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 ウイスキーピークの通りを常人とは比べ物にならない速さ─── それでもゾロと相対したときよりかは遅い速度で駆けながら、クオンは細く深い息を吐いた。きゅぅ、と心配そうに右肩に乗ったハリネズミが鳴き、大丈夫ですよと安心させるように被り物の下で微笑む。


「どう転がるにせよ、これからが肝心です。ハリー、頼りにしていますよ」


 相棒に発破をかける声は被り物を通して低くくぐもるが、クオンの素の声とどういう感情を乗せて言葉を紡ぐのかをよく知っているハリネズミは、きゅぅーい!と右前足を高く掲げて任せろと言わんばかりに力強く鳴いた。





† ウイスキーピーク 5 †





 ビビの後を追って駆けていたクオンは、「きゅっきゅ、はりゃ!」とふいにハリネズミのハリーに被り物を叩かれて思わず足を止めた。
 一拍遅れて女の声が耳朶を打つ。主を追わねばならないのに足を止めてしまったのは、それが聞き慣れた声であることと、悲痛な色をにじませていることに気づいてしまったからだ。


クオン…!」

「……ミス・マンデー」


 通りに建つ家の壁に凭れていたミス・マンデーが、ふらつきながらも眼光鋭くクオンを呼ぶ。
 敵意はない。だが、あの場近くにいた状況で、ビビが一国の王女であることは知ってしまっているはずだ。あそこから離れたのは英断だと間違いなくクオンは思うが、彼女が何をしたくて、そしてここで自分を呼び止めた理由が分からない。
 短い呼吸を繰り返すさまはどう見たって万全ではないし、ゾロから与えられたダメージも相当なはずだ。あの剣士、腕力相当ありましたからねと彼の刀を受けたことのある執事はその重さをふいに思い出した。


「あんた、サボテン岩の裏に船を泊めてるんだろう。ミス・ウェンズデーやMr.8と一緒にこの島を出て行くつもりなのは、分かってる」

「……」

「連れてってくれ。海にじゃない、あたしに、Mr.5とミス・バレンタインの足止めをさせてほしい」


 クオンはその言葉に、訝しげに首を傾けた。
 ここまで逃げられたのだ、Mr.5やミス・バレンタインの目がこちらに向いている隙に町から逃げ出せばいいものを。わざわざ危険な場所に足を踏み込もうとする理由が分からない。


「なぜ」

友達・・を助けるのに、理由が必要かい」


 短い問いに返ってきた簡潔な言葉に、吐くべき言葉は何もなかった。
 嘘はないだろう。ミス・マンデーの覚悟を湛えた目は澄んでいる。
 裏切られていたというのに、けれどミス・ウェンズデーとして過ごしてきたビビから向けられる言葉と笑顔には何一つ裏がない、真摯なものだったと彼女は理解してビビを「友達」と呼ぶのだ。
 バロックワークスという組織に与している以上過ぎた慣れ合いはリスクであり、抱いた情に行動を左右されるのは恥であり、それでも捨てられなかったものを今だからこそはっきりと口に出すことができている。しかし、だからこそ、ミス・マンデーを無駄死にをさせるつもりはクオンにはなかった。ビビを「友達」と呼ぶように、ビビもまた彼女を同じように見ていたことを知っている。
 顔を背けて足を踏み出そうとしたクオンの動きを目敏く追い、白いブーツに包まれた足が地を離れる前に、ミス・マンデーは叫んだ。


「あんたは!主人のためを思うだけでいい!主人が逃げるための時間稼ぎに使う肉盾として、あたしを使えばいい!!」

「不要です」

「まだ!!別れの言葉ひとつ、交わしてないんだ…!」

「────」


 悲痛な声にぴたりと足を止めてしまったクオンは、被り物の下で小さく息を吐いた。
 そうだ、確かにその通りだ。このまま行けば、クオンはビビとMr.8を連れて船を出す。
 ビビの相方だったMr.9とは別れを済ませたと言っていい。けれど彼女の「友達」には置手紙どころか言葉ひとつ、何も残せないままこの島に置いてけぼりにしてしまう。
 仕方のないことだ。そう分かっているのに、何も言えなかったと顔をくもらせるビビの表情を思い描いてしまったからダメだった。こうしてミス・マンデーと顔を合わせてしまったのなら尚のこと。


「はりぃ、きゅ~」

「ハリー」


 ふいに肩に乗ったハリネズミが口を出す。それは人の言葉をなしてはいなかったが、連れてってあげようと言っているようにクオンは聞こえたし、間違ってはいないだろう。
 肩の上から被り物の上へと登ったハリーがぺしりと被り物を叩く。ほら早くと相棒に促されたクオンは、そうやってハリーが二の足を踏む自分の背を押してくれていることをきちんと分かっていた。ミス・マンデーを連れて行ったところで彼女が肉盾にすらなりきれないが、それでもクオンなら何とかできるくせにと思っていることも。


「…………」


 ため息を噛み殺したクオンはくるりと踵を返してミス・マンデーへと歩み寄る。はっとしたように表情を明るくする彼女を軽々と抱き上げ、道の脇に置いてあった丸太をもう片方の腕に担いだ。相当な重さがあるはずなのにそんな素振りをまったく見せず、白い燕尾服に包まれた体躯は無言で地を蹴って駆け出す。
 流れていく景色を目にして、ミス・マンデーが「ありがとう、クオン」と呟きを落とした。


「本当に、どうしてあなた方はそう・・なのでしょうね」


 Mr.9といい、ミス・マンデーといい。お人好しにもほどがある。もっと自分ことだけを考えたっていいだろうに。
 若干の呆れをにじませた声音は被り物に削がれて淡々としたものとなったが、クオンが含んだところは伝わったらしい。ミス・マンデーがふはっと噴き出すようにして笑った。


「あんた達が、そう・・だからだよ」





†   †   †






 相棒のカルーに乗って駆けてきた道の後方で爆発音が鳴り、Mr.5とミス・バレンタインに見つかったことを知ったビビは、何よりも信頼できる大好きな執事に助けを求めようとして、ぐっと唇を噛んだ。
 ─── 彼らが追いついてきたということは、クオンは敗けたのか。一瞬だけそう思い、そんなバカなことがあるはずがないと首を振る。
 クオンは強い。ビビが知る誰よりも、祖国の勇者達でさえ敵わないほどの強さを持っている。Mr.5やミス・バレンタインに敗けるはずがない。
 だから今、主たるビビの傍にいないということは、クオンクオンで動いているということに他ならないことをビビは信じて疑わない。何かしらの理由があって傍にいない、そして今はまだ、自分に死の鎌は振り上げられていないのだと、ビビはクオンに己の命運さえ預けていた。


「急いでカルー!!サボテン岩の裏に船が泊めてあるわ!!」


 そこでクオンが出航の準備を整えてくれていて、きっと自分は置いていくように願われるだろうが、それでも見捨てられないイガラムも無事に拾ってくれている。ビビが伸ばしても届かない手の向こうにあるものを、クオンはその白手袋に覆われた手できちんと拾い上げてくれるのだ。

 そういえば、とふいに思う。長く相方として組んでいたMr.9とは思ってもいない形での別れを済ませたが、もうひとり、せめてひと声だけでもかけたいひとがいた。
 全身が筋肉でできているかのように引き締まった大柄な体躯を持ちながら、花飾りやスカートが好きな可愛らしい内面を有している彼女とは憎まれ口だって叩くこともあったが、それでも時折大口を開けて笑い合い、素を覗かせながら気安く会話のできる友達だと思っていた。
 最初から裏切っていたことを、飛んでくる火の粉を浴びてしまうことを、怒るだろうか、憎むだろうか、恨むだろうか、悲しむだろうか。
 長くミス・ウェンズデーの正体を掴めなかった失態は上から報いとして受ける。だから顔を合わせる資格も声をかける権利もないと分かっていて、そっと心の中で気にかけた。
 どうか無事でいてほしい。そしてできれば、この町から逃げ出していてほしい、とも。
 あの有能な執事のことだ、ビビが一番気にかけていた2人のこともきっと何とかしてくれる。そう信じて、ビビはひたすらにカルーを駆ってサボテン岩の裏を目指した。

 その前方に、ふいに人影が映る。はっとしたビビは慌ててカルーを止めた。シルエットからクオンではないことは確かで、では新たな追手かと顔を強張らせたビビは、しかしその人物の顔を見て目を瞠り驚きのままその名を口にした。


「ミス・マンデー!!」


 たった今思い浮かべていた人物が、丸太を片手に「行きな!!」と右手の親指で背後を指す。


クオンに頼んで連れてきてもらった。クオンは先に船で待ってるよ。あいつらは、ここであたしが食い止める」

「だけど!」


 やはりクオンは無事だったことに安堵したのは一瞬で、ミス・マンデーが町を抜けるための道に立ちふさがらんとする姿に息を呑んだ。
 何で、どうして、私なんかを。逃げればよかったのに。そうでなくとも、こんなバロックワークスへの裏切りじみた真似をする必要なんて、どこにもないというのに。どうしてMr.9もミス・マンデーもそんなこと。
 ビビは瞳を揺らしながら思っていることを分かりやすく表情に出して、それを見たミス・マンデーはふっと唇をゆるめて微笑む。だからさ、と返したのは胸の内でだけだった。


「あの怪力剣士・・・・のお陰で、どの道あたし達は任務失敗のバツを受ける。どうせなら、友達・・の盾になってブチのめされたいもんだ…!」


 ひゅっとビビは息を呑む。彼女もそう思ってくれていたことが分かって喉の奥が詰まり、目頭が熱くなった。
 Mr.5とミス・バレンタインはすぐそこまで迫ってきている。ここで足を止め続けているわけにはいかず、「行きな!!」と再度背中を押されたビビはミス・マンデーと言葉を交わしたい思う気持ちを振り払うように「ありがとう!!」とだけ言い残してカルーを走らせた。それに満足げに笑みを深めた彼女が視界の端に映って、ぎりりと唇を噛んだ。彼女が彼らを食い止めて稼げる時間が長くないことを、知っているのに何もできない自分が歯痒かった。


「ゥ…う、クオンクオン…!ねぇ、私、あのひと達に、何もできないの…!?」


 今この場にいない執事へと声を絞り出す。
 何も返せないまま彼らに背を向けて逃げなければならないことが、心の底から悔しかった。
 強く瞼を閉じて白い執事を脳裏に描く。


「あなたが望むのなら」


 ふと、ここにあるはずのない、聞き知った声が耳朶を打つ。それは被り物によって低くくぐもり、抑揚が削がれて感情が読み取りにくいものとなって、けれど素の声音はあまりに優しくてやわらかなそれだと、ビビは知っていた。


「何とか致しましょう、姫様」


 サボテン岩の裏へ続く道の真ん中に、肩にハリネズミを乗せた白い執事は静かに立っていた。上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物は少々間の抜けた顔に見えて、その下にある素顔はきっと小さく微笑んでいることをビビは疑わない。なぜなら執事はいつだって、そう言うときはそんな顔をしていたから。
 カルーがクオンの横を通り過ぎようとしたそのとき、ビビは大きく頷いた。

 瞬間、白が消える。

 思わずカルーの背に乗ったまま後ろを振り返ったビビは、視線の先で右腕の袖をまくったMr.5がミス・マンデーへ迫るのを見て。


「バロックワークスの───」


 Mr.5の低い声が響く。ミス・マンデーが突っ込んでくるMr.5へ丸太を突き出し、避けられて。
 白が、ミス・マンデーに足払いをかけて後ろへ倒した。ビビが何とか目で追えたのはそこまで。


「恥さらしがァ!!!」


 後は何がどうなったのか。
 Mr.5の怒声、耳をつんざく爆発音と共に炎が上がって─── 白い燕尾服が、爆風に煽られて翻る。
 振り上げた左の白い脚が、Mr.5の右腕を強制的に上へと跳ね上げているのが見えた。
 あのMr.5の攻撃を真っ向から受けただろうに燕尾服には焦げひとつついておらず、執事の肩の上で背中の針を逆立たせるハリネズミも当然のように無傷だった。

 足を払われて地面へと倒れ込み、自分とMr.5の間に割り入ったクオンを呆然と見上げていたミス・マンデーは、見上げた先─── 愛嬌があるようで妙に間抜けな猫を模した被り物をしている執事を目にし、くしゃりと顔を歪めてあふれそうになった涙を耐えた。





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