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 白い首が、高く高く、教会の屋根に据えられた十字架よりもさらに高く飛んでいく。斬られた勢いを殺せず、中空でくるりと一回転したそれは、上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模したもので、その左頬から額にかけて大きな刀傷がついている。
 クオンと名乗った執事が常に被っていた被り物は少々間の抜けた顔を月光のもとに晒し、ゆらりと傾いて落ちていく。

 手応えはあった。しかしそれは、あの執事の被り物を斬っただけだ。
 クソ、と舌打ちして無理やり体をひねったことで崩れた体勢を整え、身を低くして転倒を防いだゾロは、刀を構え直したときには既に目の前から白い執事が消え失せていることを認め、教会の屋根に据えられた十字架、その一番手前に佇む誰かに気づいて顔を上げた。

 いやにゆっくりと落ちてくる被り物を、誰かが白手袋に覆われた手を差し出して受け止める。白い燕尾服が微かな風にたなびいて、月光に照らされた顔をあらわにしたその人間を目にしたゾロは、息をすることも忘れて目を見開いた。




† ウイスキーピーク 3 †





 あまりに美しすぎるものを目にすると呼吸さえ止まることを、ゾロはその夜、初めて知った。
 極上の陶器さえ劣るだろう白くなめらかな肌は月光を受けて自ら光を放っているようで、ひとつひとつのパーツが絶妙なバランスで配置された人外じみた秀麗な顔立ちは絶美と評して尚足りず、こちらを見下ろすために僅かに伏せられた絹糸のような睫毛が影を作って婀娜あだっぽい。クオンが執事としてまとう燕尾服からしか性別が判らないほどに整いすぎた中性的な美しいかおに表情はなく、それが尚更人ならざるものの美しさを際立たせる。月光を受け、一本一本が星をちりばめたように煌めく短い髪はやわらかな雪色だ。同色の柳眉が前髪からちらりちらりと覗いている。閉ざされた唇は薄めで、しかし淡く色づいたそれはあまりに艶めかしい。
 そして、ゾロを真っ直ぐに見つめる、灰よりもさらに濃く深い鈍色にびいろだけが、被り物を外して尚、白さが際立つクオンの、唯一の色だった。その瞳に見つめられたら喜んで命を差し出す者が現れるだろう蠱惑のそれはしかし、夜の湖畔に似た静けさを湛えて熱を宿さない。

 ゾロは他人の美醜にこだわることはない。大事なことは剣の腕を磨き野望を叶えて約束を果たすことだけで、見目が良いものは良いと評するが、だからといって態度を変えることはないし、たとえ悪かろうとも何ら変わらない。
 しかし月光に照らされたその白皙の美貌は問答無用でゾロの思惟を奪い取り、戦闘中であることも忘れて全神経が十字架に佇むクオンに注がれた。
 あまりに美しいその人間はまるで、夜空に煌めく星そのものだ。思わず我を忘れるほど見惚れながらも刀を手放さずにすんだのは、魂に刻んだ剣士としての矜持だった。


「成程、私はあなたを見誤っていたようです」


 その声が誰のものか、理解するまで数秒を要した。形の良い唇が動いて男にしては耳当たりの良い涼やかで高めの音を奏で、鈍色の瞳が己の手にある被り物に注がれたことでようやく我に返る。被り物によって削られないクオンの素の声はゾロの鼓膜を叩いて脳にしみこみ、それを振り払うようにして刀を握る手に力をこめ直した。


「下りてこい、執事野郎。……続きやろうぜ」


 刀の切っ先をクオンに向け、不敵に笑って誘ったゾロは、ついと細められたクオンの目が透明なものであることに、そのとき初めて気がついた。
 クオンはゾロを見ていない。その鈍色の瞳は確かにゾロを映していながら、心までもは向いていなかった。おそらくここで初めて剣と針を交わした、あの瞬間から─── ゾロのこめかみにびしりと大きな青筋が浮かぶ。奥歯を噛み締めようとして、口に咥えた刀の柄がぎりりと音を鳴らした。
 ふざけている。まったくもって、この執事はふざけた存在だった。鷹の目を彷彿とさせる言動で動揺したのは己の弱さだ、鍛え方が足りない。しかし、その目が己を見ていないことが、見ようともしていないことが、抑え込めないほどにひどく腹立たしい。


(おれを見ようともしねぇでやり合おうってのァ、傲慢がすぎるだろうが)


 クオンはゾロと相対するのを「個人的な衝動」と言った。その真意は分からないが、少なくともこの町を壊滅に追いやったゾロ自身への興味や関心ではないことは明らかで、それもまた苛立ちに拍車をかける。あァ、あァ、本当にこの執事はふざけてやがる。やっぱりここで叩っ斬っておこうか。
 いまだ十字架の上に佇むクオンをぎらぎらと激情に燃える瞳で見上げ、口の端を吊り上げて凄絶に笑んだゾロは低い唸りを吐き出した。


クオン、あんまよそ見してんじゃねぇぞ。おれをよく見とけ、その首落とされたくなかったらな」


 貫くような剣呑さを帯びた言葉に、クオンの鈍色の瞳が僅かに見開かれる。しかしその小さな変化はすぐに元に戻り、左手で首を撫でたクオンは被り物を持った右手を返した。音もなく被り物が落ちてくる。

 ふいにクオンの姿が消えた。前か後ろか、それとも上か─── 考えるよりも先に、被り物が地に落ちると同時にゾロは前へ駆け出した。同時に、長く細い針を右手の指に挟んだクオンが目の前に姿を現す。はやさを利用して勢いをつけたその白い肢体は右腕が大きく振りかぶられていて、まさか正面から突っ込んでくるとは思っていなかったらしいクオンの、驚きに大きく瞠られた瞳に自分が映っていることにいささかの留飲を下げた。


 ギィン!!


 甲高い音が、ひとつ。
 ゾロは左手に握った刀で自分の心臓へ向けられたクオンの右手の指に挟まれた針を僅かに弾いて押し留めていた。下段から振り上げようとした右手の刀は、柄を握るゾロの右手にクオンの左手が翳されて止められている。触れずに・・・・止め・・られて・・・いる・・ことにクオンの持つ能力の一端を垣間見たゾロはしかし、己の右手の感覚に否とすぐに考察の一部を否定した。
 止められている、のではない。今も尚クオンの首を掻き斬ろうとする刀を握る手は、逆方向へと弾かれ・・・そうになっているのを、腕力だけで押し留めていた。びきり、手の甲に血管が浮くほど力がこもって刀の刃がほんの僅かにクオンの方へと寄り、白手袋に覆われた左手に力が入ったのを視界の端に捉えればすぐに動いた分だけ引き離された。
 口に咥えた刀はクオンの右の首筋を指1本分ほど距離をあけて左手の刀と同じように、けれど見えざる何かに止められている。鼻先が触れ合うほどの距離で顔を寄せ合いながら、互いに命の灯火に吐息を吹きかけんとする2人の間に流れる空気は鋭かった。
 間近で見るクオンの顔は称賛の言葉が出てこないほどに美しい。しかしその中に成熟しきれていない幼さが見えて、自分と同じくらいの歳なのだと知る。


「なぜ突っ込んできたのです。死にたいのですか?」

「やすやすとくれてやるつもりはねぇが、お前を斬るのに命を惜しむつもりもねぇ」

「それは何ともまぁ、光栄なことで。そして豪胆な方だ。……まるで私が来る方向を分かっていたような動きでしたが」

「勘だ」


 実際に説明のしようがないのですっぱり言い切ると、クオンの表情に呆れと感心がにじむ。それがあまりに容易に読み取れたから、もしかしたらこいつは思った以上に分かりやすい奴なのかとゾロに思わせた。そして表情が出れば人外じみたその白皙の美貌は驚くほどに人間くさくなる。目に見える美しさに変わりはないが、年若い少年のようなあどけなさが覗いた。

 一度瞼を伏せ、再び開いたクオンの鈍色の瞳がゾロに据えられる。先程までの透明さはどこにもなく、真っ直ぐに心ごと己に向いていることを認めてゾロは満足げに鼻を鳴らした。


「さて、剣士殿と戯れるのもなかなか有意義ではありますが、ここでお開きといたしましょう」

「嫌味か」

「本心ですよ」


 ふふ、とふいにこぼされた小さな笑みは被り物に隠されず夜闇に溶ける。形の良い唇が笑みの形にほころび、鈍色の瞳がやわらかく細められ、眦がゆるく下がるさまは無邪気なそれ、秀麗な顔には少しばかりのいとけなさがにじんでいた。この表情が嘘だというなら世界のすべてが信じられなくなりそうで、否応なくクオンの言葉が真実であると脳髄に叩き込まれて舌を打つ。

 クオンは針を握る右手から力を抜き、手首をひらめかせてゾロの刀を軽く弾くとその場から数歩離れた。戦意すらも霧散したクオンに刀を向ける気が削がれ、敗けはしなかったが勝ちもしなかったゾロは渋々刀を腰に差した鞘に納める。
 “バロックワークス”にケンカを売ったのだ、ミス・ウェンズデーの執事とはいずれまた相対するときがくるかもしれないから、そのときまで勝負は取っておくかと考えて。






 手拭いを外して左腕に巻いた、どこか消化不良を抱えたゾロの顔を横目に、クオンは内心で深く細いため息をついた。
 鷹の目がゾロを生かした理由が知りたくて挑んでみたものの、ゾロは予想以上に強かった。否、クオンと相対したあの短い時間で、加速度的に成長した。
 クオンはやさにはまだ追いつけていない。しかし反応速度は素晴らしく、繰り出される剣戟を捌けば体勢を崩してしかるべきであったのにゾロは耐え切った。
 心臓を本気で貫くつもりはなかったが死なない程度の傷は与えるつもりで、なのに半ば無理やり体をひねって針を斬られたのは、さすがに驚きを隠せなかった。
 顔を晒してしまったのは不可抗力だ。被り物を斬り飛ばされてしまったのなら仕方がない。あとで主にバレたら「私だって今日はまだ見てないのに!!!」と叫ばれて面倒なことになるに決まっているので黙っておくことにしよう。

 クオンがゾロを見ていない、と悟られたのは意外だった。この剣士は、思った以上にひとのことをよく見ている。─── いえ、とすぐ思い直す。相手の一挙手一投足を観察し動きを読んで対処する剣士だからこその観察眼だろう。
 真剣に向き合っている人間に対して礼を失していると自覚したクオンは、それでも切り替えがうまくいかないままゾロへと目にも留まらぬ速さで駆け出し、真っ向から迎え討たれて、「やすやすとくれてやるつもりはねぇが、お前を斬るのに命を惜しむつもりもねぇ」とまで言われたのならば認識を改めねばならなかった。
 そこまで真摯にクオンへ白刃に似た眼差しと刀を向けるのであれば、こちらもそれに応えなければ無礼が過ぎる。この男を前にすると、こちらも応えねばと思わせた。成程、もしかしたらこういうところが鷹の目に気に入られたのかもしれない。

 燃える瞳でクオンを見据え、実力差を感じながらも命を惜しまずそれを跳ねのけて白刃を届かせようとする、その愚直なまでに重い太刀筋を美しいと思った。もし叶うのなら、もう少しだけ傍で成長を見てみたいと脳裏を掠めた願いには気づかないふりをして。


「ああ、どうやら思った以上に夢中になっていたようです」


 無視できないほどに近づいた不穏な気配を認め、クオンはそう言って懐に手を入れた。ゾロに斬られた被り物と同じものを取り出して頭に被る。途端、「訪問する際にはアポを取ってほしいものですね」と呟いた、男にしては高めの、涼やかな声が低くなってくぐもる。声音に乗った感情が削がれて淡々とし、その差異にゾロは眉をひそめたが、クオンに遅れて妙な気配を感じたようでそちらへ意識が逸れたようだった。


「剣士殿、あなたは船長殿や他の仲間を回収してできるだけ早くこの町を離れてください」

「あ?」

「でないと、余計なことに巻き込まれますよ」


 足音を立てずにクオンが近寄り、ゾロの横に立ってすいと眼下を指差す。つられるように下を見たゾロが、先程自分が倒してようやく目を覚ました4人の他に2つの人影を目にして眉を寄せた。

 ゾロによって深い傷を負わされながらも何とか立ち上がったMr.8、そしていまだ立ち上がることができていないミス・ウェンズデーとMr.9と相対するように立つ男女は、ひどく癖のある髪型にサングラスをかけた黒いロングコートの男と、黄色の帽子とレモン柄のワンピースが目立つパラソルを差した女だ。
 Mr.5とミス・バレンタイン。クオンは彼らの顔を知っていた。彼らがただ助太刀にはるばるこの町までやって来たわけではないことも、もちろん。

 クオンはゾロを一瞥することもなくその場から飛び降り、ミス・ウェンズデーとMr.9の前に降り立った。クオン、とミス・ウェンズデーが呼ぶ声に被り物を被った顔を向けて応え、すぐに正面の2人へと顔を戻す。


「ご機嫌麗しゅう、お二方。今晩はどういったご用件でしょうか」

「お前は…確か、ミス・ウェンズデーの下僕」

「執事です」

「どうでもいい。多少腕は立つらしいが、所詮はミス・ウェンズデーの執事風情がおれに口を利けるほど偉くなったつもりか?おれ達は任務を遂行しに来ただけだ」

「では、何の任務で?ご覧の通り、少々立て込んでおりまして。後日またアポイントを取ってご来島くださいませ」


 両腕を広げて現状を示し、あくまで丁寧な物言いで腰を軽く曲げて礼を取る。優雅な仕草なそれに相反するように被り物越しに耳朶を打つ声音は低くくぐもり感情が何も乗っておらず、飄々とした声音があしらうようで、それがMr.5の機嫌を損ねたようだ。こめかみに青筋が浮いてサングラスの向こうから殺気じみた視線が飛んでくる。しかしそれに肩を竦めることすらせずクオンは静かに礼を解いた。チッとMr.5が舌打ちひとつ。


「心当たりはねぇか?社長ボスがわざわざこのおれ達を派遣するほどの罪…」


 苛立ちながらも己の優位を疑わないMr.5は綽々と告げる。社長ボスからMr.5とミス・バレンタインへ与えられた言葉は、「おれの秘密を知られた」。どんな秘密かはもちろん知らないと続けたMr.5は、余裕を表すようにゆっくりと腕を組む。
 クオンは己が身で主を庇いながらも針を指の間に構えて臨戦態勢を取ることはなかった。今はまだ、様子見だ。


「我が社の社訓は“謎”…社内の誰の素性であろうとも決して詮索してはならない。ましてや社長ボスの正体など言語道断」

「それでよくよく調べ上げていけば、ある・・王国の・・・要人・・がこのバロックワークスに潜り込んでると分かった」


 Mr.5に続いて口を開いたミス・バレンタインに、やはりバレていましたか、とクオンは被り物の中で小さくため息をついた。慌てて立ち上がって「おれは冠を被っているが決して王様なんかじゃないぞ!!!」と己のアイデンティティを投げ捨てるような発言をしたMr.9は置いておこう。

 それよりも、さて、どうするか。
 クオンは主とその相棒であるカルガモ、Mr.8の気配を探る。それぞれゾロにやられたせいでダメージは負っているが、このまま殺されるくらいなら死に物狂いで逃げてくれるだろう。


「罪人の名は、アラバスタ王国で今行方不明になっている───」

「死ね!!! イガラッパッパ!!!」


 その名をMr.5が紡ごうとした瞬間、口を塞ごうとMr.8が巻き毛の中に隠した散弾銃を放った。途端轟音と共に天を衝くほどの土煙が立ち昇る。トッ、と軽い音を立ててハリネズミが肩に飛び乗ってきたのをクオンは感覚で捉えた。
 迎撃か、逃亡か。とりあえず明らかな背信行為を取ってしまった以上、バロックワークスの人間が集うこの町にいることは危険だと判断して逃亡を選択する。
 この町の人間のひととなりは知っている。気のいい連中が多いが、だからといって彼らもまた社長ボスに逆らうとは考えにくい。そしてできれば、クオンは彼らを無駄に傷つけたくはなかった。
 だから選んだのは逃亡で、主さえ先に船へ乗せてしまえば後はクオンが2人を倒して出航すればいいと判断を下す。


「姫様、逃げますよ」

「でもイガラムが!」


 主を立たせ、抱き上げようと手を伸ばすクオンにミス・ウェンズデーが叫ぶ。
 Mr.8、その正体アラバスタ王国護衛隊長イガラムを気にする主の隣で、いったい何の話をしているのかとMr.9が疑問符をたくさん飛ばしているがそれに答えている暇はなかった。


「お逃げください!!クオン、どうかその方を…!!」


 イガラムが叫び、それに応えて問答無用で主を抱えたクオンがその場を離れようとしたそのとき、頭上から降ってくる人間に気づく。土煙の向こうから現れたのは、ミス・バレンタインその人だ。
 クオンは右手で主の頭を胸元に引き寄せるようにして伏せさせ、横から薙いでくる彼女の足を針を構えた左手で受け止めた。痩身の女性の横蹴りにしては重いそれはしかし、クオンの手を痺れさせるほどではない。つい先程まで相手にしていたゾロの一太刀の方が比べものにならないほど重いものだった。


「執事風情が…邪魔をしないでくれる!」


 目を吊り上げるミス・バレンタインを、左手の指の間に挟まれた針を横殴りに振るうことで払う。
 クオンは空高く跳び上がった彼女を一瞥し、おもむろに主の髪飾りに指を添えた。どうせ正体はバレているのだ、ならば自分の趣味ではないこの髪飾りはなくてもいいだろう。


クオン?」


 どうしたの、と見上げてくる主を被り物の下で優しく見下ろしたクオンの胸中には、前髪は下ろしていた方が可愛らしいですし、という利己的な考えも、もちろんあった。





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