビを、クオンは静かに見下ろしていた。





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